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ホームレスの彼は言った。

作者: 秋野 夕


僕は昔、努力が好きでした。


一所懸命努力したら、お母さんは、お父さんはいつも頭を撫でてくれたからです。テストでいい点をとると、先生も褒めてくれました。


小学校の勉強は、努力すればするだけ結果は返ってきて。楽しかったです。その頃は。努力するのが楽しかった。


すごいね、頑張ったねって言ってもらえて。僕は内心ちょっとだけ鼻高々になっていました。


そっか。僕はすごいんだ。だから、大人になっても僕はきっとすごいままで、きっと立派な大人になるんだ。明るい未来を思い描きました。


僕は中学生になりました。近所の、普通の公立の中学校です。


新品の真っ黒な制服に身を包んで、むんっと胸を張って校門を潜ります。中学というのは、やはり小学校とは違った雰囲気で、ちらりと見えた先輩は酷く大人びいて見えました。


自分も大人の仲間入りをしたのだと、桜を見上げ、誇らしい気持ちになったものです。


運動が苦手だったくせに、新しいものにチャレンジしたくて、運動部に入りました。最初は酷いものでした。今まで僕は運動を熱心にしたことがなかったのです。


クラスに一人はいたでしょう。休み時間、他の男子はドッチボールをしようだの、バレーボールをしようだのと叫び出しているというのに、教室の隅っこで一人ひっそりと本を読んでいる大人しい男子が。それが僕だったのです。


さて、こうして何を血迷ったか運動部に入った僕ですが、ひぃひぃ悲鳴を上げながら、時には吐きそうになりながら、どうにかこうにか練習についていきました。チームメイトと顧問の先生には感謝しかありません。運動音痴と言ってもいいような僕を見捨てず、時にはアドバイスまでしてくれたのです。


自分に運動の才能がないことは分かっていました。だから、人一倍努力したのです。


自分の無力さに泣いた時もありました。チームのお荷物にしかなっていない自分に、悔しさを感じて、鬱のような状態にもなったこともあります。


辞めたいと思った時も勿論ありました。それでも、僕は入部する時に誓ったのです。運動が苦手でも、きつくても、三年間やりきると。だから歯を食いしばってやり通しました。


卒業式。僕は、やり通したぞ、三年間自分なりに全力でやったぞ、と自信を持ちました。どんなものであれ、やり通すんだと決めたものを達成できたという体験は宝物になります。一生の宝物です。だから、僕は誠に自分を誇らしく思いながら、中学を去ったのです。


高校は、所謂、進学校と呼ばれるところに入学しました。高校受験はそこまで辛いと思ったことはありません。努力することは苦痛だと思わなかったからです。ええ、その頃までは。


高校という場で、僕は初めて絶望というものを抱きました。「勉強ができる」という僕のアイデンティティを喪失してしまったのです。


そりゃあそうでしょう。進学校。右を見ても、左を見ても、机を並べる学友たちは皆、自分と同じ勉強が得意である子ばかりなのですから。


僕は焦りました。今まで上位であった成績が、ここでは中間。凡人です。焦ってシャーペンを走らせて、必死に勉強しました。努力しました。…努力しましたとも。


それでも、僕の成績は上がらなかった。それどころか少し下がったんです。テストの点数を見て、僕は目の前が真っ暗になった気がしました。


テストを家に持ち帰って、思いました。


あれ、僕って何であんなに頑張ってたんだっけ。


そこからです。そう考えてしまったら、もう駄目だったんです。努力を楽しいと思えなくなってしまった。それどころか苦痛にさえ感じ始めた。


英単語を見る。勉強して何になるの。数式を覚える。いい大学へ入って、いいところに就職するため? それだけ? 漢文を読む。何て虚しいんだろう。英文を音読する。また成績が下がった。楽しくない。しんどい。


涙がぼろぼろと溢れ落ちました。鏡を見ます。疲れた顔をしている自分が映ります。何だか悲しくなって、無理矢理笑おうとすると、最近はずっと笑っていなかったせいか、不格好で強張った笑顔になりました。もっと虚しくなりました。


僕は努力をすることが怖くなりました。だって必死に努力した後、その成果が返ってこなかった時、すごく辛くなると分かったからです。


だから、努力を止めました。悪いテストの点数を見ても、まぁ今回は遊んでいたし、僕の実力はこんなものじゃないし、とヘラヘラ笑っていました。勉強から逃げました。辛い現実から逃げました。学校へ行くのも苦痛になって、時々休みがちになることもありました。


何やってんだコイツ、と思われたことでしょう。情けないでしょう。でもこれが僕なんです。自分がこんな弱いなんて知りたくなかった。


中学の時はもっと頑張れていたのに。昔は。本当の僕はこんなんじゃないのに。変なプライドが邪魔なんです。現実を認めて、さっさと前に進みたいのに、弱い自分を受け入れられない。


