兄のため王子のため奮闘する魔法少女
第一章 道化師と魔女
ザーリはベッドに腰掛け、もう何十分も貧乏揺すりをしていた。
無理もない。まだ十五歳なのに、これから王宮主催のオーディションを受ける
のだ。
「お兄ちゃん、落ち着かないと、しゃべれなくなるよ」
双子の妹・トリアがダメ出しをする。とはいえ、彼女も緊張で青ざめている。
なにしろ、これから兄が受けるのは、王子様の道化を選ぶオーディションなのだ。
ザーリは唇を震わせ、
「わわわ分かっれるよ」
「何言ってんのか、ぜんぜん分かんない! そんなんじゃ、受からないよ」
ザーリは自分に叱られている気分だ。なにしろトリアはブロンドの巻毛に緑色
の大きな目のタヌキ顔に声色まで自分にウリ二つ。違うところは妹が髪型をポニ
ーテールにしているところぐらいで、彼女がスリムで貧乳なため、体格さえ生き
写しだった。
「ああ、が……頑張る。わざわざ応援に来てくれてありがとう」
トリアは三年前から魔女の修業中で、師匠に頼み込んで一日だけ休みをもらっ
て実家に来ていた。
「ジル先生に『そんなことぐらいで帰るな』って言われたんだけど、なんとか説
得したの。戻ったら一時間、先生のマッサージをしますからって」
「マジ悪かった、大事な修業中に。お前の深い愛情にはいつも感謝している」
「だって、王子様の道化になったら、家が建て替えられるじゃん。ママも、それ
を期待しているのよ」
「そーゆーことか」
「シングルマザーで頑張ってくれたんだから、楽させてあげなきゃ。私が一人
前になるのはもっと先だから、今、お兄ちゃんに頑張って欲しいの」
「分かった。俺、ぜったい合格する!」
ザーリは貧乏揺すりをやめ、すっくと立ち上がった。
「このオーディションには全国からお笑いの天才達が集まるだろう。しかし、僕
は誰にも負けない。ママのために!」
「カッコいい! その調子で必ず合格して」
ザーリはうなずくと、ドアに向かって歩き、そのまま全身をぶつけた。
「いってえー」
腰を折って顔を押さえている。緊張のあまり、ドアを開けるのを忘れたようだ。
「そんなんじゃ、みんなに負けるよ!」
「ははは、最下位かもな……」
「ママのために頑張るんじゃなかったの!?」
「が……頑張るとも!」
ザーリはキッと顔を上げた。
「お兄ちゃん、額にラクダみたいなコブ!」
ザーリはあわてて前髪を垂らしてコブを隠すと、ドアを開けて出ていった。
「マジ大丈夫かな……」
トリアは溜め息をつき、自分も部屋を出た。
二人がリビングに行くと、母親のスーラが心配顔で近づいてきて、ザーリに小
さな包みを差し出した。まだ三十五だったが、働きづめで苦労したせいか、やつ
れた顔にカラスの足跡と法令線がくっきりと刻まれている。
「ザーリ、あなたの好きなハムサンドよ」
「ありがとう。出番の前に食べて、気分を落ち着けるよ」
ザーリは微笑んで受け取ると、(必ずママを幸せにする)と心の中で誓った。
「お兄ちゃん、落ち着いてやるのよ。私、うまくいくように家で祈ってるから」
「ああ、頼む。昔からお前の祈りは効き目があったからな」
「そうよ。それだから魔女になろうって思ったんだから」
ザーリはうなずき、
「お前は立派な魔女になれ。俺は立派な道化になる。おたがい必ず夢を叶えよう」
りりしい顔で踵を返したザーリの後頭部を、トリアがいきなりはたいた。
「なんだよ、いてーな!」
「受かるように、おまじないよ」
「それはありがとう」
ザーリは苦笑しながらドアを開けた。
トリアと母親は新緑の道を遠ざかっていく彼を、心配そうに見送った。
「お兄ちゃん、いつもより歩き方が遅かった」
「かなり緊張しているのね。あれでちゃんとしゃべれるのかしら」
トリアは急いでリビングに戻ると、バッグから直径五センチほどの水晶玉を取
り出した。
「きれいな玉ね」
