嫌う人
人が人を嫌うプロセスを確認したい。
おそらくほとんどの場合、最初、そこには人に向けられた理由も言葉もないだろう。
日常の中でのほんの少しのエラー。寝違えたり、嫌な夢を見たり、障害物のせいで二、三歩ほど横へずれたりと。体調が思わしくないということも、きっと少なくない。
そういったエラーの蓄積が、いつもだったら流せるものを大事に捉える心理につながる。
まさに今、クドウは、そんな状態であった。
なんとなく腹が立つ。原因を考えることはおろか、言葉を伴う感情ですらない。とにかくむしゃくしゃするのだ。
2年ほどよく見る顔が、今日の作業を終えて白い息を吐く。
ベルトコンベアーからトラックに荷物を入れ続けるのは、決して楽な作業ではない。少なくとも「軽作業」という言葉の意味が更新されるくらいには。
トラックに乗り始めた頃、クドウもその作業が辛かった。
疲れを知らない機械のペースに合わせ続けるには集中力が欠かせず、人は機械よりも劣ると自覚する。
機械と共に働いた経験のないものにはわからない実感。これを共有しない管理者の言葉と態度、すべてが腹立たしい。だが、その感情を表出させることに利益はなく、あたかも従順な機械となる。
疲労や懐疑、その他もろもろの雑多な心の動きを無視するということ。諦めの経験値に乏しい若者にとってこれは難しく、だからすぐに辞めてしまうが、このバイトはもう2年ほど続いている。
たしか、こいつは浪人生。大学へ行くために金を貯めてるはず。大した根性だ。同じ年頃のおれは、もっと好きにしていた。
若い頃のクドウは、遊ぶ金のために多くのバイトをしてきた。どれも刺激的なもので楽しく、でも半年くらいで飽きてしまうと他を探した。恋人も含め、すべての人間関係は、次の次の生活までには解消することを知っていた。
娘が生まれ、家庭を築き、そろそろ落ち着こうと思って始めた配送の仕事。運転自体は好きだったし、同じ景色を見続けなくてもよい。荷物を積む作業だけが不満であったものの、それも世帯主という役割に伴う労苦であると思えば、ベルトコンベアーに合わせて自らを制御している姿も嫌いではなくなった。
だが、この浪人生のように積み込み作業だけを行う仕分けバイトをしろと言われたら、クドウはすぐに投げ出すだろう。彼の責任感はその程度のものであった。
とてもじゃないけど、こいつと同じことはできない。
ほとんど喋ったことはないが、クドウは、浪人生を好ましく思っていた。年下を素直に評価できるようになったのは、娘にとっての先輩にあたるかもしれないと思うようになってからである。
しかし、クドウはこの浪人生の息の白さを見て、なんだか馬鹿にされているような感じがしたのだ。
ほとんど誰とも喋らず、黙々と真面目に働く。遊びたい盛りだろうに。そこまでして行きたいと思う大学とは、さぞかし素晴らしいものなんだろう。でもな、お前が夢を追うために稼げてるのは、おれらドライバーがいるからだ。大学のほうが立派だと思ってるのは間違ってるぜ。
なんとなくの不機嫌が人に向けられた。
負の感情が行き先を見つけると同時に、それが言葉として形になり、共感者を求め出す。世界の各地で毎秒のように起こるシーン。そんな珍しくもない出来事が今、クドウの中で生まれたのだ。
しかし、彼はすぐにその成長を握りつぶし、喫煙所から1人外れる。
「お前なあ、これから命かけて働くおれらをつまらん気持ちにさせるなよ」
文句あるときは直接言う。決して徒党は組まない。それがクドウの流儀の1つで、彼にとってこれを守ることは、何よりも優先されることであった。
だが、彼は気づいていない。根拠もなく「おれら」と言ったことを。
クドウの口から発せられたこの言葉の背後には、明示されていないものの、「お前ら」と区別する意識が潜んでいた。
「私たち」を「we」と呼び、「I」と区別するグローバル言語。仲間多きこの言語において、「あなた」と「あなたたち」がどちらも「you」であると習った時の違和感は、しばらくすれば消えていく。
そう、意識と同化して消えていくのだ。無自覚のままに。