自分が惨めで、惨めで、大嫌いで。そして、こんな自分に期待してくれた両親に申し訳なくて。


ごめんなさい。お母さん。せっかく生んでくれたのに。不出来な息子でごめんなさい。


ごめんなさい。お父さん。僕が好きなように勉学に励めるよう、残業までして、お金を稼いでくれたのに。貴方のようになれなくてごめんなさい。


ごめんなさい。


大学受験に失敗しました。両親は悲しそうにしています。それでも、「来年頑張ればいいよ」と言ってくれます。誰も僕を責めません。僕の弱さ、甘さがすべてもの原因なのに。


耐えきれなくなって、僕は人生初の家出をしました。お年玉としてもらって、ずっと貯めていたお金を持って、両親が仕事をしに行っている隙に家を出ました。


リュックに、お母さんがお昼御飯として作ってくれていたお握りと、ペットボトル一本と、中学の時にチームの皆で撮った写真一枚を入れて。


海に行こうと思いました。そして、もし覚悟があるのなら。


…消えてしまおうか、とそう思っていました。


何時間も電車にゆられ、白砂が綺麗な海に到着しました。靴を脱いで、靴下を脱いで、裸足で砂を踏みました。


変な感触でした。気持ちがよいような、くすぐったいような。


ザクザクと歩きました。ちりっ、と足の裏に痛みを感じると、血が出ていました。靴にずっと守られてきて、そして今、無防備になった僕の足に小さなガラスの破片が突き刺さっていたんです。



「痛いなぁ…」



視界が滲みました。目が熱くなります。また泣きそうになって、僕はしゃがみこみました。


痛いんです。疲れたんです。もう前を向いて、歩くのは。もう一歩だって前に進めないんです。


分かってはいるんです。こんなんじゃ駄目なんだって。もっと強くならなくちゃって。もっと頑張らなくちゃって。


でも、もう疲れてしまったんです。


僕はガラスが突き刺さった足を眺めたまま、動けなくなってしまいました。足が地面に縫い付けられたように、前にも、後ろにも、一歩も進めなくなりました。まるで僕の心のようです。何やってるんだろうと思いました。


どれくらいそうしていたでしょうか。一時間くらいでしょうか。


「おい」と声をかけられて、僕は顔を上げました。髭を無造作に生やしたお爺さんでした。服はボロボロで、ゴミ袋を持っていました。



「アンタ、まだ学生だろう。何やってるんだ」


「えっと、その…」



学生ではありません。もう高校生ではないですし、大学生でもない、中途半端な存在です。僕がいいよどむと、お爺さんは「ま、何でもいいがね」と僕の隣に腰を下ろしました。


そして、じろりと僕の血が出ている足に視線を向けます。



「痛くないんか?」


「い、たいと思います」


「思いますって、アンタ自身のことだろ」



何気ない一言でした。ですが、彼の言葉は僕の心に突き刺さりました。自分のことさえちゃんと分かっていない僕。大人になれず、いつもまでも親に頼ってばかり。子供のままの自分。そんな現実を突きつけられた気がしたんです。


ぼたっ、とまた涙が出ました。お爺さんは目を丸くします。まさか泣かれるなんて思ってもみなかったのでしょう。しかし、彼は「ははぁ」と何だか納得した声を上げました。



「あれだ。アンタ、俺と同類だな」



同類。どういう意味でしょうか。



「何か大きな失敗したんだろ。んで、めちゃくちゃ後悔してて、絶望しちょる。違うかね?」



言い当てられた僕は、ドキリとしました。その通りだったからです。


お爺さんはニヤリと笑って、まぁ座れや、と僕の足元を叩きました。僕も興味が引かれて、ペコリも頭を下げて座りました。お爺さんは僕たちの前に広がる海を眺めながら、喋り始めました。



「俺は今、ホームレスなんだ」



ホームレス。僕は不躾だと思いながらも彼をしげしげと見てしまいました。家がないのだと言われれば、彼の格好にも納得がいきました。



「だがな、俺は昔、一流大学を出て、一流企業に勤めたことがある」



え、と思わず声を出しました。一流企業に就職したのなら、ちょっとやそっとではお金に困ることはないでしょう。どうしてそんな人がホームレスになったんだ、と純粋な疑問を覚えました。


お爺さんは僕の態度に機嫌を悪くすることなく、ケラケラと笑いました。



「だがなぁ、仕事でヘマしちまった。大惨事だ。上司からはこっぴどく叱られたし、同僚からは失望した目で見られた。自慢じゃねぇけどよ、俺はその時まで失敗なんてものをしたことがなかったんだ。努力すりゃあ何でもできると思ってた。失敗して文句を垂れている奴らは、努力してないだけなんだと、見下していたところさえあった。そんな俺が失敗したんだ。どんな気持ちだったか分かるか?」


