放課後、僕は彼女に殺されない。(4)
椿本岳は、何もない暗闇をずっと歩き続けていた。
一切の光もない、途方もない闇の中を、彼は独りでに行く当てもないまま進んでいく。
終わりなどない道のりだと言うのに、それでも彼は歩みを止める事は無い。
彼には分かっていたのだ。この場所にはちゃんと光がある、と。
その光の方向に進めば、永遠に続く暗闇も抜け出す事ができた。
真っ暗な中に突然現れる光差す方へと、手を伸ばしながら、彼は段々と足の回転を速めていく。
そして、眩しいほどの光の先へと辿り着いた彼は、一人の美少女の姿を目撃する。
『おかえり。ツバキくん』
彼女はいつもそう言って、闇の底から這い上がってきた岳の事を迎えてくれた。
しかし、今の彼は暗闇の中でその光を見つける事ができないでいた。
暗闇をただ歩き続けて、その先には何も無かったと悟る彼は、立ち止まる。
『ここは、死だ』
死んでしまった人間が生き返る事などあり得ない。
諦めようと座り込んだ彼は、いつの間にか目の前にいる少女の存在に気が付いた。
放課後、毎日のように自分を殺してきた彼女の姿に、岳は自らの首を傾げてみせる。
『――――だれだ……?』
笠嶋真琴であるはずの存在を、彼女とは認識できないまま、意識は現実へと引き戻されていった。
高校二年生の夏休み。課外授業の終わった教室で、男女が二人で向かい合っている。
立って彼の事を見下すような雰囲気の女子の手には刃物が握られていた。
そして、それを怯えるように机を盾にして身を守りながら、男子生徒は、彼女の一挙手一投足を警戒している。
二人の名は、それぞれ、笠嶋真琴と椿本岳。
彼女のナイフで殺傷する事によるタイムリープ現象の結果、全く同じ状況を経験するのは二度目の事だった。
しかし、どういうわけか、既に体験したはずのこの状況に関する彼の記憶は、欠如していた。
それを証明するかのように、彼は前回と同様に、多くの机や椅子をなぎ倒しながら、彼女と距離をとって、彼女の様子を窺っていた。
授業の際には綺麗に並べられていた机が、今では、彼と彼女の間だけ乱雑に散らかってしまっている。それはまさしく、彼の恐怖心の表れでもあった。
今の彼にとって、彼女に殺されたはずなのに、死んでいないこの状況は初めての経験だった。
そんな意味不明な状況を、何の説明もなしに理解できる者は、この世には存在しないだろう。
この後の彼女の説明があって、初めて理解し得る現象なのだ。
あり得ない出来事に困惑しながら、殺してきた自分の存在に怯えている彼の表情を見て、彼女は少しだけほっとした。
「ああ、うまくいったみたいだ」と。
彼女の能力についてまだ何も知らないこの状態を作り出す為に、彼女は、もう殺したくはなかった彼を殺したのだった。
自分を苦しめている殺人衝動。それの解消に役立ったいると言っても過言ではないのが、彼女がナイフで人を殺したとしても、殺す前の状態に時間が戻っている、という都合の良い現象だった。
彼は、そんな現象を単なるタイムリープだと言ってみせた。
その予想はズバリ的中し、今まで殺人の記憶は当事者である岳と真琴の二人しか憶えていなかったが、殺人行為には無関係の第三者である新村の記憶保持に成功した。
今まで殺人欲求を解消する為に使っていたその現象が、融通の利くものだと知ることができた。
そして、その時点で彼女は、いつもとは全く違う、今回のようなタイムリープもできるのではないか、と思っていた。
今回のタイムリープの通常とは異なる部分というのは二つある。
一つは、新村の時にも行った、殺人の記憶に関するもの。
そして、もう一つは、時間の戻る先を、まさに今起こった殺人行為ではなく、もっと以前の殺人行為の前の時間に変更する、というものだった。
つまり、彼女は文化祭の終わった九月の、数学科準備室で行った殺人から、夏休み真っただ中の八月の教室での殺人にまで時間を戻す、という事だった。
