第一話 女神の膝は俺のもの
草木をやさしく潤わせる雨が降っている。
薄く霞がかった視界では、森の木々が静かに佇んでいるようだった。
葉に当たる無数の雨音が耳に心地よく響き、雨天でも至福のひと時と感じられる。
軒下のベンチで横になりながら、ガレルはそう思った。
彼は今、ある娘の膝へと世話になっている。
背丈は青年と同じくらいだろうか。長く美しい金髪、ハーフアップでかき上げた部分へは木の葉でデザインされた金色の髪飾りでとめていた。透き通るような白い肌に、薄手の白いワンピースが良く似合っている。
娘は膝の上の黒髪を触り、時には親しく撫でながら囁くように話し掛けた。
「まだ止みそうにないですね、ガレル様」
「ああ。でも、これぞ恵みの雨って感じでいいじゃないか。いや、女神の雨っていった方がいいのか?」
ガレルといわれた青年は深く落ち着いた声で返答する。
すると娘が少し微笑んだような気がした。
「いいえ、これは自然の雨ですわ。この土地の気が幸せに満ちているのが分かります」
「そうか。作物を育てている身としては、ありがたい事だよ」
二人は雨音に耳を傾けながら、しばらく楽しんだ。
そうして娘は、ガレルの顔を覗き込むように問いかける。
「今日は一日ゆっくりされますか?」
「そうだな……。夕食の下ごしらえと、風呂の準備かな。恵みの雨だが、身体が冷えても困るしな」
「わかりました」
「それまではこの膝の上で昼休憩だ。ここは何とも心地いい」
伸びをして力を抜くと、右頬から娘の体温が浸透してくるようだった。
「それはとっても光栄です。今はガレル様だけの膝ですよ」
「ああ、ありがたい。……それはそうと、テルディナ」
「はい、なんでしょう」
「お前さ、そろそろ帰ってもいいんじゃないか?」
ことは一カ月前にまで遡る。
ガレルは一人この土地で暮らす十八歳の青年だ。
両親は若くして他界し、以後は畑と家を引き継いで暮らしている。
街までは徒歩で往復六日は掛かるし、来訪者もいないので常に一人だ。
一年を通して野菜の収穫もあり、家の裏手では川魚も獲れる。孤独ながらも平和で充実した日々を送っていた。
ある日、収穫を終えて森林で薪拾いをしていると、見慣れない木の実が付いていた。
小さなオレンジ色の実で、高く上の方に数個なっている。
不思議に思いながら見回すと、今度は目前で気が付いた。
艶やかに光る朱色の木苺が茂みに色ついている。
(……木苺、だよな。にしても色が鮮やかすぎるけど)
一つ食すと、驚くような食感と甘みが広がったので、いくつか摘み取って持ち帰った。
翌朝は大変目覚めが良く、身体は羽のように軽かった。妙に気分も落ち着いている。
朝食と準備を済ませ戸口から出ると、やはりどうも違っていた。
腕や首を回してみたり、軽く跳躍してみても、すこぶる調子は良い。
(なんか頭の中もすっきりするなぁ。森の緑も色鮮やかに映るし……。俺のスキルはどうだろう)
この世界では魔法が存在するが、青年には全く才能はなかった。その代わり植物を発芽させるという能力だけは備わっており、一人で生活する上で重宝した。
右手を開き眼前で集中させる。全身の気を巡らすように掌へと意識した。すると、普段は数十秒掛かるところが、発動できる状態にまでなった。気の流れも安定している。
(おっ、なんかスゴイじゃん。今日ははかどりそうだ)
軽い足取りで出発したガレルは、森を散策し、苗木を植えて回った。苗木の後には発芽スキルで草を生やす。こう馴染ませることで、初動の手助けも完了だ。
昼食後の休憩を兼ねて寝転んでいると、高く木の上にまた別の実がなっていた。
(また何か見慣れない実がある。……。今度は桃色か。薄く透き通って見えるような……)
目を凝らして眺めていると、何かが瞬いた気がした。
すると、その実がどんどん近づいてくるのが見える。
(ん? どんどんでかくなってるような……。って、おわっ!?)