スーラは戻ってくると、目を輝かせてのぞき込んだ。
「ジル先生からもらったの。これでお兄ちゃんを見守るよ」
トリアは呪文を唱えながら水晶玉をなでた。
すぐにこわばった顔で歩いている兄の姿が浮かんできた。
「あっ、コケた」
「えっ、ほんと?」
スーラが驚いてのぞき込むが、何も見えない。
「猫が急に前を横切ったの」
「敏しょうなあの子が、そんなものもよけられないなんて。よっぽど緊張してい
るのね」
「今、お城に入ったよ」
トリアは実況中継を続ける。
「私達みたいな庶民がお城に入れるなんて。本当にザーリが誇らしいわ」
「あっ、またコケた」
「いい加減にして欲しいわ」
「お兄ちゃんと同じぐらいの年頃の子が、広間にいっぱい集まってる」
「大人はいないのね」
「うん。王子様と同じぐらいの年じゃないとダメなんだって。話が合わないから」
「ザーリが王子様とお話なんて、できるのかしら」
「オーディションが始まったみたい。舞台で一人ずつコントやってる。客席の最
前列に座っているの、王子様よ。隣の大臣みたいな人が、『殿下』って呼んでい
るもの」
「マジ!? イケメン!?」
「とってもステキ」
「私にも見せて!」
「見れないでしょーが」
「くやしい!」
「えっとね、栗色の巻毛に切れ長の青い目よ。鼻が高くて唇が薄くて引きしまっ
ているの」
「タイプだわ!」
「カンケーないでしょっ」
「ザーリはどうしてる?」
「ハムサンド食べ出した」
「出番が近いのね」
「あっ、むせてる」
「飲み物持たせればよかった。うかつだったわ」
「むせながら立ち上がったよ」
「いよいよ出番ね!」
「あっ、舞台に出たとたんコケた」
「いい加減にしなさい!」
「咳して口からパンが飛び出した」
「めちゃくちゃじゃないの!」
「パンが王子様の頭に載っかった」
「最悪じゃないの!」
「隣に座っている大臣が、あわててパンを払い落とした」
「もう、いやっ」
「ザーリが泣いて謝ってる」
「笑わせに来たのに!」
「涙と鼻水を垂らしながら、しゃべり始めた」
「泣きながらコントをやるなんて!」
スーラも顔を覆って泣き出し、
「やっぱりザーリにお笑いの才能なんて無かったのよ……。学校でウケていたか
らって、天狗になっていただけ。それを、王子様の道化になろうだなんて……あ
あ、見っともない!」
「待って待って! 王子様が爆笑してる! 今までニコリともしていなかったの
に」
「マジ!? やっぱりザーリはお笑いの天才ね!」
「ママ! 王子様が『この子に決定』って言ってるわよ!」
「やった!」
スーラとトリアは、抱き合って喜んだ。
夕方になり、ザーリが賞金の箱を抱えて家に帰ってきた。
「ただいま! 俺、やったよ!」
「お兄ちゃん、水晶玉で見てたよ!」
「ザーリ、おめでとう!」
「ありがとう。ほら、賞金だよ」
ザーリが得意げに箱を差し出した。
「これで雨漏りのする家を建て替えなよ」
「ザーリ、ほんとにありがとう……」
スーラは涙ぐんで箱を受け取ると、テーブルの上に置き、フタを開けた。中に
はまばゆい光を放つ金貨が、ぎっしりと詰まっていた。
「すごい! これなら豪邸が建てられるわ」
「ママ、良かったねえ」
「みんなザーリのおかげよ。あなたみたいなお笑いの天才を持って、ママは鼻が
高いわ」
「舞台では泣いていたんだけどね」
「それがユニークで面白かったのよ。王子様、腹を抱えて笑っていたじゃん」
「そんなシーンまで見えたのか……トリアはすごいな」
「二人ともママに似て、可愛い上にすごい子供たち!」
トリアとザーリは、一緒に声を立てて笑ったが、笑い声までウリ二つだった。
その夜はスーラが用意しておいた豚肉で御馳走を作り、三人で祝った。その間、
ザーリは上機嫌でギャグを飛ばし、母親と妹を泣くほど笑わせた。スーラは涙を
拭きながら、
