放課後、僕は彼女に殺される。(1)
笠嶋 真琴は、教室で一人、『夢』を見ていた。
彼女自身のことについて頭を悩ませている中で、気付いた時には机の上に突っ伏していた。
外は真夏の様相。エアコンの風の冷たさが心地よく、彼女はそのまま眠りについてしまった。
時間が経って教室も冷え切ってしまい、段々と過剰な冷たさに彼女も不快感を抱きつつあった。
そのせいで、彼女の中の嫌な記憶が呼び起こされてしまった。
過去に起きた出来事が、今では『悪夢』となって彼女の中に棲みついている。
中学三年生の夏に起きた忌まわしき事件。
その日を境に、彼女の全てが変わってしまった。
そして、何度も見るようになったその『悪夢』は、ある結末を迎えるまで、決して覚める事はない――――はずだった。
夢の中の彼女の視界が真っ赤に染まり、『悪夢』は結末へと向かうはずだった。それなのに、誰かによって夢の続きを遮られてしまった。
現実世界へと引き戻された彼女は、夢の邪魔をした誰かの存在を確認する。
どうやら、同じクラスの男子が、寝ていた彼女に触れたせいで、夢の途中で目が覚めてしまったようだ。
――彼の名前は確か――――。
――僕は彼女のことが好きだった。
高校二年生の夏休み。自称進学校のその高校では、課外授業が毎日行われていた。
とは言っても、通常授業とは違い、昼食を終えてから一時間ほどで午後の授業は終わる。
そこから帰る人もいれば、部活に行く人もいる。が、教室に残って勉強をする人などいなかった。
そんな放課後の教室。いつもだったら無人の教室には、今日は珍しく人がいて、それは昨日と同じ顔ぶれだった。
一人は、椿本 岳。
これと言って挙げられる特徴が存在しない、眼鏡を掛けた少年。
もう一人は、笠嶋 真琴。
長い黒髪に白い肌、高貴な雰囲気で欠点のない美少女。
彼女は、同じクラスの男子とさえ会話をしないくらい、徹底的に女子以外の存在を避けていた。その行動もまた、彼女の崇高さを際立たせていた。
岳は、二年生の同じクラスになった時から、真琴に惚れていた。
彼と彼女が教室に二人っきりでいる状況は、これが初めてではなく、昨日の放課後も同じように、教室で話をしていた。
一人寝ていた彼女を気持ち悪い行動でもって起こしてしまうという失態を、彼は昨日しでかした。
それでも、好きな人と初めて会話する事ができた、と彼は喜んでいた。
そしてそれは、昨日のひと時までの話。
今も、彼女と二人だけで対面している、という夢のような状況にいるはずなのに、彼は自らの顔を強張らせていた。
彼自身、緊張しているのは勿論のこと、彼をそうさせる理由は、もう一つあった。
「昨日は、よく眠れた? まあ、その顔を見れば答えはすぐ分かるけれど」
岳の目元には大きなクマができており、真琴はそこから、質問の答えを見出した。
笑みを浮かべながら、顔色の優れない彼をじっと見つめ、言葉を続ける。
「いっぱい考えてくれたみたいで、私も嬉しい。でも、結論は分かり切ってるのに、何を考える必要があったの?」
一晩中考えていた事を無駄だと嘲笑うかのような質問に、彼は答えるか少し考えた後、口を開いた。
「苦痛に見合った幸福なのか、どうか……とか? 他に、いい方法はないのか、とか……そんなこと考えてたら朝になってた」
「それで、いい方法は見つかった?」
彼女の問いに、彼は残念そうにかぶりを振る。
「そっか。昨日はあんなに、大胆に私に迫ってきたのに、その時みたいな勢いのある椿本くんは、どこにいっちゃったんだろうね?」
昨日とは全く異なる彼の態度を、クスクスと笑いながら煽ってみせる真琴。
悔しさはあったが、そんな彼女の表情が可愛すぎて、岳は耐え切れずに目を逸らした。
すると彼女は、彼の視界に無理やりにでも入ろうと、二人の距離を詰め始める。
「ねえねえ。こんなことで照れてるようじゃ、私と手も繋げないよ? これから手を繋ぐ以上のことを、私とできるかもしれないのに――――ねえ?」
「まだ、昨日のこと受け入れるって、言ったわけじゃない……」
彼女の手が、静かに彼の頬へと触れた。
額から垂れてきていた汗を、彼女の指はそっとすくいとってみせた。
そして彼女は、舐めたそうに自らの舌を出してみせる。
「だったら教えて? 昨日一晩中考えた結果、その答えは?」
岳は、昨日真琴が提示してきた『契約』について、その結論をどうするか、昨日から考えてきた。
今朝になっても答えは出せず、こうして彼女を前にするまで、考えがまとめられずにいた。
それが、彼女と一緒の空気を吸っているこの時間を経て、固まった。
――やっぱりこの気持ちは、昨日から一ミリも変わらなかった。
「笠嶋さん」
「はい」
「改めて、言うよ……――――僕と、付き合ってください!」
岳の出した答えに、真琴は笑った。
嬉しさがこみ上げてきた笑顔ではあるが、自分も彼の事が好きだから、という単純な理由から来るものではない。
彼女にとって、これはあくまでも、彼との『契約』に過ぎなかった。
「ありがとう、椿本くん。私を、受け入れてくれて。私を、“死ぬほど”愛してくれて」
真琴の言葉に、体をビクッと反応させながら、唾を呑み込む岳。
そんな彼の事を彼女は優しく抱きしめながら、彼の耳元で吐息を吹きかけるように尋ねかける。
「怖い?」
最接近した彼女の顔を未だに直視できない彼は、目を瞑りながら小さく首を横に振った。
「うそつき」
体の震えが止まらないこんな状態では、彼の嘘もすぐに見抜かれてしまった。
好きな人と付き合える上に、今まさに抱きついてくれている。彼にとって、この上ない幸せな状況のはずなのに、冷汗が滝のように流れてくる。
尋常じゃない汗の量に、彼女を不快にさせていないかと少し心配していると、不気味な音が聞こえた。
ぐちゃ。
その音は、体の中から聞こえた気がした。そして、昨日もこれと全く同じ音を、彼は聞いていた。
腹部に激痛が走るとともに、周りの机や椅子を巻き込みながら、仰向けに倒れこむ。
ガラガラと机と椅子が倒れて、不快な音を奏でた。
「あ……」
倒れゆく最中に見えた彼女の手には、血の付いたナイフが握られていた。
真琴は、そのナイフで以って岳の腹部を刺したのだった。
――だから、これから……
白いカッターシャツに血が滲み、床に広がっていく光景を見下ろしながら、彼女は笑う。
段々と血の気が引いていく彼の顔を、彼女が見たのは、昨日と合わせると、これで二度目だ。
そして、これから何度もこうなる事を、承知の上で、彼は彼女を受け入れた。
分かっていたのにも拘らず、この様で、この事象に慣れていくとは思えず、それはこれからも変わらない。
岳が真琴と付き合う為には、自分の死が絶対だった。
何故なら、告白を受け入れる条件が、彼女に殺される事だったのだから。
――放課後、僕は彼女に殺される。
彼女のナイフで刺された腹部が致命傷となって、岳は絶命した。
「うそつき……あと――――おかえり」
真琴は上機嫌に、生きている岳の耳元で、そう呟いた。