避ける間もなく大きな音を立てて、桃色の実が顔面横に降ってきた。
風圧と共にドスッ、と鳴った割に潰れてはいない様子だ。
「……あ、危ねぇ。一体何が降ってきやがったんだ」
確認しようと首を回すと、果実越しに一人の娘が立っていた。
とても申し訳なさそうな表情で立っている彼女は、村娘という恰好でもなく、見かけたことのない顔だった。
そもそも、一度でも見ていれば一目惚れするほどの超美人だ。
「あっ、あの……。すみませんっ!」
金髪碧眼で白い肌、肩の出ている薄手の白いドレスを身にまとった彼女は、ぺこっと頭を下げた。
長い髪が少し舞い上がり、胸元に付けた青いアクセサリーが印象的だった。
「私の力が及ばないせいで、制御を誤ってしまいました。危ない目に遭わせてしまって、申し訳ございません」
「……ああ、いや大丈夫、俺にも怪我はないよ」
よいしょ、と声を出しながらガレルは立ち上がる。
ズボンと背中の木の葉を払っているガレルに、娘が近づいてきた。
「ご無事で何よりです」
「ああ、俺も果実の汁まみれになるとこだった。……はは。俺はガレル、この山で一人暮らししてる者だ」
「申し遅れました。私、テルディナと申します。この地区の女神をしております」
驚きの事実ではあったが、ガレルは娘の話を真摯に受け止めた。
なんでも、落とした実は至極貴重なもので、百年に一度実るかどうか、という代物らしい。
神界では長く成功しなかったが、自分の管轄する人間界での土地が適任だったようだ。
別の四種が見事に色付いたので、例の落下した本命の果実を植えこんだ。
その収穫の際に力の制御を誤った、というのが一連の出来事だった。
再び場面はベンチでの膝枕に戻るが、テルディナは泣きそうな眼をして訴えた。
「――そ、そんなっ。ガレル様は私のことがお嫌いですか?」
どこか計算高く芝居がかった雰囲気が見え隠れするが、哀しむ女神を一蹴できなかった。
芳しい香りと息遣いに飲まれそうになったが、ガレルは冷静に答える。
「いや、そうじゃなくてだな。その、女神様も色々と忙しいだろう? いつまでもこんな男の――」
「大丈夫ですっ」(ニコッ)
「天界に帰って、自分の仕事とかも――」
「問題ありませんっ」(キラッ)
「お前のまいた果実は全部収穫したろ? ……あの例の落ちてきたやつは置いといて」
「……私のこと、お嫌いですか?」(しゅん)
「って、話が戻ってるじゃねーか!」
「私は身も心も捧げるといってますのに、ガレル様はあのペルシカの実をくださらないんですもの」
「……それな。悪いがあんな話を聞かされちゃ、ほいこれとあげる気がなくなったんだよ。この土地でいざという時に必要そうだ」
「けれど、種子は私がまいたものなんですよ」
ガレルの髪から頬へと手を移したテルディナは、軽くつねるような仕草で抗議した。
この行為もどこか遊んでいる。
「確かにそうだが、育ったのは俺の山だろう? それはやっぱり俺のものなんだよ。他の実はあげたし、ここいらで諦めろよ」
「ひどいです。では私のお腹にいるガレル様の種子は、私だけの子ってことになりますよ?」
「ちょっと、待て! 人聞き悪いこというなっ」
「ふふふ」
「……やれやれ。女神様ってのは、みんなこうなのか?」
「いいえ、私は少し気まぐれかもしれません」
「ま、とにかくだ。あの桃色透明のペルシカの実ってのは、やっぱ保留だ。近頃森が獣害に合ってる箇所が増えてきたし、万が一の天災にも備えたい。管理する者としてはやっぱ譲れない」
「そうですか……。では、これからも宜しくお願い致します」
テルディナは目を閉じると、ガレルの額にそっと口付けをした。
神の世界でさえ滅多に実ることのないペルシカの実。
偶然か必然か、ガレルの土地で運よく実をつけた果実を巡って、常人のガレルと天然気まぐれ系の女神とがじゃれ合うように白黒つけようとしている。
だが、ガレルの懸念通り、暗い影が歩み寄っていることを二人はまだ知る由もなかった。
「……あ、赤くなりましたね」
「いゃ、うっせーよ!」