別離 ~べつり~
5/1更新分「中」を分割した後編になります。
内容は変わっていません。
続きは5/8更新となります。
「なんだって…?」
一瞬頭の中が真っ白になった。
「いつだ?!誰の元に…っ?!」
急に肩を掴まれメイドが「ひっ…」と声を上げる。
「い、一週間ほど前です。急に縁談が決まったそうで…。あまりに突然の事で私たちも驚きました」
「どこに…誰の元に嫁いだのだ!!」
「…それは…分かりません…っ。若い使者の方が夜更けにやってきて…そのまま。領主様は何もおっしゃいませんでしたので…」
「……くっ!」
僕はその足で領主の元に向かった。勢いよくドアを開けると領主…ベアトリーチェの父親は顔を上げ「おや?」という顔で僕を見た。
「これは、パイロン様。いかがなさいましたか?何か忘れ物でも…?」
馬鹿にしたような慇懃な態度が妙に癇に障った。
「どういうことだ、領主…。ベアトリーチェが嫁いだというのは本当なのか?」
極めて冷静に対応できたのはここまでだった。
「ああ、その事ですか。ええ、本当ですよ。急にいい縁談が舞い込みましてね。でもそれがどうしたんです?あなたには関係のない話ではありませんか」
せせら笑うような物言いについ頭に血が上った。
「ふざけるな!僕とベアトリーチェは愛し合っていた!!それはあなただってうすうす気づいていたのではないのか?!」
感情のままに声を荒げる僕に領主は嘲るように答える。
「ほう、そうだったのですか?それは初耳ですな。いや、驚きました。でも残念ながら娘はもうここにはおりません。あの子も納得した上で望んでここを出て行ったのです。ですから、どうか娘の事はお忘れください」
「……ベアトリーチェはどこに嫁いだのだ」
「それを聞いてどうするおつもりですか?」
「連れ戻すに決まっているだろう…っ?!彼女が望むなど…そんな事がある訳がない!!」
壁に強く拳を叩きつける。これまで生きてきて自分にこんなに激しい感情があるなんて知らなかった。領主はそんな僕を冷ややかに見つめると、思いがけない言葉を投げつけてきた。
「婚約者がいる身で、どの口がそれを仰るのですかね…?」
「……っ!!」
領主は呆れたように息を吐くと、侮蔑の目で僕を見た。
「あなたは私の娘を側室にでもするおつもりだったんですか?驚きましたよ、パイロン様。貴方のように清廉な方がまさか二股をかけていたなんて…。娘もかなりショックを受けておりました」
「言ったのか…?ベアトリーチェに…」
「ええ、黙っている理由はありませんからね。でも、そのもの言いからすると事実のようですね」
「違う!!確かに婚約は結んでいた…。でももうそれは終わった話だ!」
そう確かにあの日、父は僕に破談の約束をしてくれた。
「しかし、ベルゲン様はそのようには仰っていませんでしたが?」
「え…?」
急に出た父の名に、熱くなっていた頭が一気に冷える。
「あなたとヘイズ家の婚約は解消されてはいませんよ。今も昔もあなたの婚約者はアリシア嬢です」
「そんな……っ」
眩暈がした。父の言葉は…あれはそう言う意味ではなかったのか…。
「なんにせよ、あなたにできる事はありません。用がお済でしたらどうぞお引き取り下さい。また三月後にお会いしましょう」
マールムを後にした僕は抜け殻のようになっていた。心配したドーソンが馬車に同乗するが、かける言葉が見つからないのか馬車の中に沈黙が続く。
「ドーソン…」
僕は感情の伴わない声で彼の名を呼んだ。
「ベアトリーチェを探してくれないか…?謝らないと…彼女を傷つけてしまった。僕が愛しているのは君だけだと…そう伝えないと…」
「パイロン…」
ドーソンの顔が苦し気に歪む。その顔の理由を、この時の僕はまだ知らない。
重苦しい空気に包まれたまま、馬車は王都への復路を急いだ。
あれから4年が過ぎた。
僕は26歳になり、昨年国王になったローライの右腕になるべく、宰相職の実務のほとんどを熟すようになっていた。名実ともに父のあとを継ぐのも時間の問題だろう。
ローライはルイーズ様という伴侶を迎え、精力的に国政に取り組んでいる。
そして僕も……。
昨年婚姻を結び、アリシアという伴侶を得た。
ベアトリーチェの行方は依然として掴めなかった。国内はもちろん国外まで捜索の手を伸ばしたがその足取りはまるで分らなかった。唯一行方を知っているであろう彼女の父は頑なに口を閉ざしたまま、今日までのらりくらりと言い逃れを続けている。その後ろで父ベルゲンが手を回していた事実に僕はこの頃ようやく気が付いた。
