第1話 1942年情勢
お待たせ致しました。誤字等ありましたら指摘頂けると幸いです
1942年5月、日本は悩んでいた。
この時期の日本は順調に進んだ開戦当初の南方作戦とは違い、全ての戦線で膠着状態が続いていた。というのも、特に重要視されている南洋諸島の海軍拠点であるトラック諸島防衛と米豪連絡航路の遮断を目的としたビスマルク作戦は現在停滞しており、ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエンは攻略に成功しつつもラエやブナ、ポートモレスビー等パプアニューギニアの拠点の攻略は失敗しており、足踏み状態であった。
というのも、アメリカは真珠湾攻撃以降日本軍による米豪連絡航路の遮断を強く警戒しており、驚くべき事にウィリアム・ハルゼー率いる第16任務部隊(空母ホーネット、レキシントン、エンタープライズ基幹)を2月半ばより珊瑚海方面に展開させていたのだ。
ここに、3月より開始させられたポートモレスビー作戦において百武中将の第十七軍がブナの近郊ゴナに上陸すべく出撃したが、これを何とかという思いで掴んだ米軍情報部と、兼ねてより警戒していたハルゼーの偶然ではあるが近海に艦隊を展開させていた事もありこれの迎撃に動いた。
第十八戦隊(天龍、龍田)程の部隊しか展開していなかった海軍は機動部隊発見の報を受け取るやいなや作戦の中止を決断。一足早くに撤退に成功している。
この判断が少しでも遅れていれば大惨事となっていただろう。
これ以降、特にラバウルへ航空部隊の増強程度に留まっており、インド洋作戦も遂行中であるために機動部隊も動かせず、これ以上の南方への作戦地域拡大は抑えられている。
無論この件で陸海両軍の作戦会議ではかなり紛糾したが、膠着しているビルマ戦線も抱えている陸軍としては結果としてこれを歓迎した。
4月末に開催された御前会議では、今後の作戦計画と現状については、以下のように大まかに纏められた。
【陸軍】
・大陸戦線においては現状維持
・ビルマ戦線の膠着状態の打開
・南方方面の軍政の適正化と監視
・占領地域の治安維持
【海軍】
・ソロモン諸島の攻略の無期延期
・ラバウル基地拡張整備
・輸送船団の護衛強化
・島嶼戦特化部隊の編成
大陸戦線においては広大なる地域の完全占領は難しいとの空気が海軍のみならず陸軍からも出ており、特に陸軍においては参謀本部、第二(作戦)課長の服部卓四郎大佐から
「大陸戦線は本土が必要とする穀倉地帯及び港湾、工業地域は占領済みであり、これ以上の戦線の拡大は利益よりも血が多く必要となり無意味である」
との発言が出る程であるから尚重大な問題である事が伺えよう。
そこで陸軍は服部、実戦行動派の辻政信大佐を中心とした作戦会議において、大陸戦線での暗黙の停戦、支那派遣軍から部隊を引き抜きビルマ戦線へ派遣。
新編師団をインドネシアやマレー、ボルネオを中心として派遣し、防衛力の強化を当分の優先と決定づけたのである。
特にボルネオにおいては、ブルネイ、タウイタウイ等大規模な艦隊が停泊するには調度良い良港であり、ここを拠点として活用していた海軍もこの案には強く賛成した。
ここは少し離れればスマトラ島の油田、そこに近いリンガ泊地やシンガポールがあり、ボルネオ島のブルネイ、北東のタウイタウイを含めて南シナ海は輸送航路も含めて重要な海域なのである。
更にはブルネイにも油田があり、日本にとっては喉から手が出る程に魅力的な地域である。
現状活発では無いものの、米軍の潜水艦による通商破壊作戦も行われない事は有り得ない為、準備出来るうちに準備するべきとの意見を持つのが海軍である。
となると話は早い。
早速海軍は8個の新設根拠地隊を編制、これを南方地域へと送り込む。また陸軍は治安維持の為の独立混成歩兵旅団を4個、各地域へと派遣し、飛行場建設の為に工兵連隊も2個(ボルネオ、スマトラ)出した。
陸海共同による突貫工事は天候以外において大きなトラブルも無く、6月末には完成する事になる見通しであった。
