半霊が最後に描く恋物語
「今日はお忙しい中、長男の一ノ瀬龍太の葬儀に来てくださり誠に感謝しています。昨日、龍太は……」
桜の花が咲き誇る3月中旬、俺は交通事故で死んだ。学校に行く途中、道路に飛び出した猫を見て咄嗟に助けようとして車に轢かれたらしい。だけど、俺は事故のことなんて、全く覚えていない。
覚えているといえば、車に轢かれた直前に目の前が真っ暗になって、誰かが俺に話しかけてきたことだけ。確か「お前は、これから半霊として生きる。半霊とは、人間と霊の間に位置する者の事を指す。お前が半霊になっているのは、たった一つだけやり残した事があるからだ。もしそれが果たせないのであれば、お前は永遠に現世を漂うことになるだろう」だったと思う。
その言葉の終わりと同時に、俺は自分の亡骸の上に浮いていたという訳である。すごく長い言葉だったのに、意外と頭の中に残っているのが不思議でならない。
今どうなっているのかというと、まさに俺の葬式が行われている。
葬式に来たのは家族や親戚、あとは高校のクラスメイトなどで、全部でざっと五十人ってところ。でも、俺の死を悲しむ奴なんてこれぽっちもいなかった。大半の奴は、退屈そうな顔をしたり、姿勢を低くして携帯をいじったりしている。
俺は小説家を夢見て、今までの十数年間という短い人生を生きてきた。小説家になろうと思ったきっかけは、近所の書店で一冊の恋愛小説を読んだ時だった。そこは学校の帰りに週刊誌を読みたいがために通っていた所で、その日も店に入ったと同時に週刊誌が置いてある棚へと足を運んでいた。しかし、その日に限って目当ての週刊誌は売り切れていた。
そのまま帰るのも何だから、何か面白い本はないかなと店内をウロウロすることにした。そんな時に、「祝! 映画化!」という大きな見出しの付いた棚を見つけた。その見出しに釣られた俺は、棚に置かれていた本を手に取り、黙々と読み始めた。
初めこそは”一章まででで良いや”と思っていた俺だったが、読み進めていく内にその小説の虜になってしまった。小説の舞台に入ってしまったのではないか、そんなことを思う程に強烈だった。高校受験に見事合格した俺は高校卒業と同時に、プロの作家に弟子入りすると入学当初から決めていた。
でも、父さんがそんなことを許すはずもなかった。一度相談してみたが、帰ってきた答えは「却下だ。小説家っていうのは簡単に言えば、キモい妄想家のことを言うんだ」という皮肉めいたものだった。小説家を侮辱したことに対して、反論しようとしたが、俺にはそんな勇気などない。
自分の家には、"父親の言ったことは絶対に守る"という暗黙の規則のようなものが存在していた。もしそれが守れないというのならば、家族として認められなくなる。結局、俺は父さんの指示に従う形で、進学校とされる今の高校へと通うことにした。
俺の信念は、高校に通っても揺らぐことはなかった。「絶対に小説家になる!」とクラスに宣言するまでに、俺の情熱の火は大きくなった。進学校とはいえ、大学に進むか進まないかは本人の自由。「高校を卒業すれば、一人で何とかしてやる」なんて、よく心の中で言っていたものだ。
案の定、高校のクラスメイトからイジメを受けた。“大学に行かない奴=クズ人間“という称号が高校の伝統のように与えられ、俺もその称号を付けられてしまった。
一番酷かったのは、一ヶ月かけて書いた小説の原稿を焼却炉の中に入れられたこと。俺は何も言えず、歯を食いしばることが精一杯だった。「小説家になるなんて、お前みたいなクズが出来るわけねぇだろ! さっさと死んじまえ!」なんて言われたこともあったかな……。
そんなことを思い出していると、いつの間にか父さんの弔辞やらお導師様の読経、焼香やらが終わっていた。今俺の前で、父さんや母さんたちが俺の体に一輪の白い花や黄色い花やらを添えている。
それが終わると、後ろにいた親戚やらクラスメイトやらが前から順々に立ち上がって、同じようにしていく。その様子を見ている中、俺は列の中に泣いている人間を見つけた。髪が腰まで伸びている長髪に、まだ幼さが顔に残っている女子だった。
