3.影の軍勢
ライルの全身にすさまじい悪寒が走った。
村の外れ、だが確かに村の柵の中。
その村の中の、蠢く影が、赤い瞳を持っていた。
まるで背中に氷水を大量に入れられたかのように体が強張り、妙な汗が出る。
「レオ……下がるんだ」
「で、でも俺だって!」
「人を呼ぶんだ! 早く! じゃなきゃ死ぬ!」
ライルは怒鳴った。
震える足と手を、誤魔化すように怒鳴った。
レオナルドはびくりと体を震わし、一歩また一歩と下がる。
「で、でもにいちゃんを置いてなんて……」
レオナルドがためらったそのとき。
影から、多腕の化け物が飛び出した。
「ギィイイイイイイッッ!!!」
金属をこすったような耳障りな声。
目の前に黒い刃が迫った。
「うぁわああああああああッッ!!」
目を潰されそうになったライルだったが、幸運にも足を滑らせ転んだため、すんでのところで回避した。
(死ぬ死ぬ死ぬっ!)
過去のトラウマから、パニックに陥り過呼吸になる。
あっけなく腰を抜かす。
視界がチカチカと滲む。
死の恐怖で、一瞬で戦意を失いかけた。
でも――
「にいちゃんッ!!」
弟の声が、ライルを一瞬正気に戻した。
背後で、泣きながら、でもそれでも立ち向かおうとするレオを見て。
ライルは、唇を噛んだ。
(ふざけんな……死んでたまるか! こんな奴にいつまでも逃げてばっかいられるか!)
目の前で黒く蠢く人型の化け物。
一つ目で4本ある腕は全てに鋭い爪が付いていて、薄い鉄ならいともたやすく切り裂くだろう。
全身からは絶えず、黒い粒子を放って光を遮り、自らの領域である影を増やそうとしている。
熟練の戦士がようやく倒せる化け物。
それが【影の軍勢】。
――この世界の敵だ。
いつかレオナルドと戦う敵だ。
「レオ! 早く行け!!」
勇気を振り絞り、ライルは叫ぶ。
「でも!」
「にいちゃんを信じろ!」
「っ!」
レオは歯噛みする。
逡巡した後、彼はライルに背を向けて、全力で地面を蹴った。
1人きりで、トラウマである影の軍勢と対峙する。
生物とは思えない、大きな赤い一つ目。
容易く命を刈り取る4本の腕。
だが、それでもライルは剣を握る。
――そして、影に向かって駆け出した。
「うああああああ!!」
走った勢いそのままに、剣を突き出した。
剣はずぷりと影の軍勢の胴に突き刺さる。
だが――敵は平然と動いていた。
鋭い爪を備えた4つの腕が同時に襲い掛かってくる。
動物とは違う、知恵を持ち、本気でこちらを殺そうとしてくる動き。
ライルは恐怖で体が強張り、同時に襲い掛かる腕をさばききれずに傷を負う。
「ぐあっ!」
肩と脇腹に突き刺さった腕。
猛烈な痛みと熱、そして恐怖が湧き上がってくる。
泣きながら、それでもライルは自分の体に突き刺さった腕を切り落とした。
「――クソ!」
2本の腕が切り落とされた影の兵士は、距離を取った。
ライルは追おうとしたが、一瞬湧いた恐怖で飛び込むのをためらってしまった。
その一瞬が、影の兵士に攻撃する隙を与えることになると理解していたのに。
影の兵士の赤い瞳から、赤黒い光が飛び出した。
「っ!? うああ!?」
影の兵士の赤黒い光線がライルの足に突き刺さる。
悲鳴を上げて膝をつく。
太ももから熱い血があふれた。
「ギギィッ」
まるで獲物をいたぶるように、影の兵士は腕を蠢かせながら、もう一度瞳に赤黒い光が宿り始めた。
足はもう動かない。
恐怖と傷で、もう立てない。
それでも――――手は動く。
「ああッ!」
ライルは持っていた剣を振りかぶり、ヤケクソ気味に影の兵士に投げつけた。
ライルが投げた剣は正確に影の兵士の瞳に向かった。
だがそれはいとも簡単に、黒い腕に弾かれる。
――はずだった。
「ギィッ!?」
ライルの剣はボロボロで、影の兵士が乱雑に払った瞬間に中ほどから折れ、切っ先側が影の兵士の首元に突き刺さったのだ。
「ギィギィアアッ!?」
不快な泣き声を喚き散らす影の兵士。
初めて見た影の軍勢の明確な隙。
なにかないかと、周囲を見る。
影の兵士の近くに、折れた剣の柄側が落ちていた。
(もう、これしかないっ!)
ライルは込み上がる恐れを歯を食いしばって耐え忍び、足に鞭を打って駆け出した。
「うおおおおおッッ!」
足を引きずりながら。
途中にあった剣を拾いながら。
影の兵士に突っ込んだ。
それに気づいた影の兵士が再び瞳に光を宿す。
だがそれでもライルは足を止めない。
そして、影の兵士の瞳がライルを射抜いた瞬間、ライルの剣が影の兵士の赤い瞳に突き刺さった。
影の兵士の絶叫とライルの雄叫びが絡み合う。
黒い腕は痙攣し、ライルに伸びる。
その腕がライルの首に届く――直前に腕はボロボロと崩れて消えた。
瞳は赤く明滅し、ゆっくりと消え失せ、黒い粒子になって消滅していった。
「はっ、はあ、はぁっ」
赤い血と折れた剣だけがその場に残る。
それ以外はいつもの村の光景だ。
静かな村の片隅で、自分の荒い息だけが聞こえる。
――勝った。
力が抜け、地面に身体を投げ出した。
「は、はは、ははははは!」
徐々に湧いた実感に、笑いがこみあげる。
怖かった、トラウマだった影の兵士に打ち勝った。
自分が強くなれたことに、ライルは感動していた。
安堵か疲労か、ライルはゆっくりと意識を沈める。
――直前に、遠くでレオナルドの声が聞こえた。
◆
影の軍勢に襲われ撃退した後。
意識を失ったライルは、助けを呼んだレオナルドによって村の病院に運ばれた。
ライルが意識を取り戻したのは、半日が経った真夜中だった。
「んっ……ぃてっ」
けだるい体に走った痛みで、ライルはすぐに覚醒した。
暗い病室。
明かりは少なく、周りはよく見えない。
でも自分の手に触れている暖かい手にはすぐに気づいた。
「レオ……」
レオナルドが手を握ったまま、ベッドに体を預けて眠っていた。
いつも通りの家族の寝顔。
無事なのだという実感が溢れ出す。
心底生きていてよかったと、ライルは思う。
ちゃんと帰ってこれたのだと安心し、深く安堵の息を吐く。
「はぁ~」
「……ォォォオオオ」
「ん?」
安堵の息に紛れて、何か外から聞こえた気がした。
ライルは耳を澄ませるも、それからは何もなかった。
耳を澄ませているうちに、いつの間にかライルは意識を手放していた。