言語学的経緯はどうあれ、自と他は区別されるものであり、「あなた(you)」と「あなたたち(you)」はいずれも他であるという意味で同一視される。この時、2つの「you」の違いは曖昧なものとなり、あるいは無価値なものとなり、存在を失う。
存在しなくなるのは、境界だけであろうか。消失するのは「you」そのものかもしれない。
思考が減ることの簡便さは、快適を求める日常を速やかに侵食する。だから、目の前の聴衆に「あなたたち」ではなく「あなた」と呼びかけることに不自然を感じない。たとえ日本語であっても。
このことが内包する陋劣さは、その所在を巧妙に隠す意識のうちに見えにくくなる。
「you」と一括りにするのは「あなた(you)」と「あなたたち(you)」の違いを明確に解さない姿勢にほかならず、「あなたたち(you)」の内部にある、さまざまな「あなた(you)」たちは何らかの共通項でまとめられる。そして、多くの場合、そこにはネガティヴな意味を込められた過剰な特別視が存在する。
ところで、言葉は自然状態になく、この意味で、それは人の意識があたかも空間に姿を得ているように思わせる奇術であろう。姿なきものの輪郭を示すため、何らかの言葉がある時、そこには必ず他の何かと区別する意識が前提としてある。
綿密な聞き取り手続きを踏まず、根拠なしに「私たち(we)」の思いを示す時、「私(I)」と言えば足りる文脈なのに「私たち(we)」を語ろうとする時、「私(I)」の対としての「あなた(you)」ではなく、「あなたたち(you)」との区別が仕組まれている。
クドウに「おれら」と言わせたもの。彼の自覚としては、他のドライバーたちとの連帯感であった。運転というリスクに対処している自負心や、物流という社会の根幹を支えている誇り。だが、浪人生が吐く息の白さを見て、「つまらん気持ち」になるか否かは人によるものであり、クドウが知るところではない。
連帯感、その根底にはポジティヴな意識があるはずだが、他のドライバーに対してクドウが思うところは、ほとんどの人間関係と同様、複雑なものである。当然、仲がよいのもいるが、そうでないのもいる。
その一方で、娘が生まれてからのクドウには、個人的に気に入っている仕分けバイトも少なくない。親しく会話し、酒を飲ませることもある。だが、どうしても彼らは「we」でなく「you」なのだ。
蔑みの気持ちがあることを否定できない。安定した収入を得ているクドウにとって、仕分けバイトのそれは自身の生活を維持するには物足りない額であるし、彼らが派遣バイトという立場なのも「we」にならない理由である。
この蔑みは、時に憐れみとなって、「you」を好意的に捉える姿勢を見せる。しかしながら、蔑みも憐れみも、「we」より劣位すると認定した結果の感情であり、その意味では同類である。いずれも「we」の優位性を固定化し、それによって精神の平穏をもたらす。
そもそも、「私(I)」と「あなた(you)」の関係のように、「私たち(we)」の対を「あなたたち(you)」と捉えるのには無理がある。概念として他者が混じる「私たち(we)」は「私(I)」と本質的に異なり、自と他の区別のみが「you」との間にあるのではない。
やはりそこには「私たち(we)」に向けられた特別意識が介在するのだ。
当然のことながら、「私たち(we)」の中には、「他者(you)」もいる。「we」の言説において、自(I)と他(you)は等価的なものであり、したがって、「私」は、「I」でありながらも「you」と代替可能なものに成り下がる。
「私(I)」であることの揺らぎ。これを生み出した「we」の意識が「私(I)」による産物であることから、この意識を廃棄することは選ばれない。
だから、せめて「私たち(we)」の中にいる代替可能な「私(I)」が取り替えのきかないものであると思いたいがために、「私たち(we)」に独自性を見出し、かつ、この中にいる「他者(you)」を、外部の「あなた(you)」よりも優位に捉えようとする。