「王宮に上がったら、その調子で王子様を笑わせるのよ」
「任せといてよ。僕のギャグで楽しい毎日を過ごしていただこうと思ってるんだ。
もう明日から来てくれって言われているんだよ」
「私も明日から魔女修業。おたがい頑張ろうね」
「ああ。夏になったら休みがもらえるから、その時また会おうな」
「うん。お兄ちゃんもそれまで元気でね」
翌朝、トリアは城に出向く兄を見送ると、魔女の家に戻った。
「お兄さん、オーディションに受かったようだね。おめでとう」
師匠のジルは、トリアの顔を見たとたん、シワ深い顔に笑みを浮かべて言った。
「先生、見ていたんですか!?」
「そんな暇ないよ。お前さんのうれしそうな顔を見ただけで分かったのさ」
「なんだ、そうか」
ジルは恥ずかしそうに両手を頬に当てた。
「それはおめでとう」
先輩のマズラが、半眼で言った。まだ十九だが、年齢に不相応な落ち着きがあ
るため、アラサーに見える。ときどき町の子供に「おばさん」と言われ、不愉快
な思いをしていた。
「先生が甘いから、お休みがもらえて良かったわね」
いつも必ず皮肉を付け足すのだが、単純なトリアは大してダメージを受けない。
「はい。マジ先生が甘くて良かったです」
あっけらかんと喜ぶトリアに、マズラはこめかみに青筋を立てた。
「あなたは先生の優しさに甘え過ぎなの」
「まあまあ、今度だけ特別だから」
「先生、甘やかしちゃダメですよ! この子は付け上がる性格ですから」
「だって、貧しさから抜け出せる最初で最後のチャンスだって言うからさ」
トリアはうなずき、
「今日からまた一生懸命修業に励みますから、よろしくお願いします」
師匠と先輩にペコペコ頭を下げた。マズラは鼻の穴を広げ、
「あっそ。それじゃ、さっそく庭の掃除と草むしりをやってちょうだい。あなた
がやらなかった分、昨日は私がやったのよ。ったく大変だったんだから。さあ、
早くやって」
「はい」
トリアはあわてて庭に出た。
所々に雑草が生えていて、小さな花をつけている。そこから大量の花粉が出る
のだった。
「ハックション!」
トリアは引き抜きながら、くしゃみをし、涙を流した。花粉症なのだ。
「これは草むしりと言うより拷問だわ」
トリアは涙を拭きながら立ち上がると、あたりを見回した。誰もいない。ニヤ
リと笑い、雑草の上に両手をかざして呪文を唱え始めた。
「イズル、リーラ、ドレスコ、テロテロ」
ボコッ、ボコッ。
次々と雑草が根っこごと飛び出していく。
「こらっ、何やってるの!」
マズラが家から飛び出してきた。カーテンの陰から見張っていたようだ。
「雑用に魔法を使っちゃダメでしょっ」
「すいません!」
トリアはうろたえながら頭を下げた。マズラは目をつり上げ、
「涙と鼻水を垂らしながら、草を抜くことに意義があるの」
トリアは首をかしげ、
「どんな意義でしょうか」
「そんなこと自分で考えなさい!」
マズラはプリプリしながら家に入っていく。
乱暴にドアを閉める音が庭に響いた。
「意義なんてないんだわ」
私をいじめたいだけなんだ、とブツブツ言いながら草を集めていると、
「そんなことないよ」
後ろから師匠の声がした。トリアがギョッとして振り向くと、いつの間にかジ
ルが立っていた。テレポーテーションができるのだ。
「先生! 早く瞬間移動を教えてください。それから飛行の術も」
「冗談じゃない。まだまだ先の話だ。技術ばかり習得すればいいってもんじゃな
いよ。先輩の言うことを良く聞いて、謙虚に修業しなさい」
「はい……」
「マズラは別にお前さんをいじめているわけじゃない。先輩として教えてくれて
いるんだから、感謝しないとね」
「分かりました」
「嫌な仕事を辛抱してやることで、忍耐心が養われるだろう? それが強大な念
力を生み出すモトになるんだよ。それを使って瞬間移動をしたり、空を飛ぶのさ」