加えて、二つのうちの前者の異なる点である、彼の記憶を保持させない事を付け足す事で、八月から九月までの二人で過ごした日々の記憶を持ち合わせているのは、彼女一人だけという状況を作り出したかった。
彼女の思惑通り、それら全ては無事に成功し、キスの後の殺人によって、彼女と彼の物語の始まったこの日の教室にタイムループしてきた。
そして、それを憶えているのも、もはや彼女だけだ。
「さようなら。“椿本”くん」
契約ありきの恋人関係ですらなくなった岳に、彼女は他人として接する事を決めていた。
だから、自分の殺人衝動やタイムリープ現象、そして自分の過去の出来事に至るまで、何も話すつもりはなく、別れの言葉と共に教室から出ていった。
彼女の能力。殺人衝動。男に襲われた過去。初めて彼女と二人で行ったオープンキャンパス。駅の屋上から一緒に見た花火。甘いものを食べ歩いた文化祭。そして、放課後の彼女に殺された日々。
それらすべての物事を、記憶から消し去られた彼は、何も語らないまま去っていく彼女を止める事などできなかった。
何故なら彼にとっての彼女は、告白した後に自分を殺してきた女子という認識でしかなかったのだから。
――なんだったんだ……?
未だに全身の震えと冷汗が止まらない。
早くなった心臓の鼓動音だけが、体の内側から聞こえてきて、一向に鳴り止まなかった。
死への恐怖と、殺された時の激しい痛みが感覚としてまだ残っていて、彼女に殺された事が夢ではなかったと必死に叫んでいる。
彼を殺す前に彼女が話していた「実践」というのは、今の殺人の事だったのか、彼には分からない。
ただ一つだけ分かる事とすれば、告白の返事を貰えなかったという悲しい現実だけだった。
――フラれたんだよね……まあ、そうだよね。
半ば諦めにも近い告白だった為、落ち込まないと思っていた彼だが、気分は予想以上に下がっている。
ごちゃごちゃに移動したり倒れたりしている机や椅子を、元の位置に戻しながら、ずっと彼女の事を考え込んでいた。
彼の告白を聞いてから、殺害するという行動に至ったというのは、そうする事で彼が潔く諦めてくれると思ったのか、それとも殺す事も含めて受け入れてもらったのか。
「言ってくれなきゃ、なんもわかんないよ」
情報が少なすぎて、考えがまとまらず、結論が出せない。
自分を殺してきた女子だとしても、その殺してきた事は彼の中だけのもので、現実では無かった事になっているのだから、このまま黙って彼女の事を諦める気にはなれなかった。
教室を元通りにした彼は、鞄をとって誰もいない教室を出る。
「いてて」
死んで生き返った瞬間に目が合った、ナイフを持った彼女から逃げる時に、机や椅子やらをお構いなしにどけていったせいで、体中のあちらこちらが悲鳴を上げている。
同時に、散々な一日だったとため息が漏れ出ると、偶然それを見ていた女子生徒に声を掛けられる。
「どうしたんですか? そんなに大きなため息吐いて? あとズボン後ろの方すごい汚れてますよ」
横から急に声を掛けられて、その方向を振り向く彼は、ズボンの汚れを叩いてくれている彼女と目が合った。
真琴とは違って、小柄な少女だったが、その姿は確かに真琴の面影があって、一瞬、彼女に見間違えるほどだった。
「笠嶋、さん……!?」
「そうですけど……あたしより先輩ですよね? どこかで会ったことありましたっけ? それとも……」
彼の反応から何かに気が付いた彼女は、自らの鞄の中に手を突っ込んでゴソゴソと探り、ヘアゴムを取り出すと、慣れた手つきで自らの髪の毛を結んで、ツインテールにしてみせた。
「姉と勘違いしましたか?」
姉と間違えられて、照れる素振りを見せる彼女は、真琴の妹の光琴だった。
そして、岳と光琴の二人は、この世界線では初対面だった。
「笠嶋さんの!? 妹さん!?」