暁、少女、花言葉
昼間は少し汗ばむくらいなのに、まだ早朝は冷え込む。
春はあけぼのだなんていうけれど、できれば春眠暁を覚えずの方を採用したい。要するに布団の中から出たくない。
5月初旬の今、『さむい!』というほどの時期ではないけれど、それでも北海道ではまだまだストーブが現役だ。この時間は、特に。
「うー、いやだけど、おきます。
うそ。いやじゃない。
おきる!おきるおきるおきます!楽しくおきます!!」
自己暗示をかけるように、ポジティブな言葉を口にして、布団を蹴り上げえいやと起き上がる。
早く準備しないと、朝練に間に合わなくなってしまう。
――――
ばたばたと学校へ行く準備をして、母に『あんたはいったいなにと戦っているの』と呆れられる程度の量の朝ごはんをしっかり食べて、それでもお昼休みまではとてももたないので朝のホームルーム前に食べる用のお弁当とお昼休みに食べる用のお弁当とをしっかり通学に使っているリュックにつめて、家を出る。
自分でも、毎日毎日こんなに食べてどこに消えているのかは不明だ。
でも、高校生なんてみんな無限に食べてない?私の周りだけ?
私の場合は無限に食べてはいるけど、部活が厳しいおかげか多少体重が増えても体脂肪率は変わらないし、お腹だってうっすらとだけど腹筋のシルエットが見えてる。だからセーフ。たぶん。
「あ、やばい間に合わない!」
玄関を出たところで時計を確認し、6時を回っていることに気がつき焦りを覚える。
いや、公式に決められた練習の時間には余裕で間に合うのだが、先輩よりも早くに行って事前準備をして、と、考えると結構ぎりぎりの時間だ。
いやでも、6時ってことは、もしかしたら。
「おはよー!
今日もはやいねー、花梨ちゃん!」
焦りと期待にゆれる私の耳に、聴きなれた、私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
少しハスキーで、女の人にしては少し低めで、やわらかくて優しくて、私の大好きな人の、声。
私は今高校2年生で、花梨という名前で、全国大会常連の吹奏楽部に所属していて、朝は苦手だけど部活に情熱を燃やしていて、担当楽器はチューバで、そして、恋をしている。
相手はこの早朝の、この時間、運がよければすれ違える、新聞配達のお姉さん。
楓さん。
新聞奨学生だという彼女は、大学生で、いつもジャージ姿で、冬でも夏でも小型バイクを華麗に操って、すごく背が高くて、とってもスタイルがよくて、長い黒髪をヘルメットの下から出している姿がなんだかかっこいい。
「おはよございます、楓さん!」
まあ、お仕事中の彼女とは、こうして挨拶くらいしかできないのだけれども。
今日は少し配達に余裕があるらしい楓さんが、バイクを降りて、ヘルメットのシールド部分をスライドさせて、うちの分の新聞を持って歩み寄ってきてくれた。
「はい、どーぞ。
朝練がんばってね」
丁寧にぽんと渡されたその新聞が、なんだか特別なものに見えてしまうくらい、楓さんの笑顔に心をうちぬかれる。
その笑顔に見とれているうちに、彼女はまたバイクにまたがって、軽く私に手を振るとその長く綺麗な黒髪をなびかせながらあっという間に去っていってしまった。
「今日も、かっこよかったぁ……」
しあわせな余韻に浸ってしまったが、楓さんを見ることができたということは、かなり急がないと、間に合わない。
まあ、今の時期、雪はないから、急げば間に合う。
――――
楓さんとの出会いは、去年の4月。
私はまだ高校に入学したばかりで、徒歩圏内にあった中学とは違ってなれない自転車通学に四苦八苦していて、あの日も私は今日くらいの時間に家を出た。
ただあの日は運悪く前日の夜にけっこう雪が降って、慌てていた私は、盛大に雪にタイヤをとられて、転んだ。
「うわ、大丈夫!?」
冷たい、痛い、恥ずかしいと、涙目になる私を助け起こしてくれたのが、楓さんだった。
「あーあーどろどろだぁ。
君そこの家の子だよね?