トリアはうなずき、
「すいませんでした。これからは雑用に魔法を使うような事はしません」
「よろしい。それじゃ、涙と鼻水を垂らしながら、草むしりをしなさい」
ジルは笑いながら家に入っていった。
トリアは溜め息をつくと、立て続けにくしゃみをした。
「あーあ、魔女になるのは大変だ。ザーリはいいな。もう一人前の道化師になれ
たんだもの」
トリアが魔女として一人前になるには、あと十年は修業しなければならなかっ
た。
三カ月後――。
トリアの住む国・エルンストゥールは一年で最も暑い五日間を迎えた。その間
は王族はもちろん、ほとんどの国民も仕事を休むのだ。
ザーリは立派な貴族の服に身を包み、馬車で実家に帰ってきた。
豪邸に建て替えられたリビングで、近所の人も呼ばれてパーティーが催された。
「ザーリ、立派になったもんだねえ」
隣のボロ家に住んでいるマルクじいさんが、自分の孫が出世したように泣いて
喜んでいる。
「ザーリちゃんはいつかセレブになると思っていたのよ。オーラがあるもの」
お向かいに住んでいるミラおばさんが持ち上げた。
「皆さん、ありがとうございます。皆さんのお陰で法外な出世をさせていただき
ました」
「いや、わしらは何もしとらんよ」
「で、どうなの、お城の暮らしは」
ミラおばさんは好奇心に目を輝かせる。なにしろ新聞もテレビもなく、お城の
中のことは庶民にはほとんど分からないのだ。
「ええ。毎日ステーキを食べさせていただいております」
「毎日ステーキ!? すごいわ」
おばさんはうらやましそうだ。ステーキなど庶民にはお祝いの席ぐらいでしか
食べられないのだから無理もない。
「お城ではステーキが主食になっておりまして、私は少し飽きてまいりました」
「それはちょっと嫌味じゃないの?」
トリアが顔をしかめる。しゃべり方も妙に上品になり、兄が別人になったよう
で寂しい気持ちだった。
マルクじいさんは彼女の肩に優しく手を置き、
「まあまあ、トリアちゃん。もうお兄さんは以前のお兄さんではなく、王子様の
道化なんじゃから、それなりの言動をしなければならんのじゃよ。察してやりな
さい」
「とりなしていただき、ありがとうございます」
ザーリが澄ました顔で礼を言うと、トリアは眉を寄せた。このしゃべり方では、
以前のようなきょうだいとしての会話ができそうにない。
(まあ、いいわ。きっと、ご近所さんの前だから、カッコつけているのよ。後で
二人きりになったら、前みたいにギャグを飛ばし合って、おしゃべりを楽しもう)
日が傾き、お客が帰ると、トリアは待ってましたとばかりに、ザーリの背中を
はたいた。
「いい服着ちゃって!」
ザーリは少し眉を寄せると、
「それはありがとうございます」
「なによ、もう誰もいないのよ。普通にしゃべって」
「普通……これが王宮内では普通のしゃべり方ですが」
「ここは家なの! 前と違って立派な家になったけど。でも、私もママも前と変
わらないんだから、前みたいにしゃべってよ」
「まあまあ、お兄ちゃんはもう以前のお兄ちゃんじゃなくて、王子様の道化なん
だから、それなりの言動をしなければならないのよ」
「なによ、マルクさんの受け売りじゃない」
「ザーリは三カ月も王室にいたんだよ。その間、庶民の暮らしから宮廷生活に慣
れようと、必死に努力したと思うの。大変な苦労だったと思うよ」
「そうなんだよ、ママ」
ザーリは思わず以前の口調に戻り、母親にすがりついた。
「最初はマジ不安だった……僕みたいな貧しい家の者が毎日王子様の相手をする
なんて、どんな粗相をするかとビクビクしていた。意地悪なオバサンの教育係が
いて、しょっちゅうダメ出しされていた。それでなんとか言葉遣いは直った。で
も、ていねいな言葉でギャグを言うのは難しいんだ。王子様はめったに笑ってく