この優劣に根拠は不要であり、ただそのように捉えていることのみが理由となる。この不確かさを隠すため、優劣の評価は固定化され、「あなた(you)」は、決して「私たち(we)」になり得ない。
特別な「私たち(we)」ではないという点で、あるいは「私たち(we)」の有する独自性を持っていないという点で、「あなた(you)」と「あなたたち(you)」は同一視されるのだ。「あなたたち」は「you’s」でなく「you」でしかない。1人なのか2人なのか、あるいはもっと多くの人がいるのか。それはどうでもよいと扱われる。
目の前にいる人(you)の独自性を認めず、蔑み、あるいは憐れみ、そして、その人が抱える事情のみに着目し、その人の存在すべてを語り尽くした気になる。その要素が言葉によって概念化あるいは抽象化された結果、この言葉に該当すると思われた人を一括りに「あなたたち(you)」と呼ぶ。いわゆる差別感情の端緒であり、かつ、そのすべて。
仲間意識を強調する「私たち(we)」という言葉は、連帯感の表明であると同時に、その外部者を1人の人間としてみなさない布告でもある。
「今日もお願いしますくらい言えんのか」
「馬鹿の1つ覚えで謝ってればいいって思ってんだろ」
ただ謝ることしかできない「you」に対し、気分よく説教を続ける。徒党を組まないという信念を自称するクドウは、自身そのものの勝利を実感して喜ぶ。
だが、彼は思い至っていない。「you」が抵抗してこないのは「we」という徒党がいるからだということを。そして、このことを暗黙のうちに了解している自身の狡さを。
「そんな頭で大学行くってか」
「大学行きません」
思わぬ反論に少し驚いたものの、クドウにとって「you」の話であることに違いはなく、大した問題ではなかった。「お前」に向けたものは、あくまで「you」に向けたものであって、具体的な誰かに向けたものではない。
「あれっ、お前じゃなかったか、似たようなやつでよ、浪人生がいるんだぜ、笑っちまうよな」
「……なんで笑うんですか」
「おっ、いいねえ、反抗的な目で、しけた顔よりはずっといいわ」
「いや、別に怒ってないです」
「照れんなよ、いいじゃねえか、仕分けの仲間だろ、仲間のために怒れるのは偉いもんだ」
「いや、だから、怒ってないです」
「お前、そこは仲間のために怒ってるって言っとけよ、そのほうが浪人生も嬉しいだろ、つまんないとこでムキになるからお前はダメなんだよ」
1つのまとまりでしかない「you」は、その内部で感情を共有しなければならない。怒りも悲しみも、そして「we」への敬いも。
「……すいません」
言い負かしてやったという思いが高揚を生み、むしゃくしゃが薄らいでいくのをクドウは実感した。気分よいままに運転しようと思い、トラックの運転席に急ぐ。
「待ってください、なんで笑うんですか」
面倒くさいやつ。そんなのわかってるだろ。お前らが学をつけたところで、どうなるって言うんだ。
「だってよ、大学行ってもよ、どうせ総理大臣にはなれないんだろ、勉強してどうすんだよ」
大通りの長い赤信号につかまる。これを抜けていればずっと先まで進めたはず。急な車線変更をした車のせいで、クドウのトラックは思い通りの走行ができなかった。
楠には不気味な鳩の群。
横並びに歩く学生たち。
ラジオから流れるお気に入りの歌は、これからのところでフェードアウトした。
点滅する信号機。赤になった瞬間に横断歩道へ駆け込んだスーツ姿の集団は、すぐに歩き出す。青になってもアクセルを踏めないことにクドウはイラつき、舌打ちと溜息を2回ずつ。
走り始めた途端に携帯の着信音が車内に響き、魔法瓶に入れた熱いブラックコーヒーで舌を痛めた。
むしゃくしゃする。
思い通りでないことの1つずつを気に留め、クドウの平穏な時間は終わりを迎えた。
夜、スナックのカウンターでマイクを握り、ロックスターになったつもりで応援歌を熱唱するクドウの姿。