「自分に自信がなくなった…?」


「そんな可愛いもんじゃねぇ。自分という存在が、ガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえたよ。自分は敗者っていうレッテルを貼られたんだと、絶望しちまって、そうしたらもう仕事どころじゃなくなっちまった」



僕は息を呑みました。その気持ちには覚えがありました。目の前が真っ暗になる感覚。もう立ち上がれないと思うほどの絶望です。



「毎朝仕事場に行く。自分のデスクに座る。そうしたら、周りの人間の目が気になっちまうんだ。ヒソヒソと内緒話している奴らを見れば、悪口を言われてんじゃねぇかなと思って、誰かと話す時もずっと顔色を伺ってた。そんな毎日についに耐えられなくなってな、仕事を辞めたんだ」



「そしたらなぁ」とお爺さんは、一転して、悲しそうな声になりました。



「家に帰ったら妻が叫んだんだ。『そんなことで辞めるなんて。これからどうやってお金を稼ぐつもりなの』ってさ。そりゃあまぁ、分かるさ。金は大事だ。金がなきゃ食べ物も買えねぇからな。でもあのまま会社にいたら、俺の心は死んでただろう。俺だって悩んで、それでも決めたことだったんだから、少しくらい、労りの言葉とか、そういうのを期待してたんだよ」


「…そう、ですか」


「まるで俺のことを財布としか思ってない言い方に、腹が立つ前に悲しくなった。妻でさえ俺自身を見てくれていなかったんだなって。妻とはすぐに離婚した。強かな女だったよ。最後に財産のほとんど全部を持っていかれちまった」



それでも、お爺さんは妻だった人のことを恨んではいないのだそうです。こればっかりは惚れた弱みってやつだなぁ、と苦笑して、僕の頭をガシガシと乱暴に撫でました。



「坊主。失敗したことがねぇ奴らはな、脆いんだよ。転んだことがねぇから、いざ転んでしまった時に起き上がり方を知らないんだ。若い頃の俺みたいにな。逆に失敗ばかりしてきた奴らは強い。転んでもすぐに起き上がればいいだけだって知ってるからだ」



その言葉は、僕の心にスッと入ってきました。起き上がり方を知らない。そうか、僕は起き上がり方を知らないだけなのか。目から鱗が落ちた気分でした。



「じゃあ、どうやって上手い起き上がり方を知るんでしょうか」


「それは、あれだ。失敗をめちゃくちゃすりやぁ、起き上がり方は自然と上手くなるさ。ちっちゃい子供は何度も転ぶだろ。アイツらは、身体が支えられる重さに対して頭が重すぎるからな。で、何回も転ぶ。最初は泣く。ビービー泣きわめく。でも何十回も転ぶ内に、痛みにも慣れちまって泣かなくなる。つまりは慣れだ」



なるほど、と僕は感心しました。とても説得力がある話だ、と思いました。「つまりはなぁ」とお爺さんは、僕の髪をぐちゃぐちゃにしました。僕は、わっ、と小さく悲鳴を上げます。頭に鳥の巣をのっけたみたいになってしまいました。


前髪の隙間から、お爺さんがニカッと笑ったのが見えました。



「失敗していいんだよ。俺はもう駄目かもしれねぇが、坊主はまだ若ぇんだから。まだまだ青臭くて未熟な内に、いっぱい失敗しとけ」



気付いたら、はい、と僕は返事をしていました。


夕日が、海へと沈もうとしています。お爺さんの話を聞いた僕は家に帰ることにしました。せめてお礼をとお金を渡そうとしましたが、お爺さんは受け取ってくれませんでした。


持ってきたお握りとペットボトルはもらってくれましたが、それだけじゃ足りないと言う僕に、お爺さんは一つ約束をしてくれました。



「そんじゃあ、坊主が酒を飲める歳になったらまたここに来い。その時は美味い酒を奢ってくれや。それで十分だ」



胸が一杯になりました。涙を外で拭いながら、僕は力強く頷きました。お爺さんと別れて、僕は切符を買い、来た時とは逆方向へと向かう列車に乗り込みました。


燃えるような赤い夕焼けを眺めながら、「…失敗してもいい」と言われた言葉を繰り返しました。失敗してもいい。また起き上がればいい。それだけの話なのです。


転んだら、もう一度。また転んでも、もう一度。


転んで、転んで、もう転んでも泣かないくらいに強くなればいいのです。



「もう一度だ」



僕は拳を握りしめました。




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