血は出てないみたいだけど……平気?」
血は、出ていなかった。変にひねった感じも、なかった。
多少すったりうったりした感じはあったけど、とりあえず、無事、だった。
けれど、楓さんの言うとおり、私は制服も、靴も、靴下まで、どろどろのべしょべしょになってしまっていて、とてもこのまま学校に行ける状態ではなくなっていた。
「平気、です。
……けど、まにあわないぃいいい!」
当時の私は強豪校の、文科系のくせに妙に体育会系なうちの吹奏楽部に正直ちょっとびびっていて、先輩たちのことを過剰に恐れていた。
今思えば『雪で転んでしまって』ときちんと事情を説明すれば先輩たちは大変だったねとねぎらってくれる優しい人ばかりなのだが、当時の私はそれがわかっていなかった。
だから、今から着替えていては朝練に遅れてしまうというその事態に、パニックになって、泣いた。
初対面の楓さんに、たまたまそこに居合わせて、優しく声をかけてくれただけの楓さんにすがり付いて、泣いた。
「え、ええ……?
だ、大丈夫だよ!なんなら私が送っていくから!
だからとりあえず着替えて!ね?」
私を安心させるためか、そのとき楓さんはヘルメットを外してから私の顔を覗き込んでくれた。
さらりとした長い黒髪を従えて現れたのは、えらく整った美貌、だった。
優しげで黒目がちな大きな瞳、鼻筋はすっと通っていて、唇は薄く、絵本の中の王子様のような、某歌劇団の男役の方のような、中性的な美貌だった。
新聞配達をする人といえばおじさんのイメージしかなかった私は、いきなり目の前にとんでもない美人が現れて、とてもびっくりした。びっくりしすぎて、涙も引っ込んだ。
「とりあえず痛いところはない?」
美人ってのは心根まで美人なのかと呆然とする私の耳に、ハスキーな、心地いい声で聞こえてきたその言葉に、私はただ、うなずいた。
「よかった。
あわてなくても、大丈夫だからね」
そういって優しく微笑んでもらって、ぽんぽんと頭を撫でられた瞬間には、私はもう、たぶん、楓さんに一目ぼれをしていたのだと思う。
その日は結局お母さんに学校に送っていってもらったのだけれども、楓さんに心配と迷惑をかけてしまったのは事実なので、後日楓さんのいる営業所に両親とともにお礼を言いに行って、『よく考えたらコレ二人乗りできないやつだった』なんて照れ笑いする楓さんにきゅんとしたりして、それからずっと、私は、楓さんのことが、好きだ。
近所に住んでるみたいで、スーパーなんかでたまに出会ったときに声をかけてはちょっと雑談をしたりなんかもして、楓さんを慕う妹分みたいなポジションにおさまりつつある。
これ以上は、望まない。
私も、楓さんも、女同士だし。
結婚は、今のところ日本ではできない、し。
このまま、勝手に楓さんのことを慕って、想って。
そして、淡くて綺麗な、初恋の思い出に、できたらいいなぁ、なんて、勝手に想っている。
――――
「あ、花梨ちゃんだー」
放課後、本屋さんで自分の限りあるお小遣いと限りない欲望の兼ね合いに悩んでいたところに、背後から声をかけられた。
この、声は。
私の世界で1番大好きな、甘くてやわらかくて、すこしハスキーな、この声、は。
「楓さ……ん?」
嬉しくて嬉しくて、振り向いた。
暁の時間だけでなく彼女に会えるなんて、今日はなんていい日なのだろう!
そう思いながら振り向いた先にいたのは、彼だった。
さっぱりと、耳がでるくらいに髪を切りそろえて、真新しいスーツに身を包んだ、とてもかっこいい、男の人が、そこにいた。
でも、小首を傾げたまま硬直する私の耳に聞こえてくるのは、大好きな楓さんの、大好きな声で。
「ん?