男女ともに50代半ば以上の客層の中で、大声を出し続ける30代の彼は異質であり、ハイボールばかりを飲み続け、焼うどんとチーズ盛りとボイルされたソーセージを広げていることに非難の目が向けられる。だが、いつも現金払いで領収書も不要なクドウに対し、ママであるキシモトは笑みを絶やさない。
中学生の頃に流行ったのを3つ続けた後、クドウの知らない前奏が流れた。
キシモトが明るい茶色の三つ揃えにマイクを渡す。うっすらと光沢のある赤ネクタイを上まで締めたその新顔は、クドウにはどう発声しているのかがわからない流暢な英語を店内に響かせた。
洋楽か。おれだって。
小さな冒険を描いた古い洋画の主題歌をリクエストし、まだ残っているにもかかわらず、ハイボールを注文した。マイクが渡される。今夜一番の大声で「ダーリン」と叫んだ。
失笑。
クドウを無視するように、同じ前奏が流れる。同じのを続けられるとよくわかる。囁くような新顔の英語は、まさに英語だった。
新顔を連れてきた常連客が歌う。クドウの知らない洋楽。他の客も続く。
大半はクドウが初めて聴くものであり、ほとんどは何を言っているのかもわからなかった。カラオケ画面の英語歌詞を見ても、すぐに文字が変わってしまう。
無言のクドウと対照的な、英語の歌をリクエストし続ける店内の盛り上がり。
ここにあるのはカラオケの楽しみだけではない。クドウが気づいたのは、互いの英語についての褒め合いが毎回のように続いたからである。無論、クドウの英語が暗黙の比較対象として共有されており、だからこそ、褒め合う言葉は過剰な世辞にならない。
何らかの要素で人を下に見た時、そこには「we」の意識が強く生まれる。連帯意識が外部に表現されるのは、厳密に言えば、その表出に躊躇がなくなるのは「you」を下に見る意識が共有された時である。
馬鹿にしてやがる。英語が達者だから偉いのか。ここは日本だぞ。
新顔はこの店の客ではない。連れてきた常連よりもクドウのほうが店の売り上げに貢献してきた。どうにかしろと思いながらキシモトに目を向けると、マイクを握る彼女が口を開いた。
酒焼けした声の中に、はっきりとした抑揚。音の切り方と繋ぎ方は心地よく、クドウの目は焼うどんのハムに落ちた。
玉葱、人参と視線が移り、どこを見るでもないクドウの視界はぼやけていく。聴覚が鋭敏になり、両手が不快音の侵入を防ぐ動作をしないように、意識的に握る力を弱めた。
「ママ、上手だね」
「ありがとう、店のカラオケに慣れてるだけですよ」
「海外に住んでたことがあるんですか」
「とんでもない、昔に一度だけ、ハワイに行ったきりです」
「それだけなの、すごいなあ、僕ら大学時代に留学先で知り合った同窓会みたいなものでして、でもママの英語が一番きれい」
「わかりやすいお世辞ですこと、皆さん英語がペラペラなんですね、羨ましい、店を始めてからずっと英会話を習ってるんですけど、私はカラオケだけです、英語でお話なんてできそうもない」
「ぜったい嘘」
三つ揃えがクドウを一瞥し、アイラウイスキーのロックを注文した。
学生街の思い出、留学先の仲間だけが今でも続いていること、使えない下請け社員の悪口。すべての話題がクドウを拒絶する意思を明確にして展開される。
こんな店、いてられるか。
会計をしようと思ったものの、目の前には焼うどんとチーズとソーセージ。食べ物を粗末にできないクドウは急いで腹におさめる。
くそっ、パサパサした焼うどんに金を出させるこんな店、さっさと潰れてしまえ。
捨て台詞を考えていたクドウは、キープしているボトルの中身が残っていることを思い出す。ひたすらに水割りを飲み続けた。キシモトは声をかけようとするが、これを察知した同窓会は高い酒を注文する。
ボトルを空にし、視界も怪しくなったクドウが財布を出す。キシモトは「また来てね」と言うが、クドウは無言で扉へ向かった。クドウはたった1人の「you」であった。
終電客の群が駅から出てくる。
駅前に並ぶ2つのコンビニ。
足取りは乱れることなく、それぞれの習慣に従って一方に入る。会話がなくともそこには連帯感があり、クドウはその外側にいた。