無論の事、部隊を運んで来た船団は帰りに腹一杯の物資を本土に運んだのは言うまでもない。
後に彰が驚く事になるのだが、この時期の日本軍にしては、むしろ史実とは異なり輸送船の運用方法が単独では無く船団を組んでの運用になっている。
確かに、これまでの日本の輸送方法は単独での航行であり、滅多な事が無い限りは複数の輸送船が目的地を目指し、または物資を本土へ輸送する事は無かったのだ。
しかし、いざ対米開戦か!?となった昭和十五年半ば頃にはこの現状を憂いる者が少なからず存在していた。
その中心人物こそ、時の連合艦隊司令長官である山本五十六であった。
アメリカ留学やロンドン海軍軍縮条約への参加、航空主兵力構想等海軍に関する功績を数多く持つ『彼女』は、留学時代に感じたアメリカの工業力、それを補う輸送力に関心を持った。
というのも、アメリカは少なくとも必ず輸出はともかく輸入は数隻で船団を組んで物資を運び入れ膨大な工業力を支えていたのである。
それを見た山本は「輸送こそ、島国たる日本の生命線である」と早くもその欠点と利点を感じ取ったのだ。
山本は欠点として、工業力を日本は活かしきれていないと推測した。日清日露、そして今は大陸戦線という戦争を支えている日本の工業だが、物資の都合上ギリギリ最低ラインを少し余裕を持った程度の生産力しか発揮していなかった。
大陸戦線における補給は問題なく行える程度ではあったが、拡大を続ける戦線に対応する為の部隊の拡張は計画通りであるかと言えばそうではなく、焦れったいペースでの拡張であった。
これではいざ対米開戦となった時に、大陸どころか広大なる太平洋を超えて南方に戦線を広げるとなるのだから、その補給はギリギリまで効率が下がる事になるだろうと予想した。
そんな日本の輸送状況を改善させたのは勿論山本である。
この世界の山本は空母を中心とした機動打撃は勿論であるが、それと同列に今後伸びるであろう補給線の維持と効率の改善方法を模索しており、そこでと目をつけたのが『優秀船舶建造助成施設制度』において建造された新田丸級貨客船である。
そもそもこれは有事の際に徴用を目的とした、高性能商船の建造に政府が補助金を抽出するというものであり、新田丸級もその制度で建造された貨客船である。
『新田丸級貨客船』
排水量・1万7千トン
全長・170メートル
幅・22メートル
速度・22ノット
昭和十二年に日本政府が『優秀船舶建造助成施設制度』を制定した時点で欧州、豪州や南米西岸航路等で活躍していた貨客船は艦齢10〜20年が多く、老朽化から速度も落ちて陳腐化が甚だしく、これを改善する必要性があったのだ。
政府は6千トン以上、速力19ノットの貨客船12隻の建造を計画し、当時日本郵船が行っていた25隻25万トンに及ぶ計画であった。
この中から、昭和十五年の東京オリンピックに向けて旅客輸送という名目と、欧州向け航路に投入する船舶とあったが、この内欧州向けに投入される予定で建造されたのが新田丸級である。
山本は海軍大臣の裁可の下、この新田丸級をベースに建造にかかるコストを抑え、その過程も簡略化させる事により使い勝手の良い輸送船の建造を開始させたのだ。
後に日本版リバティシップと彰は呼ぶのだが、驚くべき事に最初は数こそ少なかった日本版リバティシップは運んでくる物資の増加により更に隻数を増やし、開戦時には何と200隻近い数を運用可能としていたのである。
新田丸級をベースにしている為に排水量は1万2千トンと少々小型化したものの、輸送船にしては優速である22ノットは物資満載状態での輸送もかかる時間を縮めるのに一役買っている。
無論このリバティシップ.......富士山丸級標準輸送船は物資のみならず陸軍を輸送する事も念頭に置いて建造された為、今後の戦いで重要な役割を担うようになる。
そうして迎えた対米開戦だが、山本は更なる一手に打って出た。それは護衛戦力である。
