【三題噺】確かな地面 〜天秤の揺れから夢を測る先生と薄く軽い私の幻想譚〜
お題「地下鉄」「天秤」「メモ」5000文字以内
地下鉄の車内で先生は、白髪混じりの頭を床に付け天秤の振り切れた回数を数えていた。
振れる角度と回数は夢の質量に寄るというのが、彼の持論だ。
正の字の書かれたいくつものメモが床を敷き詰めるように散らばって、重なり合っている。
乗降の為扉が開くとメモはふわりと舞い上がった。
反対側の扉に張り付いたり、ベンチシートの上に落ちたり、網棚に絡んだり。
車両はメモでいっぱいだ。
この車両には我々の他に乗客は誰もいない。
扉が開いた途端、並んでいた客は皆どんなに混んでいようとも、目をそらし逃げるようにして別の車両の入り口へと並び直してしまうから。
「悪夢。悪夢。悪夢で満ちている。ここは地獄なのか」
「止しましょう、先生。もういいじゃありませんか」
「地獄と知らず薄皮の上を踊るように生きるのか。いつ底が抜けるとも知れぬのに」
先生の声は地を震わせるように暗く悲劇的だった。
腐った卵の白身みたいにどろりと淀んで膨らんだ眼は、睨め付ける全てを凍らせる。
一瞬にしてつり革の表面には霜がおり、手すりの銀は白くくすんだ。
氷の粒がベンチシートの青い生地の細かな毛の一つ一つをコーティングし、ベージュの床の靴跡を浮かび上がらせる。
「降りましょう。メモは私が責任を持って、みんな集めておきますから」
「ダメだダメだ。これでは私は眠れない。悪夢に溺れてしまう」
「先生!」
カチリカチリと天秤の振り切れる音に、先生の浮腫んでたるんだ黄色い頬が震える。
「いっそ底が抜けてしまえば。薄皮を割いて膿を掻き出してしまったら、救われるだろうか?」
先生はギリギリと力を込めて、鉛筆を床に押し付けた。
芯がちびて黒い粉が生まれる。
粉はみるみる滲んで湿り気を帯びくっつき合ったかと思うと、もろもろに崩れた。
こんなことをしたところで、電車の底は抜けたりしない。
しないのに。
脂汗。
鼻水と涙。
不揃いに髭の伸びた青黒い顎を、水が伝ってメモを濡らす。
「誰もいない。誰か、誰か」
「いますよ。先生、私はここにいます」
傍に寄ると先生は、鉛筆を力一杯私の手の甲に振り下ろした。
親指と人差し指の間の柔らかな膨らみが押されて凹み、引き攣れる。
黒い粉に血が混じる。
先生は夢を見ているのだ。
これは夢。
ならば私は、先生の夢の中の存在なのだろうか。
メモから正の字が浮き上がりゆらゆら漂う。
鉛筆の粉が砂鉄が引きつけられるようにいっせいに立ち、手の甲から丸く血の玉が浮きあがる。
私の感じているものはなんだろうか。
感覚はどこだろうか。
痛くもない。
寒くもない。
「いますよ。先生、私はここにいます」
「夢よ、帰れ。お前は私からはみ出したのか。私は眠りたい。夢の内側でお前に会いたい」
先生、どこにいます?
真っ暗で何も見えない。
温度。湿度。
私は手を握られている。
べったり汗をかいた、先生の分厚い掌の気持ち悪い感触。
天秤の振り切れる神経質な金属音。
紙の擦れ舞い上がる音。
風の。
怖いですよ、先生。
扉が開く。
木の葉のように舞い上げられて上昇する感覚。
先生の手に引き上げられ、風に乗り、私は車内から飛び出している。
手が離れ音が変わる。
耳の横を過ぎていく紙の音。
構内のざわめく人の気配でわかる。
先生。
私は夢。
シャボン玉のように徐々に薄れて、弾けても地へ落ちることもできず、霧のように空気に紛れてしまうから。
醒めた端から虹のように消えて、わからなくなってしまうから。
通じない言葉でしか、紡がれなくなってしまうから。
夢は濃霧のように満ちて、生ぬるい握手のように意識を引き寄せる。
どんなに突拍子ない世界でもずっとそこに合ったように当たり前のようにあって、いつの間にか私はそこに立っている。
また混沌に戻るその時まで、そのハリボテの世界で瞬間を生きるのだ。
確かさがあるような気持ちで。