「ねぇ、一ノ瀬くん。あの日約束したよね? できたら私に読ませてくれるって……。それなのに、どうして!」
彼女の名前は、品川優希。高校生活の中で、唯一俺のことを認めてくれた人物だ。彼女の存在がなければ、お先真っ暗の高校生活を送っていただろう。
優希との最初の出会いは、あまりにも唐突だった。彼女と最初に交わした言葉は、「ねぇ、きみの夢って何?」だったと思う。あの時の俺は優希の発言に戸惑って、机の上に置いてあった原稿を落としてしまった。それを優希が拾い上げた時、俺は柄にもなく動揺した。何を言われるかも分からないし、最悪の場合だと破られて捨てられてしまうかもと……。
それとは裏腹に、彼女の口から予想外の言葉が発せられた。彼女は原稿をじっくり見た後に、「これ面白いね。もし完成したら私に全部読ませてよ」と言ったのだ。小説を書き続けて、あんなに嬉しいと思ったことはない。俺は思わず大きな声で、「ありがとう!」って言ってしまった。
彼女が言っていた”あの日”というのは高一の春だ。あれから既に二年の月日が経った。偶然にも三年間同じクラスだった優希と俺は、その約束をずっと覚えていた。
登校して彼女と最初に交わす言葉は「完成した?」なのだから、忘れるはずもない。だけど、俺は優希との約束を破ってしまった。
「うっ……ううっ……」
「優希、もう泣かないでよ。ほらっ、後ろも混んでるんだし、行くよ」
すぐ後ろにいた女子に、泣き弱っていた優希が連れられていく。遠のく彼女の泣き声が、どんどん俺の胸を締め上げていく。
俺だって、死にたくて死んだ訳じゃない。もっと、優希と話をしたかった。俺は白い木箱に入れられた亡骸に「どうしてそんなに幸せそうな顔になってんだよ、俺!」と大声で叫びたかった。
しばらくすると、長きに続いた葬式もようやく閉幕した。俺の亡骸は、棺桶とともに数人の葬儀関係者によって外へと運ばれた。自分の亡骸を自分自身で見届けるというのはすごく変な気分だった。
ようやく、見送りが終わった。外に出ていた奴らは、車や貸切バスがを停められてある駐車場へと向かっていった。
行く当てもない俺は、自分の隣にいた茶髪の女子の後を付いて行くことにした。彼女の名前は、一ノ瀬凛。俺の2つ下の妹で、今は俺と同じ高校に通っている。
凛はしばらく歩いた後、急に立ち止まってしまった。
それが気になった俺は、凛の目の前まで行った。
凛は声を押し殺しながら、目から出る大量の涙を拭っていた。たった一人の兄である俺を亡くした辛さに、耐えられなかったのだろう。まだ十五歳なのだから、耐えられる訳もないよな。
凛は駐車場に停めてある車の前に来ても、泣き止まない様子だった。ワゴン車の扉を凛が開けた隙に、俺は車の中に入る。このまま凛を放っておくなんて、今の俺には出来るはずもない。数十分後、母さんと父さんが乗り込む。二人とも凛と同様に俺の姿が見えていない。
「早く帰って龍太の部屋を片付けないと……。あの子がお盆に帰って来ても大丈夫なようにね」
「う、うん」
母さんの言葉に、凛は俯きながら返答する。
母さんと凛の目が真っ赤に腫れているのに対して、父さんは眠たそうな目になっている。車が発進したと同時に、父さんの口から大きなため息が出る。
「はぁ〜、あのバカが死んだせいで今回の商談がパーになったじゃねぇか。せっかくの重役に上がるチャンスが……」
それを聞いた母さんは、表情を一変させた。いつも俺を叱るときとは別のもの、まるで憎しみに染められた化け物のような顔になっている。目からは大量の涙が溢れて、体が小刻みに震えている。
「ねぇ、なんであの子に対してはいつもそんなことばかり言うの! なんで家族のことよりも自分のことを優先して考えるの! あなた、おかしいんじゃない?」
車の中で、車内を揺らす程の奇声が響く。俺と凛はいつものように耳を手で押さえて、それが聞こえないようにする。