潜水艦による通商破壊の実績は第一次世界大戦でドイツが示した通り脅威であり、それは島国日本にとっては何としても避けたいものである。
しかし潜水艦に対抗する為の爆雷を搭載した駆逐艦は基本的に艦隊護衛及び艦隊決戦の際の一員として動く為流石の山本もこれは渋り、かと言って開戦直後は海防艦や駆潜艇といった艦艇も数は少なかった。
そこで提案されたのが護衛空母である。
徴用を前提として建造された商船を空母へと改造し船団護衛に活用しようという目論見であった。しかしこの目論見は意外な人物から反対された。
それは山本の絶対の信頼が置かれ、子飼いで機動部隊運用の第一人者である小沢治三郎中将である。
「それならば長官、台南やフィリピン、インドシナの航空隊を用いて護衛させれば宜しいのでは無いですか?」
この一言にうーんと唸ってしまったのである。
小沢の言う事は最もであった。開戦当時の海軍の主力航空機で最も航続距離が短かった九九艦爆が約1400キロ。爆装した上での作戦行動半径を考えるならば片道600キロと仮定しよう。
そうすると香港、台南、カムラン、シンガポール、ブルネイ等どの拠点から出撃させても最低二つの航空隊が交代制で当たれば護衛は努まる他、南シナ海における輸送路の重要性から無論の事それなりの艦艇が投入される事を考えるならばわざわざ専門の護衛空母を整備する必要性はあるのか?というのが小沢の意見であった。
山本もこれには反論出来ず、護衛空母計画は一時は保留となる。
だが、この計画が実行に移される事となるある事件が発生した。
1942年2月にグアムへ物資を単独で輸送中だった輸送船が米軍の潜水艦によって撃沈されたのである。
しかも運の悪い事にそこはギリギリ護衛機の航続距離が足りず、全乗員が死亡し物資6千トンが海没するという大惨事である。
これは輸送船の船長が、グアムは味方によって占領された勢力圏内であるとの事と、国内で至急便として応募を海軍が募っていた事が災いした結果となってしまったのである。
しかし、今こそと山本は腰を上げた。
まずは海軍大臣に直接今回の事件について詳細を説明。普段ならば副官や参謀辺りを派遣し説明するという件を連合艦隊司令長官が自らやってきたのだから当時海軍大臣に就任していた米内光政海軍大将は大いに驚いた。
全ての経緯が説明し終わるとこれに対する反省手を述べた。単独での航行はもちろんの事、例として航空機を護衛に着けた時の航続距離の問題点を挙げる。
ここまで来ると流石の米内も山本が直接来た目的も薄々感づき始める。以前より提唱し続けていた護衛空母の件であろう。
予測した通り、対策案として海上護衛軍の創設とそれに付属させる護衛空母建造案を提出した。これには米内も苦笑せざるを得ず、それを受諾した。
海軍大臣が海上護衛軍の設立を宣言するやないなや話はトントン拍子に進んだのだが、護衛空母はどうするのか?という所で話が一旦止まってしまう。
それもその筈、今や重要視されている輸送船を改装するのは良いがどれが適任か、その埋め合わせは効くのか、様々な問題が発生したのである。
それに加えて一から建造するにしても時間がかかってしまい、本格的な護衛艦隊を編制するの後々になってしまう。そこで山本が目をつけたのは排水量に申し分無く、護衛するには燃費も速力も十分な新田丸級である。
これを海軍は徴用し、2月末より空母への改造を開始。米内の配慮により熟練の従業員を特別手当を付与した上で派遣し、半年後に『大鷹型』として就役する事になる。
護衛空母として改造された新田丸級と数合わせとして徴用された『りおでじゃねいろ丸』を含めたこの四隻の大鷹型が活躍するのは後の話となる。
説明会と言ったものの、どう説明しようか悩みました。忠実である部分を求めたかったのですが、後の話の事や作品としての方向性を重視し、多少改変しております。
この大鷹型は個人的にもっと活躍の機会があったのではないか?と思う事もあり、我らが山本さんのお力で早々に活躍の機会が与えられる事にしました。