れない。だから熱いお茶をかぶったり、裸にお盆を持って踊ったり、身を張って
笑わせているんだ」
「お前、お盆を落としたらどうすんだい」
「お兄ちゃんたら、そんな危険なことをしているの?」
「しょうがないんだ。つまらないギャグを言うより、王子様は確実に笑ってくれ
るから」
ザーリは身体を震わせながら、ポロポロと涙をこぼした。
スーラは涙ぐんで息子の頭をなで、
「ああ、みんながうらやむような成功をしたと思ったのに、なんて皮肉なことか
しら」
「成功ってのは苦しみの始まりに過ぎないのさ……」
「お兄ちゃん、弱気になっちゃダメ! せっかく出世ができたんだから、頑張っ
て」
ザーリは絹のハンカチを出して涙を拭くと、うなずいた。
「ああ、頑張るよ。やっと貧しさから這い上がったんだものな。俺、絶対この
地位を手放したくない。石にかじりついてもやり続ける」
「そうだよ、その根性で頑張って! 私も必ず一人前の魔女になるから」
「ママはいつも二人が幸せになるように祈っているよ。私にはそれしかできない
から……」
スーラは二人の手を握って涙ぐんだ。
「私達の苦労なんて、ママがしてきた苦労から比べたら、どうって事ないよ」
「そうさ。グチ言ってごめん。ここで思い切り楽しい休日を過ごしたら、またお
城で一生懸命働くよ」
「お兄ちゃん、息抜きに明日、ピクニックに行かない?」
「そうだな。久しぶりでトスク渓谷に行かないか」
「賛成! 冷たい川で遊べばスカッとするわ」
「それじゃ、ザーリの好きなハムサンド作ってあげるから、持っていきなさい」
「うん! ママ、ありがとう」
以前のような無邪気な笑顔に戻った兄を見て、トリアはホッとした。
翌朝、二人は母親の作ったサンドイッチを持って渓谷に向かった。
「やっぱり故郷はいいなあ」
ザーリは額の汗を拭きながら、つぶやく。
「お城は嫌なところなの?」
「そりゃ、華やかだよ。みんな上等な絹の服を着て、宝石のアクセサリーを身に
つけている。大きな舞台があって、毎日お芝居をやっているし、音楽会やダンス
パーティーもやっている。きれいな女優さんや歌手も来て、王子様のご機嫌うか
がいをしている……でも、王子様はちっともうれしそうじゃない。だから、僕は
王子様の憂さを晴らすために、命懸けで笑わさなければならないんだ」
「へえ、何でも手に入る生活をしているのに、何が憂うつなのかしら」
「たぶん……二度目のお母様であられる王妃様とうまくいってないからだと思う
んだ」
「そう言えば、ズワ王妃は七年前に亡くなられたわよね」
「そうなんだ。それで二年前に隣国からルア姫が後妻に入られただろ。まだ二十
二だから、王子様とは六つしか年が違わないんだ」
「それじゃ、お母さんて感じじゃないわね」
「うん。それで王子様も甘えられないし、ルア王妃もあまり口を聞かれない。し
かも、王妃は今、お腹が大きいんだ」
「メタボなの?」
「違うよ。子供ができたんだ」
「それは、おめでたいじゃない」
「確かにおめでたいけど……生まれてきたのが男の子だったら……当然ルア王妃
は自分のお子に王位継承させたいと思うだろ」
「それはヤバいわね。お世継ぎ争いが起きそう」
「そうならなければいいんだけど……」
「お兄ちゃん、お笑いのネタの上にそんなことまで悩んでいたの」
「そうなんだ、大変なんだ。宮廷道化は」
風光明媚な渓谷に着いても、ザーリは景色を眺めるでもなくお城での人間関係
について話し続けた。
「侍女にレリーっていう食事を運んでくれる人がいるんだ。いろいろ用事や頼み
事を聞いてくれるし、時々お菓子もくれたりする親切なおばさんさ。大臣達は僕
をいつも軽べつの眼差しで見ている。たぶん自分達の家柄がいいから、僕みたい
な庶民の出は犬みたいに思ってるんだろう」
トリアは苦笑して、河原に腰を下ろした。