しかし、今日の父さんはいつもの父さんじゃなかった。いつもなら「はいはい」とだけ言って終わるのだが、珍しく舌打ちをして、母さんに反発し始めたのだ。
「ちっ、んなもん知るか! 大体、お前らがこうして生きていられるのだって俺の財力があってこそだろうが! この世はなぁ、全て金なんだよ! 金がなきゃ生きられねぇの。それにあいつみたいな妄想家に、生きる価値なんかあるのか? どう考えたってあんなゴミクズに生きる資格なんかねぇんだよ! それに忘れたのか? 俺の命令に従わないとどうなるかってことを」
父さんは、昔からこういう考え方だった。自分の家族よりも、大事なものは会社での地位と金。
それを嫌という程聞かされていた母さんは、葬儀で疲れたせいもあるのか言い返す気力をなくして黙り込んでしまった。凛もその話には耳も貸さず、外の景色をずっと見ていた。父さんは腹が立っているのか、車のスピードを上げ始めた。早く家に帰って休みたいのだろう。
俺は、黙ったまま後部座席でその様子を見ているしかなかった。父さんの言った通り、俺はゴミ扱いされても仕方ないやつなのだから……。
今の俺なら、「五月蝿いんだよ!」と言い返せたかもしれない。でも、自分自身が見えてない時点で何も出来ない。だから、俺が生前にやり残したことは何なのかを考えることにした。あるとすれば、未完成の小説が複数あったり、貯め録りしたアニメを見ていなかったりということぐらいだ。しかし、あの言葉の中には”たった一つだけ”となっていた。
そんなことを考えていると、目の前に自分が生前に暮らしていた大きな家が見えていた。
父さんは車庫に車を止めたことを確認すると、乱暴げにドアを閉め、家の中に入ってしまった。
凛が扉を開けた隙に、俺は車から下りた。母さんと凛はトランクに詰められた俺の遺品やらを抱え込んで、家の中へと入っていく。俺は扉の前でその様子を見届けてから、自分の部屋がある2階に行くことにした。
母さんたちは荷物を二階に上げて、喪服のまま俺の遺品などの整理をしていた。半霊の俺には、黙ってその様子を見ていることしかできない。俺が荷物などを持とうとすれば、手が勝手にそれを突き抜けていく。俺に出来ることは、母さんたちの邪魔にならないように、ただ何もせずにベットで横になることぐらいだった。
片付けが終わった頃にはすでに太陽は落ちて、代わりに月が昇っていた。俺は母さんと凛が1階に下りたのを確認してから自分が消えるために必要になりそうなものを探すことにした。
だが……
「お兄ちゃん?」
俺が声のした方に顔を向けると、そこにはピンク色のパジャマを着た凛の姿があった。しかも、俺と目がバッチリ合っている。俺と凛の間に、不穏な空気が漂い始める。
「凛、まさか俺の姿が見えるのか?」
「う、うん。声もはっきり聞こえるし……」
その瞬間、俺の頭に電流が走った気がした。
まさかと思って机に置いてあった大量の原稿に触れてみると、しっかりと紙の質感とペンの筆圧を感じることが出来るのだ。
そんな中、何かにギュッと体を締め付けられる感触が直撃した。俺のすぐ下から、小さな泣き声も聞こえる。その感触の正体は、凛の強烈なハグだった。俺の胸で顔を押し当て、すすり泣きの音を上げる。俺は凛の体を記憶に焼き付けるように、ギュッと抱き返した。
俺には理解不能だった。どうして、夜に姿が見えるようになったのか。裏を返せば、これが俺が成仏できるようになるための鍵に繋がるかもしれない。そう思った俺は、落ち着きを取り戻し始めた凛に今の状況を打ち明けてみることにした。
「なぁ、凛。黙って俺の話を聞いてくれないか? それとこのことは母さんたちには内緒だぞ」
「う、うん。もしかしたら、これがお兄ちゃんとの最後の会話になるかもしれないしね」
俺の体から離れながら、凛はそう言った。凛の目は、嘘偽りを感じさせない温もりに染まっていた。
凛が頷いてくれたお返しと言っては何だが、俺は今日これまでにあったことを全て話した。事故の後に聞いた言葉のこと、献花台の上で見ていたこと、車の中での出来事など。話し終わると、凛はクスッと笑った。
「なんで笑うんだよ?」
