2.兄として
朝霧が肌を冷たく湿らせる山道。
木々の隙間から射す陽光は淡く、視界の端に白い揺らぎを宿す。
黒い影の軍勢に蹂躙された村から逃げ出し、弟の叫びを胸に刻んでから――もう一年が経っていた。
村を燃やされたあの日から、憑りつかれたようにライルは自己鍛錬に励んだ。
今日もまた鍛錬を兼ねて、山に狩猟に行った。
「イノシシくらいなら狩れるようになったな」
小柄なライルは肩にずしりと食い込む肉塊の重みを感じながら、湿った苔を踏んで村を目指した。
獣の匂いが道中ずっと鼻腔をくすぐる。
「ただいま戻りました!」
「おぉ! ライル坊! 今日も立派なのを捕まえてきたな!」
村へ戻ると、門番をしているひげを生やして簡素な槍を携えたおじさんに気さくに迎えられた。
「ヘイズルさん。はい、狩人証」
「おう、毎度律儀にあんがとよ」
門番であるヘイズルは笑顔で証を受け取り、村に入っていくライルを見送った。
ライルは笑顔を浮かべたまま、村の人たちに挨拶していく。
「ライルじゃないか! 怪我はしてないかい?」
「平気だよ、ペンタおばちゃんこそ体を大事にしてね」
「はっはっは! ライルよ、狩りもずいぶんとうまくなったな!」
「ヘンリクスさんの教えのおかげですよ。おかげで強くなれました!」
「まだまだ精進しろよ!」
気の知れた村人たちとあいさつしながら、ライルは村の役場を目指す。
小さな村では、イノシシ1頭でも狩れば村人全員の朗報だ。
裁くにも換金するにも村の許可がいるのだ。
「失礼しまーす」
「あ、ライルくん!」
村役場の扉を開くと、閑散とした受付に身を任せていた女性エレンが身を起こし、笑顔を浮かべた。
顎のラインで切りそろえられ茶髪と制服越しでもわかるくびれたスタイル、朗らかな笑顔で人気のある彼女は、ライルを見ると立ち上がって手を振った。
「ライルくん、今日は立派なのを狩ったね。怪我してない?」
「もう初めてじゃないんですから、平気です。これいくらになりそうですか?」
「ちょっと待っててね、査定してもらうから」
ライルが荷車にイノシシを置くと、エレンは荷車を引いて奥に持っていった。
しばらく待っていると、再び荷車を引いたエレンが戻ってきて、イノシシと一緒に一つの書類をライルに手渡した。
「はいこれ、大体の査定額。解体屋さんに持っていけば、手数料と引き換えに解体してくれるわ。解体した後は査定額通りに役場が買い取ります。狩ったのはライル君だから、もし必要分があったら、売らずに手元に置いておいてね」
ライルは解体屋に行き、必要分の肉を譲ってもらったのちにようやく自分の家に帰る。
5畳程度しかない狭い部屋一つ。そこに弟であるレオナルドと一緒に住んでいる。
ライルが家の前につくと、家の近くの井戸で洗い物をしていたレオナルドがいた。
「あ、にいちゃん!」
ライルを見つけると、パッと笑顔を咲かせた。
レオナルドは兄と同じ紺色の癖のある髪、くりくりと光る青い瞳と爛漫の表情で愛嬌を振りまく。
レオナルドは、桶にいれていた洗濯物をほっぽらかして、ライルに飛びついた。
「にいちゃん! おかえり!」
「ただいま、ライル。いい子にしてたか?」
「もちろん! にいちゃんみたいになりたくて、今日も頑張ったんだ!」
ライルもまたレオナルドの頭を撫でまわした。
ライルとレオナルドは実の兄弟だが、親の顔を知らない。
記憶を取り戻す前から、物心ついたときから、ずっと二人は一緒だった。
(生きるために、レオのためにも頑張らないとな)
たった一人の家族のために。
ライルはたしかにこの世界の人間として生きていた。
ライルの迎えをしたレオナルドは洗濯に戻り、ライルも一度井戸で顔を洗う。
そしてすぐにまた剣を握った。
(強くならなきゃ。今のままじゃ影の軍勢がやってきたら、何もできずに死ぬ)
かつての村の惨劇がずっと頭から離れない。
狩りから戻った直後でも、必死にライルは剣を振った。
(本当はリーチも重量もある槍がよかったけど、まだ身長が足りないから振れないんだよなぁ)
ライルの身長はまだ150程度。年齢的には12歳である
(……振るたびに、あの日の炎が脳裏を焼く。勝てる未来が見えない)
転生直後の光景が脳裏に焼き付いて離れないライルは、それでも必死に剣を振る。
(ゲームの動きを真似する感じで振ってるけど、我流もいいところだよな。魔法とか祈祷とかもないし)
転生前にプレイしていたゲーム「ワールドリング」では、武器種によって攻撃モーションが変わり、それぞれに【秘技】と呼ばれる固有の必殺技があった。
武器以外にも魔法や祈祷といった遠距離系の攻撃手段もある。
レベルアップに応じてHPやMP、スタミナといった基礎ステータスがあがり、またレベルアップ時に獲得できるポイントによって、筋力、技量、知力、信仰といったパラメータを上げることができる。
だがまだ、ライルは魔法や祈祷を見たことがない。
使えるのは、なけなしのお金で買った剣のみだ。
(ステータスオープンとか言ってみたけど、恥ずかしい以外になんにもなし。自分の状態がわからないんだよなぁ)
このあたりはやはり現実なんだなと、記憶があってもライルはこの世界をゲームと同じと思うことはなかった。
「……」
(……ん?)