……ああ、この髪?あんまり似合ってない、かな?」
そういって照れ笑いをする目の前の人は、確かに楓さんの笑顔で、楓さんの声で、その髪型もとってもよく似合っていて、とってもかっこよかった。
「いや、すごく、かっこいいです。
ただ、あの、ちょっとびっくりして……」
混乱しながらもなんとかそう答えると、目の前の人は、照れくさそうに頬をかく。
「うん。私も切りたくなかったんだけどねー。
でもまあ、就活だし、ねえ」
ああ、確かに、就職活動に当たっては大学生は髪型を落ち着きのあるものに変えるものだ。
私の兄も金と黒のツートンカラーをやめていた。兄は大学生のときくらいしか趣味に走った髪形なんてできないなんていっていたなぁ。
そうか、楓さんは、単にロングヘアが趣味なだけの、男性、だった、のか。
「……私、楓さんのこと、女の人だと思ってました」
ぽつり、と、思わず声に出していた。
ものすごくかっこいい女の人だと、思っていた。
いやだって、常にジャージだったし。
体育の女の先生みたいだなって勝手に思っていたというか、きりっとした雰囲気の美人だし、男の人にしては物腰柔らかというか、いつでも丁寧というか。
私の言葉を聞いた楓さんは、きょとんとした顔で小首を傾げた。
「え。そうなの?
ああでも確かに勘違いした男の人に告白されたことは何回かあったなぁ……」
でしょうね!男の人だって血迷うと思いますよ、その美人っぷりですもの!
心の中で楓さんに告白した男性たちに『気持ちはわかる』と思いながらただうなずく。
「私、ストレートだから、全部断ったけど。
残念ながら、私、ついてるよ」
「……ついてるんですか」
「うん。生えてるよ」
「……はえてるんですか」
ついてる、も、はえてる、も、アレのこと、だよなあ。
この美人についててはえてるのかぁ。まじかぁと、かつて楓さんに告白した男性たちが思ったであろうことをぼんやりと考えながら問えば、楓さんはあっさりとうなずく。
「そう。
……なんか、ごめんね?」
楓さんは心から申し訳なさそうにしているが、楓さんだってわざとだましていたわけではないし、私にはそれよりなにより確認しなければいけないことがある。
「楓さんは、男の人で、ストレート、ということは、恋愛対象は、女の、人ということで、よろしいのですか」
単語のひとつひとつを確かめるように、丁寧に、楓さんに尋ねる。
「えっと、ごめん。
お姉さんとしてなついてくれてたんだとしたら、なんか、悪いことした、よね。
私は、異性愛者の、男性です。女の子が好きです」
「好きです!!結婚してください!!」
反射的に叫んでいた。
しまったいくらなんでも本屋でプロポーズはないだろうと思い至ったのは周囲の客のぎょっとした表情が視界の端に入ってきてからだった。
「え、ええ……?
いやさすがに高校生と結婚は……無理かな」
楓さんは困惑した様子で、丁寧なお断りの言葉を口にする。
「では、結婚を前提のお付き合いを!ぜひ!」
彼の手をとってそう畳み掛ければ、楓さんはますます困ったような顔をする。
「年下は駄目ですか!?」
思わずそう問い詰めると、楓さんは一歩後ろにひきながら、ゆるゆると首を振る。
「駄目ってことはないけど……なんか、こう、制服の女の子とかまぶしすぎて、ちょっと、……萎える。
ごめんなさい」
「くぁっ!」
決死の告白をさっくりとお断りされて、思わず変な声が出た。
楓さんはそんな私を苦笑してみている。
ああ、だめだ。好きだ。
この人のこと、諦めるなんて、そんなの。
「……おーけーおーけー。
では、諦めませんので。
制服卒業するまで、した後も、ずっと、ずっと、ずーーーーーーっと追いかけ続けますので。
これは、きっと、私の、生涯ただ1度だけの、唯一の恋、です」
私が決意を口にすると、楓さんは、ぱちくりと目を瞬かせている。
「え、初恋?」
その年で?と言外にきかれた気がする。
だけど、これは、事実、私のはじめての恋。
「初恋です。初恋、実らせます」
決意をこめた目でまっすぐに楓さんを見つめると、彼は、ふいっと目をそらした。
「うわぁ、重たい……」
ぽつり、とつぶやかれた言葉に、少しだけ、不安になる。
「重たいのは、おいやですか?
でもきっと、軽い愛などございませんよ」
不安を押し殺して、あえて自信満々のようにそう言えば、楓さんは、いつかのように、優しく笑って、ぽんぽんと、頭を撫でてくれた。
「それが、案外、いやでもない、かもしれない。
まあ、だから、……がんばって」
うん、これは、諦められない。