「お兄ちゃんって本当に鈍いよね。お兄ちゃんが一つだけやり残したことなんて、あれしかないじゃん」
「”あれ”?」
「まだ分かんないの? カレンダー見てみなよ」
「カレンダー?」
凛に言われた通り、俺はカレンダーを見た。カレンダーに載っているのは三月だ。しかし、それだけでは何も分からない。俺が首を傾げていると、隣にいた凛が小さく呟き始めた。
「お兄ちゃん、三月十四日だよ」
「三月十四日って言うと、ホワイトデーだったよな。それが、どうしたんだよ?」
その発言を聞いた凛は、小さな溜め息を吐きながら部屋を出ていった。そのすぐ後に、二階の冷蔵庫の扉が開く音が聞こえてきた。扉の閉まる音がすると同時に、凛がピンク色の包み紙のようなものを持って部屋の中に入ってきた。
「これ、二階の冷蔵庫の中にずっと入れてたの」
「これは?」
「開けてみなよ。これを見れば、答えが分かると思うからさ」
凛に言われた通りに、俺は袋を縛っているリボンを解いてみた。
すると、中からチョコレートとクッキーの入った透明な袋が姿を現した。どれもしっかりと成形されていて、スイーツ店の店頭に並んでも可笑しくないほどの出来だ。
「これね、優希さんがお兄ちゃんのために作ったバレンタインのチョコレートだよ。風邪で休んだお兄ちゃんのために優希さんがわざわざ私のクラスまで持って来たくれたんだよ。”これ、あなたのお兄さんのために作ったバレンタインのお菓子。お兄さんが気づくまでは、冷蔵庫で保管してね。二ヶ月以上持つと思うから。ホワイトデーになっても気付かないようだったら、これを見せてあげて”って言ってた。超鈍感なお兄ちゃんでも、もう分かったでしょ?」
それを聞いた瞬間、俺の頭の中にある出来事がアニメーションとして流れ始める。あれは、高1の冬の登下校時に起きた出来事だった。
◇◆◇◆
学校の授業が全部終わって、机の中の教科書やら休み時間に書いた小説の原稿やらを片付けている時だった。一番前の席にいた優希が、俺の席がある一番後ろまで走ってきた。
「ねぇ、一ノ瀬くん。一緒に帰ろうよ」
「あ、うん」
優希の勢いに押され、俺はゆっくりと教室を出た。いつもなら部活とかで帰れないのだが、今日はたまたま部活が休みになったらしい。
雪で覆われた道路をしばらく歩いていると、横を歩いていた優希が急に俺の目の前に来た。そのとき、俺は久しぶりに彼女の笑顔を見た気がした。
「ねぇ、小説っていつできるの? 一ヶ月後? それとも二ヶ月後? はたまた一年後とか?」
「そんなの分かるわけないだろ。けど、俺たちが卒業するまでに完成させたいな。そうじゃないと、お前との約束が果たせないからな」
「ふふっ、そうだね。それで、どんな小説なの?」
「主人公とその幼馴染が織りなす恋物語ってところかな……。軽いネタバレになるけど、幼馴染の女の子が主人公に自分が好きだってことが分かるまで、折れずに奮闘するっていう感じだな」
「今の……たい……ね……」
優希が何を言ったのか、俺は全然聞き取れなかった。聞き返そうとしたが、そのタイミングは二人の間を通ってきた自転車によって阻まれた。
そのまま優希の後ろ歩き続けると、小さな神社がに辿り着いた。この神社は、試験前や部活の大会前によく2人でお参りに来ていた神社だった。しかし、年内のテストはつい最近終わったばかりである。何のためにこの神社に来たのか、俺は不思議に思いながらも優希の後についていく。
「ねぇ、お参りしない? ずっと同じクラスでありますようにってさ」
「いいけど、お前からそんなこと言い出すなんて珍しいな」
それを聞いた優希は、ほっぺたを膨らませた。俺の発言が、癇に障ったのだろうか。
俺は苦笑いしながら、その場を凌いだ。俺の表情を見た優希はちょっとしたため息をついて、賽銭箱の方へと歩き出す。
財布を持っていなかった俺は、優希から五円玉を借りて賽銭箱の中に入れた。俺と優希から賽銭箱に投げられた五円玉は、綺麗な弧を描いてその中に吸い込まれていく。五円玉が入ったことを確認した優希は、吊るされている鈴を二、三回振る。