彼女を失ったばかりの頃、僕は廃人のように毎日を過ごした。食事も喉を通らず夜も眠れず、もちろん仕事だって手につくはずもなかった。赤い髪の少女の目撃情報が入る度、我を忘れて駆け付ける。それが別人だとわかる度、抜け殻になる僕をドーソンは嫌な顔一つせず連れ帰ってくれた。『白き乙女』の捜索も『アルテイシアの呪い』ももうどうでもよくなっていた。三月に一度必ず訪れていた視察もやがて人に任せるようになり、次第にそれすら業務の対象から外した。もうあの地に足を運ぶことは金輪際ない。僕にとってあの地は忌まわしいだけの存在となった。
彼女は今どこで何をしているのだろう。幸せに暮らしているのだろうか…。
ずっとそればかり考えていた。
数か月も経つと僕は徐々に日常を取り戻していった。食べて寝て、職務を熟す。ただそれだけを無機質に機械的に行っていくうち、心だけがじわじわと死んでいった。もう、何もかもがどうでもよかった。
アリシア嬢との婚姻もそれの延長だった。相手がベアトリーチェでないのなら、誰でも一緒だった。そこに愛はないのだから。
「どうした、パイロン?そんな浮かない顔をして。俺の当主就任のパーティーだぞ。嘘でももっと楽しそうな顔してくれよ」
学生時代の同級だったブランドン=ウェズリーが酒を片手に僕の首に手を回す。
「どうした?お前去年、結婚したばかりだろう?もう奥方とうまくいってないのか?」
その言葉に僕は曖昧に微笑んだ。表面上は優しく接しているつもりだが、心はそれに伴っていないのは明らかだ。それがアリシアを傷つけている事は十分に理解している。
「いや、そんな事はないよ。それより男爵領は今年も小麦が大豊作だな。ここの小麦は質がいいから今年も高値で取引されるはずだ」
僕が話題を切り替えた事に何の違和感も覚えずブランドンが乗ってくる。
「そうだろう?前国王のお墨付きだからな。おかげで俺は何の苦労もなく男爵様だ。おい頼むぞ、パイロン!!これからもここの小麦を贔屓にしてくれよ!」
バシンっと背中を叩かれ、ブランドンがあいさつ回りに戻る。僕はため息を漏らすと一人会場を離れた。
本当はここには来たくなかった。
ここより先にあるのはマールムの領地。三月に一度の視察の際、経由地として必ずこの地に立ち寄っていた。
普段パーティーの類にほとんど参加しない僕は、人に酔ったような気がして外に出た。
心地よい風が頬を撫でる。雲一つない夜空には、輝く満月が美しく浮かんでいる。僕は気の向くまま敷地内を散策し始めた。手入れの行き届いた中庭には小ぶりのバラやクレマチスが香りを漂わせる。屋敷の裏手に懐かしいものを見つけ僕はハタと足を止めた。選定されていないため樹高は高いがこれは間違いなくマールムのリンゴの木だ。小さくつけた実が数個、高い位置に実っている。足元には茶色に変色し腐ったリンゴがいくつも転がっていた。僕はその一つを手に取った。あの嘘みたいに硬いリンゴがグニャリと柔らかく腐っている様が何とも滑稽だった。
(まるで僕の心のようだ…)
腐りきった心はなんの感情も抱かない。僕はそのリンゴを捨てようとして、手を止めた。
どこからか、人の声のようなものが聞こえた気がした。
それは争っているようでもあり、悲鳴のようでもあり、つい気になって声の方向に足を向けた。
たどり着いたのは小さな馬小屋だった。さっきよりはっきりと聞こえてくるのは男女の声。
ああそうか、と妙に納得した。人気のないこんな場所ですることはおそらく一つしかない。
(使用人同士で睦む場所などここくらいなものか…)
とんだむだ足に踵を返す。
その時、大きく上がった女の声に僕は足を止めた。
女は大きな声で「やめて、やめて」と繰り返す。その泣き叫ぶ悲鳴のような声色に…僕は聞き覚えがあった。
妙な胸騒ぎを感じ、足早に小屋に近づく。その間も続く男の怒声と何度も響く打音に、気づけば駆け出していた。心臓が早鐘を打つ。
脆弱なドアを蹴破り中に踏み込むと、予想通り男女二人が情交の真っ最中だった。男の向こうに見え隠れする女の白い足がなまめかしく揺れ動く。息を弾ませながら体格のいい男が何事かとこちらを振り返った。
その向こうに僕は信じられないものを見た。
引き裂かれたお仕着せに乱れた長い柘榴色の髪、涙と土でくしゃくしゃに汚れた顔には怯えたような黒曜の瞳が光る。
それはこの四年、ずっとずっと探し続けていた愛しい人の姿に間違いなかった。
次話投稿は本日14時頃を予定しています。