「お兄ちゃん、せっかくピクニックに来たんだから、お城のことは忘れなよ」
「……そうだな」
ザーリは妹の隣に腰を下ろすと、ハムサンドを出して、かじり始めた。
「やっぱりママのハムサンドは最高だ。お城で食べるステーキより、何倍もうま
い。僕にとって一番の御馳走だ」
サンドイッチをかじりながら、涙ぐんでいる。
「僕はあのお城から出られない。王子様が亡くなる日まで。たぶん、こんなスト
レスの多い暮らしをしている僕のほうが何年も先に死ぬだろう。みんながうらや
んでいる僕の勝ち取った人生がこれさ」
トリアは何と声を掛けていいのか分からなくなり、ザーリの背中を思い切りど
やした。
「仕事のことは忘れて、楽しむって言ったでしょっ」
「うん……そうだな。よし、何もかも忘れて、今日は楽しむぞ!」
ザーリは立ち上がると、大きな岩に駆け登った。
「お兄ちゃん、危ないよ!」
「大丈夫、大丈夫。お城じゃ、もっと危険なことをやって、チャル王子を楽しま
せているんだから」
「まだお城のこと考えてる」
ザーリは岩の上で逆立ちをした。
「はーい、いかがですか? トリア姫様」
足の裏をパンパンと打ち鳴らした。
「お兄ちゃん、やめなったら!」
「ははは、道化をなめるなよ。片手倒立でござい」
左手を岩から放した瞬間、ザーリはバランスを崩して川に落ちた。
「お兄ちゃん!」
バシャッという音がしてザーリは顔をしかめた。水深が二十センチしかないこ
とがかえって災いした。
「いたたたた……」
ザーリは足を引きずりながら川から上がってきた。
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
「落ちた時、足がボキッていった……」
「折れたんじゃないの!?」
「……らしい」
「大変」
トリアは対岸に向かって叫んだ。
「お客様の中にお医者さんはいらっしゃいませんかーっ」
「お医者さん以前に誰もいないよっ」
「どうしよう、マジ熊も鹿もいない」
「あわてるな。肩を貸してくれれば、なんとか歩ける」
休み休み歩きながら、やっとのことで家に着いた二人は、疲れ切って床に倒れ
込んだ。
「いったい、どうしたの!?」
リビングで昼寝をしていたスーラが、驚いて駆け寄った。
「心配しないで、ママ」
ザーリが荒い息をしながら微笑む。
「お兄ちゃんたら、お城でやってる命懸けの曲芸をやって、岩から落ちたの」
「なんですって!? すぐにお医者さんを呼ばなきゃ」
医者の診断の結果は右足の骨折で、ザーリは一カ月の安静を言い渡された。
「お城に帰れない……どうしたらいいんだ……」
ベッドの上で嘆くザーリに、トリアが肩をすくめて言った。
「帰らなければいいのよ。私が代筆してあげるから、『怪我をしたので、ひと月
休ませてください』って、お城に手紙を出せばいいの」
「一カ月も休んだら、クビになるよ! ただでさえ僕は時々王子に『他の者を採
用すれば良かった』なんて言われているんだ」
「それは本音じゃなくて、『もっと頑張れ』っていう励ましの意味よ」
「お前みたいに何でもプラスに受け取れる能天気さがうらやましい」
ザーリは顔を覆って、すすり泣いた。
「なんてついてないんだ……苦労してやっとつかみ取った地位なのに」
トリアは兄を半眼で見ながら、
「あまり苦労してないと思うよ。オーディションはメロメロだったし。たまたま
王子様が気に入ってくれただけで。他にもっと実力のある人がいっぱいいたと思
うの」
「落ち込んでいる俺から、さらに自信を失わせるようなことを言うとは。それで
も妹か!」
「だって、本当のことだもん」
「本当のことでも、落ち込んでいる人に言っちゃいけないの! どうしたらクビ
にならずにすむか、何かアドバイスは無いの!?」
「無い」
「簡単に言うなよ!」
「だって、考えつかないもん」