鈴の音が消えてから、俺たちは二礼二拍をして目を閉じる。俺は優希の言った通り、ずっと同じクラスでいられますようにと心の中で祈った。俺が最後の一礼をしたとき、横で優希が小さく呟き始めた。
「一ノ瀬くんと結ばれますように……」
俺はそれを聞いた時、自分の体が火照り始めているのに気付いた。
今までにないほど胸の鼓動が自分の耳の中に入っていく。優希は一礼した後、少し照れ臭そうにしながら、すぐに俺の方を向いた。
「おい、優希。お前今さっき言ったこと、あれは本気で言っているのか?」
「そ、そうだけど。ねぇ、一ノ瀬くん。あのお願いに、2つ追加したいことがあるんだけどいい?」
「べ、別に構わないけど……。それで、追加するって何を?」
それを聞いた優希は、俺が今まで見た中で最高の笑顔になった。首に巻いていた平凡なマフラーが、顔の美しさによって一層ブランド物のように見える。
「二年後のホワイトデーに、この神社で一ノ瀬くんの小説を読みたいのと、この返事をして欲しいってこと。ちょっと複雑だけど、いいかな?」
その発言を聞いたことで、俺の思考は完璧に停止した。俺は優希と結ばれることと、二年後のホワイトデーに俺の小説をここで読むことに何の意味があるのか疑問に感じたからだ。
しんしんと降っていた雪も、俺の思考が止まったのと同じように止んでしまった。
冷静に考えてみれば、俺にとってはどうでも良いことだった。どこで渡そうと、読んでもらえればそれでいいのだから。それに、小説はもう出来ているのだ。「卒業日に渡せば優希も喜ぶだろう」という勝手な思い込みで、ずっと机の中に眠らせたままになっている、ただ、それだけのことである。優希に「出来ていない」と嘘をついたのも、サプライズ感覚で彼女に渡したいからだ。
「別にいいよ」
「ありがとっ!」
俺の返答を聞いた優希は、急に手袋を脱ぎ始めた。手袋から出てきたのは、純白な肌に包まれた美しい手だった。
「おいおい、急に何してるんだよ」
「指切りに決まってるでしょ。神社の前なら、ここの神様もこの様子をしっかり見てくれるしね。ほら、一ノ瀬くんも早く手袋外してよー」
渋々だが、俺も手袋を外した。もしここで指切りを断ってしまえば、この神社の神様から天罰を受けるだろう。
手袋を外すと、思った通りに冬の冷たい風が直接手にくる。俺はその寒さを我慢して、優希の小指と自分の小指を絡ませた。
「「指切りげんまーん、嘘ついたら針千本飲ーます。指切った」」
指切りが終わると、なぜか優希と俺はお互いの顔を見て笑い始めてしまった。その声が、神社の中で高らかに響いていることも知らずに……。
◇◆◇◆
あの言葉の意味が、俺はやっと理解できた。俺は立ち上がって、机の二段目に収納していた分厚いファイルを取り出した。その表紙には、「雪の種」と書かれている。この作品は俺がどんなことがあろうと、高一の春から半年という年月をかけて作りあげた唯一の長編作品だ。
俺は壁の方に視線を向けた。壁に吊るされていた時計は、ちょうど八時を指していた。まだ間に合う、そう思った俺は小説の原稿を持って部屋を出ようとした。その時、俺のすぐ後ろで凛の声がした。後ろを向くと、凛が涙目になりながらも俺の服の端っこを掴んでいた。
「ねぇ、お兄ちゃん。行っちゃうの?」
凛の言葉で、また胸が締め付けられるような気持ちになった。
だけど、ここで「行く」という決断をしなければ、死んだ後で絶対に後悔してしまう。俺は凛の顔をしっかりと見てから、ゆっくりと首を上下に動かした。それを見た凛は、目から大粒の涙を流している。
「なぁ、俺からの最後のお願いを聞いてくれないか?」
凛は涙をぐっと堪えて、俺の目を見る。
俺は泣きたい、凛と離れたくないという感情を押し殺して、凛に最後のお願いを伝えた。”今まで溜め込んできた小説の原稿を俺の遺骨と一緒に入れるように”と。そう言って、俺は机の中から二個のファイルと十枚程度の紙を凛の目の前に置いた。
「また、ここに帰ってくるよ。だから……」
