~予期せぬ妨害~
それは、外気に触れるだけで玉の様な汗が体中を覆いつく真夏日のことであった。
肌に纏わりつく湿気った空気を切り裂きながら、僕は全力で駆けていた。
緩慢に流れる障害物の中に生じては消える僅かな隙間を蛇行しながら、維持しうる最高速度で直走る。
程なくして広く深い地下階層を擁する迷宮へと到達した。
目指す場所は迷宮の地下4階層に当たる奥深くである。
迷宮の入り口からしばらくは光を反射する程に磨き上げられた地面が続く。
摩擦が効かないこの床の上で少しでも体勢を崩そうものなら、次の瞬間には僕の体が前のめりに中を舞っていることだろう。
この硬い地面に勢いのまま体を叩きつければ、再起不可能になる可能性すら孕んでいる。
リスクは承知の上で、1秒とて浪費できない僕は全神経を足の裏に集中させていた。
間隔の狭い段差を飛び超えるように階下へと突き進んでいく頃には、丁寧に磨かれた床地帯は既に終わりを迎えていた。
今では表面に微小な凹凸が無数に生え、泥で薄汚れた地面の上にいる。
足の指が大地を強く捉える感覚に安堵しつつ、懐から叡智の結晶を取り出してその時に備えた。
地中深くに潜るにつれ、空気が次第に冷たく、重くなっているのが感じられる。
迷宮内にはどこからともなく漂う多様な臭気が混ざり合った温い空気が満ちており、呼吸する度に体が害されているかのような感覚すら覚える。
迷宮内をさらに進むと、地下から警告を発するかの如き耳障りな音が響いてきた。
目指す場所が近いことを示す福音であると同時に、タイムリミットが近いことを示す凶報でもあった。
最悪の未来が頭を過ったその時、僅かばかりの猶予を残して視界の端に最後の関門を捉えた。
人一人がやっと通れるかというくらいの非常に狭量な門である。
資格を持たぬものには固く扉を閉ざす最後の関門を前にして、叡智の結晶を握る右手に力を込めた。
門に手が届く範囲まで接近するや否や、僕は右手に携えたそれを渾身の力と共に門へと叩きつけた。
門が発生させる不可視の力場によって、叡智の結晶が記憶せし潜門者≪センモンシャ≫としての資格が呼び起こされる。
ここまでくればもう障害になり得るものはない。
体力は疾うに底をついたが、あとは気力で賄うことはできるだろう。
『勝った!』と確信するのも無理からぬことだった。
次の瞬間、僕は自分の耳を、そして目を疑った。
脇からけたたましい警戒音が発せられ、門前に控える門は固く閉ざされたままだった。
実を言えば、初めから僕はその門を通り抜けることは叶わなかった。
その可能性に気付くことすら出来ないような、完全に意識の外側からの妨害を受けていたのだ。
駆ける勢いを殺すなど当然できるわけもなく、門へと渾身の膝蹴りを食らわせた僕はその場で前のめりに宙に舞うのだった。
手帳型のスマホケースに入れたICカードの、チャージが切れていた。
妨害したのは、残高が底をついたことに気付いていながらチャージを怠った昨日の自分だった。
寝坊したせいで、完全にそのことを忘れていたのだ。
「終わった。。。」
業務開始までの出勤を可能にする最後の通勤快速が、出発進行のサイレンを揚々と鳴らして、行ってしまった。