⑫禅譲
柴田の部屋にノックの音がなった。扉を叩くのは大抵、サッコである。
「はい」
サッコは、昨日、出掛けて帰って来てはいないはずだ。いぶかしながら、返事をする。
「柴田、当分いるかい」
扉を開けて声をかけたのは、社長の高沼である。古稀を過ぎて、白髪になり、以前より大分痩せた風だ。社に出てくることも少なくなっていた。柴田が二十歳前から世話になっている。大学に行くと言った時も、金銭を助けてくれた。卒業したあと教授のごり押しとも言える手段で入った会社を辞めて、飯場に戻ると言った時は喜んだが、悲しげな顔も見せた。
「どうしたんですか」
柴田にすれば、ただ二人、一人は指導教官だった教授、それと、高沼が、襟を正す相手である。教授の研究室には、退社後に訪れる事も度々あった。土産は、あんパン一つ。会社が困った事があれば、柴田がアドバイスを受けに行く。柴田が会社を辞める時期には、後輩が次々と入社している。
高沼は柴田が当分、休むと言っても何も言わずに、頷いてくれる。柴田に、口を出すことは皆無だ。
「いいかな」
高沼の言葉に、柴田は椅子から立ち上がり、一礼をした。棚から、グラスとウイスキーを取り、グラスに注ぎ高沼に差し出すと、嬉しそうな顔をして、高沼はグラスを受け取った。
「久しぶりだな。早速だが、わしは隠居する」
「そう言うお年ですね」
差し障りのない返答である。
「柴田、社長になれ」
「えっ」
「おまえに、会社をやる」
「だったら、専務さんに」
専務は高沼の息子である。
「息子も、頼みたいと言っている」
多分、柴田はわからない訳ではない。高沼は、ろくでもない奴らも囲う。小さな建設会社であった。柴田は、高沼を今だに「おやじさん」と呼ぶ。今では反社ととられそうだが、それとは違うニュアンスである。
「駄目です。まだ駄目です」
「まだか」
高沼は、笑った。
「まだか」高沼は、嬉しそうに、帰って行った。