凛は俺の言葉を遮って、俺に話しかけ始めた。目は涙目のままだったが、俺の方をちゃんと見てくれていた。茶色の髪がLEDの光に照らされ、ブロンズの輝きを放っている。この光は、生前の中で最も明るいと思う。夕日の眩さなんて、眼中にないだろう。
「お兄ちゃんは、本当に小説を書くのが好きだったんだね。だけど、約束だよ! お盆とか、正月には絶対に帰ってきてよね!」
凛の言葉に、俺は大きく頷いた。
俺が階段を下りようとすると、なぜか凛も俺の後ろを付いて来た。父さんと母さんはすでに寝室にいて、一階はすでに真っ暗になっていた。
俺を気遣ってか、凛が玄関の電気を付けてくれた。俺は玄関の扉を開けたと同時に、「今までありがとな」と凛に告げた。
それを聞いてなのか、凛はまた泣き出した。俺は凛の泣き声を心の中に刻み込むように、玄関の扉をゆっくりと閉めた。
家から完全に出た俺は、一目散に神社の方へと走り出した。家からあの神社までだと、走っても十分くらい掛かる。
梅の花びらで覆われているコンクリートの道を、俺はひたすら歩き続けた。全ては、あの時の約束を果たすために。
薄暗い道を走り続けていると、遂に目的地である神社に到着した。境内の中を歩いて行くと、電灯に照らされたベンチに、一つの影があるのに気づいた。
その影にどんどん近づいていくと、遠くからでは分からなかった輪郭やら髪型やらが俺の目にはっきりと映った。
その影は、どこからどう見ても優希だった。その時の彼女は、まさにセミの抜け殻のようになっていた。この姿は、部活の大会で負けてしまった時なんかに見たことがある。こんな時、俺は雰囲気を和らげようと、人を揶揄うような口調で話していた。
「おいおい、何しょぼくれてんだよ。せっかく、お前との約束を果たそうとここまで来たのによー」
その声に気づいたのか、下を向いていた優希が徐々に目線を上げていく。そして、俺と視線が合うや否や優希は目をパチクリさせてベンチから立ち上がった。
「一ノ瀬くん! なんでここに? たしか死んだはずじゃ……」
「あぁ、死んださ。でも、俺がここに来たってことがどういうことなのか、友達のお前なら分かるよな?」
「一ノ瀬……くん」
突然の出来事に、優希は言葉を詰まらせた。俺に会えたという喜びと約束を守ってくれたという嬉しさが、彼女の中で込み上げているのだろう。
俺だって、同じ気持ちだ。俺は忘れないうちに、右腕に抱え込んでいたあの分厚いファイルを優希の目の前に出した。優希はベンチに座って、小説をペラペラと捲めくり始めた。俺は優希の感想を直で聞きたいがために、彼女の横に座った。
「雪の種……。これが、私のために書いてくれた小説なんだね。本当、一冊の本みたい」
「まぁな。で、感想はどうなんだよ?」
「凄く良かったよ。登場人物の動きとか心情が私たちみたいで、少し新鮮な気持ちになれたし。これ、私の宝物にするね」
「ありがとな。死んだ人間に、そんな勿体無い感想を言ってくれて。あっ、俺もあの返事しないとな」
「たしか”私と一ノ瀬くんが結ばれる”ってやつね。私、あれから2年待ったのに一向に返事がなかったから、他に女が出来たのか不安になってたけど、ちゃんと覚えておいてくれたんだ。それで、一ノ瀬くんは私と付き合ってくれるの?」
「残念ながら、答えはNOだ」
優希の顔が、若干崩れた。勿論、俺は訳なくこんなことを言ったつもりではない。ちゃんとした理由はある。優希に当てられた街灯の光が薄くなったタイミングに合わせて、心の中にぎゅうぎゅう詰めにされた言葉の山を整理し始めた。
「じゃあ、何でNOなの? 一ノ瀬くんのことだから、気分とかで決めたりしないと思うの。だから、理由を聞かせて欲しいな」
俺は静かに目を閉じて、思っていることを全て口に出した。
その間は今まで吹いていた風も止み、空中に浮いていた梅の花びらも地面に落ちる。言い終わると風が吹き出し、地面に落ちた桜の花びらが再び空中に舞った。
「なーんだ、そういうことなんだ。よかった〜、私のこと嫌いじゃないって分かっただけでも嬉しいよ」
