清く穢らわしきこと
冬休みが終わった、憂鬱な初登校の日。僕らの学年だけが体育館に残された。大抵、そんなことはろくな話などされない。どうせ誰がまた何かやらかしたのだろう。酒を飲んだ画像とか、煙草を吹かした動画とかをネットにあげたとか。本当、しょうもないことだろう。どうして、わざわざ自分がやっていることを人に見せつけようとするのだろうか。別に、僕は酒も煙草も高校生がやってはいけない、なんて思わない。どうせ、高校生にもなれば体の発達なんかは止まっていて、教師らと体の構造はほとんど変わらないはずだ。それなのに飲んだり吸ったりしちゃいけないのは、健康上の問題よりも、倫理観みたいなのを優先しているからだ。
俺たち大人もそうしてきたのだからお前らも当然守るよな、といった、深く根を張る暗黙の了解があるのだ。
そういうのに反抗すると面倒だから、適当に、はいはいと首を振ってをけばいい。正しいと言われたら飲み込んで、やるなと言われたらすぐに止める。とても楽なことなのだ。それに我慢できず、どうしてもやりたければ、影でこそこそとやればいい。それで見つからなければいいのだ。
学年主任が前に立って話し始めた。マイクがないのに後ろの方まで、がんがん声が聞こえてくる。凍った冷たい空気など関係なしだ。
「この冬休みの間! 妊娠して! 学校を辞めた生徒がいる! お前ら! そんな不健全なこと! してないだろうな!」
周りのやつらが男女関係なく騒がしい。
あの子、だから学校いないんだ~、でもそういうことしそうだったよね~、とほくそ笑むのが女子で、そうしてああしてこういうこともしてるだろうな、羨ましい、と話しているのが男子である。中身はまったく違うけど、どちらも下品なのだけは似ている。
主任が伝えたかったことは、要するに、健全な付き合いをしろ、ということらしい。その健全さというのは男と女が映画に行って飯食ってさようなら、ということだろ。僕はあいにく、女と付き合ったことなんてないけれど。こういう場合、僕は健全な高校生なのだろうか。いや、この歳にもなって女と付き合ったことがないなんて、将来危ない人になりそう、みたいことを言われるのだろう。不健全って本当に難しい。数学者が解けないって言ってるナンチャラの定理よりよっぽどだ。なにせ、それに使われる尺度は数字なんかじゃなく、言葉でも方程式でも証明できない、意味のわからないものだから。
帰りの支度をして、一人で家へと歩く。体育館の方が寒かった。あの場所はどこよりも寒々しい。通学路の裸になった桜の木を、ぼんやりと眺める。桜と女って似ているようで似ていない。全盛期は美しいが儚く、散ってゆくのは同じだけれど、女は散ったらそう簡単にまた咲き乱れることなんてできない。それがわかっていたから、平安時代の人らは、あえて、花といえば桜ではなく、梅にしていたのかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、ふと知っている顔が視界に入った。
「一緒に帰ろうよ」
僕はそいつを無視した。今自分は、一人で物思いに耽って、どこにも残らない、声に出したら恥ずかしいことを考えたいのだ。それを邪魔されるのは、家族や幼なじみであろうとも、尺に触る。
「無視しないでよ」
そう言って後ろからついてくる。僕は足を止めて知抄の方を見た。
「なんでそんな怒った顔してんのよ」
不思議そうな顔をしている。かれこれ十年ぐらいの付き合いになるというのに、この女は決して僕のことを察しようともしない。僕はついため息をついた。それを見逃さずに、すかさず文句を言ってくる。
「そんな態度だから女の子にモテないんだ」
「嫌われ者のくせに何言ってんだよ」
僕がそう悪態をついた。
「私は嫌われてない。こっちが嫌ってるだけだから」
知抄が強がりで、そんなことを言っていないのはわかる。そんな自分を通すような態度や発言は、誰しも、簡単にできるものではない。それをできるこいつは数珍しい。勇気があるやつだと思う。しかしそれは、我が強いともとれる。その強い勇気が知抄と他の女の生徒で鉄の壁をしいた。壁の中での独りが寂しくなくて、周りの人を立てる大和撫子とは正反対。そんなこいつは、女からすれば、目の上のたんこぶといったところなのだろう。
知抄がいつの間にか横にいる。面倒くさいから諦めて一緒に帰ることにした。そういえば、知抄と一緒に歩いたのなんていつ以来だろう。ずいぶん久しぶりな気がする。いつから僕たちは、ばらばらで帰っているのだろう。
「健全な付き合いって、なんだと思う?」
不意にそう訊いてきた。突然どうした、どうしてそんなことを訊くのか。そんな疑問が湧いた。けれども、さっきの集会の最中に考えていたことを思い出して、鼻で笑われるだろうが、伝えてやった。やはりそうなった。
「映画が見てご飯食べるだけなんて、そんなの中学生でしょ」
「それが健全な男子と女子の付き合いってことだろ。どうせ長続きなんてしないんだ。適当でいい。深くなりたければなってもいいだろうよ。とにかく、バレなきゃいいんだ」
「すごいセックスをしてても、人前では健全なフリをすればいいってことね」
「妊娠しない限り、そいつらが、えっと、親密な中になった証拠はないからな」
僕は続けて言う。
「お前さ、セックスとかそう簡単に口に出すなよ」
「なんで?」
「僕は気にしないけど、女がそういうこと言うと、下品に見える」
「ははっ、君って純粋なんだね。童貞でしょ」
僕は舌打ちをして足を早めた。それでも知抄はついてくる。
「童貞って女の理想が高いよね。アイドルかなんかだと思ってるんでしょ。残念。女だってトイレにも行くし、普通に言うから、セックスって」
黙って歩き続けていると知抄は続けた。
「愛を確認するためのセックスなんてほとんどないよ。あると思ってる人たちに限って失敗しちゃう。みんな勘違いしてるんだよね。好きな人とすると気持ちいいって。逆だよ。本当はみんな気持ちいいのが好きで、相手は誰でもいいんだよ」
「ならお前は俺に抱かれてもいいのか?」
「いいよ。私の家、今日誰もいないし、来なよ」
そう言って知抄は僕の手を取った。そのまま僕はついていく。僕は知抄が好きだが、その愛は恋人に抱くようなものではなく、家族や友人に抱くようなものだ。
けれども、形なんぞ、どうでもいい。あろうとなかろうと、そんなこと、どうでもいい。これが本能というものなのだろう。まだ感じたことのない快楽にまんまと魅了されてしまっている。僕は今、穢らわしく、不健全のだろうか。
その後、僕らは夜を共にした。そこでわかったのは、僕たちは決して不健全ではないということだ。
ただ大人たちは、隠したいだけなのだ。あの快楽を知っているから。その証拠に知抄や僕がいる。
世間から見て、恋人ではない高校生同士がセックスをしたら、淫らで穢れているとする。だが、それは決して心の底から思っているのではない。そうでなければ、自分が自分でなくなって、たまらなくそれが欲しくなり、今に満足できなくなって、さらに欲しくなって、よりよいものを目指して不倫へと走り、時には危険も冒すようなことなどしない。セックスは健全な麻薬みたいなものだ。そう健全なのだ。穢れてなどいない。男と女が同じ快楽の魅力に惹き付けられる。それは汚いどころか清きものなのではないか。それでも高校生の妊娠が不健全なものとするのなら、それは大人が強欲だからだ。