男
ある秋の夕方遅く、友人から携帯に電話がかかってきた。どうやら込み入った話らしく家族のいる場所では憚られるため、僕は散歩に出た。
外は既に暗く、土曜日ということもあって駅前も人はまばらであった。
携帯片手に気持ちよくしゃべっているうちに、ふとお鷹の道へ行きたくなった。
これが考えれば考えるほど名案のような気がしてくる。
小川がサラサラと流れる音を聞き流しながら心地よい夜風を浴びるのは、たまらなく贅沢に思えてならない。
住宅街のど真ん中で長電話するのは迷惑だと自分に言い聞かせ、僕は湧水地へと向かった。
そこは街灯が無く、ほぼ真っ暗である。僕は腰に下げたペンライトを点け、電話越しの友人に偉そうなことを言いながら急峻な崖にかかる階段を下っていく。
階段を下りきって右手に小川が湧き出ている場所がある。真っ暗な水面にライトを向けると、小魚が物凄い勢いで逃げていく。なんだか楽しくなってしまい、川面をチラチラと照らして遊びながら歩いて行った。
途中、小川とは反対側に祠が浮かんでいる池があることを思い出した。
池の縁から祠まではささやかな橋が架かっており、上から照らしたらさぞかし面白いだろう、と考えたのだ。
僕は橋を渡ろうとライトを向ける。
突如、虚ろな表情を浮かべた男が光の中に浮かび上がる。
思わず声をあげそうになったが、必死に堪える。
男は照らされているにも関わらず微動だにしない。不自然に首を曲げて水面をじっと見つめている。
虚ろな目は何も映していない。僕には、男が真っ黒な水面に吸い込まれてしまいそうに見えた。
やや前のめりな姿勢は、水面に飛び込もうとしているように見えなくもない。
少し落ち着いてきたので、男を観察してみる。男は三歩くらい先にいるようにも見えるし、十歩くらい離れているようにも見える。
三日は剃ってないであろうあごひげ。薄汚れてしなびたリュックサック。年齢は40代といったところか。ヨレヨレで10年以上前に流行ったようなデザインのジャンパーを羽織っている。
僕は男に精神的な脆さを感じ、声を掛けようとした。まるで男が池に身投げしようとしてるかに見えたからだ。
だが、思いとどまった。池の深さはせいぜい大人の腰くらい。飛び込んでも風邪を引いて終わりだろう。
これだけの間照らし続けても微動だにしない男に気味の悪さを感じながらも、僕はその場を離れた。
そのまま川沿いに下っていって二分くらい経っただろうか。友人が『晩飯だから一旦切る』と言いだした。僕もまだ夕飯を済ませていないことを思い出し、通話を終了してもと来た道を引き返す。
帰りは男がいる橋の前を通らなければならない。
僕は橋の池のある左側に最大限の注意を払いながらゆっくりと進んでいく。
橋の前まで来ると、恐る恐る照らす。
か、そこには誰もいなかった。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、顔を上げた瞬間思わず引きつった悲鳴を上げてしまう。
男がいた。
小川の向こう岸に、やや前傾姿勢で不自然に首を曲げて立っている。顔は何の感情も表していない。
虚ろな目は相変わらず黒い川面をジッと見ている。照らされても反応しないのは相変わらずだ。
男はこちらを見向きもしない。そのことが、逆に僕の恐怖心を掻き立てた。
ペンライトを握りしめた手に気持ちの悪い汗が滲む。
なにより、男が立っている場所は策を乗り越え、かつ川を飛び越えなければ決して行けない場所だ。
ライトで照らしても動かないような男が、僕のいない3~4分の間に暗闇の中川を飛び越えたのだろうか。
得体の知れない物に心臓を握られているような感覚に襲われる。
僕は踵を返して逃げだした。走ったら追いかけられそうな気がして、走れなかった。
階段の途中で振り返ったが、男のいた場所は草に隠れて見えなかった。
僕は灯りのない雑木林を必死の思いで歩いて行く。背後に気持ちの悪い何かを感じる。
振り返らないように、走らないように。
全力で逃げだそうとする手脚を抑えつけ、極力冷静に見えるよう努める。
動揺を悟られたら負けてしまう、そんな風に思えた。
やがて大通りに出る。
猛スピードで走り抜ける車に全身の力が抜けてしまった。
あれは何だったのか。この世ならざるモノなのか。
あの虚ろな目。仮にこの世の者だったとしても、関わって良いことがあるとは到底思えなかった。