優希はそう言っているが、表情は嘘を吐かない。俺は、そっと優希の体を抱き寄せた。彼女の体は俺みたいな冷めた体ではなく、ちゃんとした温もりのある体だった。
これが生きる者と死んだ者の差、この時俺は初めて実感した。優希は俺の体の中で、顔をしわくちゃにしながら泣いていた。端から見れば、泣きじゃくる子供を諭すような感じになっている。優希が泣き止んだことを確認した俺は、そっと彼女の目から出ている一筋の涙を自分の親指でやさしく拭った。
「なぁ、優希。俺からもお願いがあるんだけどいいか?」
「いいよ。一ノ瀬くんは、私の約束をちゃんと守ってくれた。今度は、私がそのお願いを聞く番だよ!」
「じゃあ、それを読み終わったら俺の墓の前で感想を言ってくれないか? 読んでそのまま終わりじゃ、なんかもったいないからよ」
「分かった。でも、言って終わりじゃ一ノ瀬くんも忘れちゃうから、手紙として遺骨を入れてある箱の中に入れた方がいいと思うんだけど……。どうかな?」
「別にそれでもいいよ。それとさ、お前も気づいていると思うが、俺はもう少ししたらこの世から消えると思うんだ。今からお前に伝えることは、俺がお前と出会ってからずっと心の淵に置いていたもんだから、よーく聞くように」
「ふふっ、なんか校長先生みたいだね。」
それを聞いた優希は、体が半分消え掛かっている俺を見ても動じず、そのまま聞いてくれた。
俺が優希に最後に伝えたかったこと、”あなたのことがずっと前から好きでした”というワンフレーズを。
優希はそれを聞いたあと、すぐに”一ノ瀬くんのバカ”と小さな声で返してきた。
優希との最後の会話が終わると、俺の視界から周りにあった梅の木々やらが消えていた。とうとう、半霊からちゃんとした霊になれたのだと思えた。
遠くまで続く白い地面に座り込んだ時、羽織っていたジャンバーのポケットに何かが入っているのが分かった。そこに入っていたのは、優希が作ってくれたバレンタインの透明な袋と、くしゃくしゃになったピンクの包み紙だった。ピンクの包み紙の裏側には、緑色の水性ペンで文字が書かれていた。
「あの約束、まだ覚えているよね? もし忘れたんだったら、ヒントを教えてあげる。それは三月十四日、ホワイトデーだよ」と。俺は「あいつらしいな」と思いながら、その紙を小さく折って同じところにしまった。
こうして、俺が半霊として生きた最初で最後の日が幕を下ろした。
その後はというと、すごく暇な日常を送っている。天国には何もない。あると言えば、俺みたいに浮遊している霊くらい。楽しみと言えば、地上の様子を見ることくらいだな。天国には地上の様子を映す鏡のようなものがあって、見たい場所や人の名前を言うと、勝手に映して出してくれる。
あの後、優希は高校を卒業後に超有名国立大学に見事合格して、今では楽しい大学生活を過ごしている。
凛は高校の部活の成果が評価され、とあるプロチームにスカウトされたらしい。
ちなみに、父さんと母さんはというと、俺が消えた一週間後に離婚した。父さんは二人に多額の慰謝料を払って、何も言わずに家を出ていったんだとか。今では裕福とは言えないものの、凛と母さんの二人仲良く暮らしている。
そうそう、この間あの作品の感想が手紙として送られてきた。そこには”すごく楽しかったし、クライマックスではボロボロと大泣きしてました。主人公の一言がとても切なくて……”といった感じで長々と、あいつらしい綺麗な文字で書かれていた。
それを読んでいて、俺は少々照れ臭くなってしまった。自分が書いてきた小説をここまで褒められるとは、微塵も思っていなかったからだ。数分掛けて読んできた感想も、とうとう終盤に差し掛かっていた。そのままの流れで最後の一文を読もうとした俺だったが、その一文を読み終えた後、俺の目から涙が溢れていた。悲しみというより、嬉しいという意味での涙が。
最後の一文にはこう書かれていた、”私が一ノ瀬くんの夢を受け継いであげるから、安心して天国からみつめていてね。ずっとずーっと大好きだよ!”と。