素振りをしていると、背中に視線を感じた。
振り返ると、洗濯を終えたレオナルドがじっとライルを見つめていた。
「どうした? レオ」
「俺もにいちゃんみたいに強くなりたい!」
ライルが素振りを中断すると、レオナルドは駆け寄ってライルが持っていた剣を持とうとした。
ライルはレオナルドから剣を取り上げる。
「こら、これはおもちゃじゃないんだ。本当に危ない物なんだぞ」
「わかってるよ! でも俺だってにいちゃんと一緒に戦いたい! 強くなりたいんだ!」
ライルは一度考える。
だが明らかにライルの剣はレオナルドの体格に合っていない。
レオナルドは今年11で、まだ身長が140くらいしかないのだ。
家にレオに合った剣はなく、稼いだ少ないお金は成長期を迎えた男子の食費と雑費で全て消えている。
なによりもライル自身、レオナルドを戦わせるようなことはしたくなかったのだ。
「レオ、戦うなんて危ないことは俺がする。レオにはレオにしかできないことがあるんだ」
「俺にしかできないこと? 家事なんてできるよ!」
「家事も戦いも一緒だよ。レオがいるから俺は全力で戦えてるんだ。だから危ないことをしてほしくない」
「……本当に?」
「ああ」
頭を撫でながら説得すると、レオナルドは落ち込みながら、渋々頷いた。
だがそれでも、あまりにもいじらしい目でライルの剣を見続けるレオナルドに、さすがのライルも根負けしてしまった。
「わかった。じゃあお金が溜まったら、今度レオのための剣を買ってあげる。護身くらいはできたほうがいいし、レオも自分専用の剣の方が嬉しいだろ?」
「ホントに!? やったー!」
落ち込んだ表情から一転して、輝いた笑顔を浮かべるレオ。
ライルとしては苦渋の決断ではあったが、喜んだレオの顔一つで、よかったのだと思うことにした。
(でも、レオはまだ子供だ。……それに、レオがいつか危ないことをしそうで怖い)
かつて、襲われた村を無謀にも助けようとしたあのときのように。
心によぎった不安。
だがだからレオナルドが主人公なのだと、とライルは半ば無理やり自分を納得させる。
だが――
(レオが主人公だろうが何だろうが、たった一人の家族を危ない目になんて合わせられるもんか)
無邪気に喜ぶレオナルドを見て、ライルは思った。
こんな素直で可愛らしい弟を持てて自分は幸せだと。
そんな弟を戦わせるなんて最低だと。
ゲームのことなんか、どうでもよかったのだ。
「あ、そうだ兄ちゃん!」
はしゃいでいたレオが、思い出したように止まる。
「にいちゃんの剣もボロボロだよね。新しいの買わなくていいの?」
「え? ああ、そういえば……」
手に持っている剣を見る。
手入れをしては入れど、なけなしの金で買った安物の剣。
柄の皮はほつれて固くなり、握りにくい。
刃も使い込みすぎて片刃がつぶれている。
今にも折れてしまいそうなほど、その剣はくたびれていた。
「まだいいさ。ケモノ相手ならこの剣でもなんとかなるし、素振りなら関係ないし」
「そうなの? 俺も剣欲しいけど、でもにいちゃんのほうが必要だし……」
「気にするなよ。いざとなったら石を割って槍でも作るさ」
物語の主人公たる弟と本来存在しないはずの兄。
歪な兄弟は、不自由や悩みを抱えながらも、それでも仲睦まじい生活を送っていた。
――だが、その平穏は徐々に崩れ始める。
ざわりと、ライルは首筋をそっと撫でられるような悪寒を感じた。
「ねえ、にいちゃん……」
「ああ……」
呼びかける声に振り返る。
レオナルドがある場所を指さした。
魔物対策の村の柵、その隙間の小さな影。
——黒い影、多腕をもつ赤い瞳が影から浮かぶ。
異形の化け物が、じっと二人を見つめていた。
あの日と同じ黒い影。
――ライルはぎゅっと剣を握り直した。
ある戦士の手帳:【影の軍勢】
我が斥候隊は夜闇を安堵と勘違いした。
最後に見たのは、自らの影から伸びる無数の腕と、一瞬だけ煌めいた赤い瞳――逃げ場など、最初から存在しなかった。
影の粒子が心を侵し、我々は自分の名すら忘れていった――(手帳はここで途切れている)