ザーリは絶望したようにぐったりしていたが、突然大きく目を見開いた。
「そうだ! 一カ月の間、お前が俺の身代わりになればいいんだ」
「ええっ! できないよ、そんなこと!」
「お前はいつも『やればできる』って、俺を励ましてくれたじゃないか」
「そうだけど、私の修業はどうなるの!」
「足を折ったから一カ月養生させてくれってジル先生に手紙を書けばいい。お前
は別にクビになる恐れは無いんだから、大丈夫だ」
「大丈夫……って、私に道化師なんか絶対無理! すぐにニセモノってバレるよ」
その時、母親がオートミールを盆に載せて入ってきた。そしてトリアに言った。
「そっくりだから、バレないわよ」
「なによ、ママまで!」
「私も時々間違えそうになるぐらい似ているんだから、大丈夫よ」
「ママったら、何を言いたいの!?」
スーラは盆をテーブルの上に置くと、娘の手を取った。
「お願い、トリア。今度だけザーリを助けてあげて」
「助けてあげて……って、簡単に言わないでよ! 道化師なんて、私にはとても」
「大丈夫。あなたのほうが全然面白いから」
「なんだって」
スーラは、憤慨する息子を無視し、
「あなたのギャグのほうが面白いから、王子様はきっと気に入ってくださるわ」
「それじゃ、このさい魔女より道化師になったほうがいいかしら」
「そこまでその気にならないでくれ! 僕が回復するまででいいんだ」
「調子いいわね」
「ごめん……でも、なんとか頼むよ」
ザーリは涙をたたえた大きな目で、妹を見つめた。
「……分かった。やってみる」
「ありがとう! いい妹を持って、僕は幸せだ」
スーラは首を振り、
「本当にいつも妹に迷惑を掛けて……」
「僕だって、不がいない兄で悪いと思ってるよ」
「お兄ちゃん、いいよ! 引き受けたからには全力でやる」
休みの最後の日、トリアは母親に髪を切ってもらった。
「ああ、私の美しい髪が……」
スーラはベソをかく娘をなぐさめ、
「切った髪でカツラを作っておくから、帰ってきたら被りなさい」
「お願い」
「それにしてもショートにするとザーリにソックリだわ」
「親がそう言うんだから、王子様にもバレないよね」
「絶対大丈夫よ」
トリアは兄が城から着て帰った服を身につけ、母親と一緒に彼の部屋に行った。
「あっ、俺だ」
ザーリがびっくりして、上半身を起こした。
「お兄ちゃん、動いちゃダメよ」
「だって、あまりに似ているからマジ驚いた」
「私があなたと同じ髪型にカットしたのよ」
「さすがはママだ。美容師をやっているだけある」
「これなら誰にもバレないよね」
「ああ、ちょっとバク転をやってみてくれ。王子様が好きなんだ」
「ええっ!? そんなことできないよ!」
「バク転して頭から落ちるっていうギャグがお好きなんだよ。練習しといてくれ」
「そんな!」
「トリア、やりなさい。明日までにマスターするの」
「もう!」
トリアは庭に出ると、バク転の特訓を始めた。
「いいぞ、もうちょっとだ」
窓からザーリが指導している。
「頭から落ちたら、大の字に伸びるんだ。ちょっとやり方を間違えると気絶する
から、気を付けろ」
「もう!」
トリアは指示通りに空中で回転すると、大の字に横たわった。
「いいぞ、さすがは魔女だ! カンペキだよ」
「大変なことを引き受けてしまった……」
絶望感に打ちひしがれている妹とは真逆に、ザーリは手をたたいて喜んでいる。
「そっくりだ! まるで自分を見ているようだ。これなら絶対バレないぞ」
トリアは顔を上げると兄を半眼で見る。
「それは良かったわね」
「おい、口調にも気をつけてくれ。女みたいな言葉はつかうなよ」
トリハは不敵な笑みを浮かべ、男言葉で言った。
「ああ、分かったよ。兄貴以上にチャル王子に気に入られてやっから、期待しな」
「なんだって?」
ザーリは不快そうに眉を寄せた。
翌朝、トリアが緊張で震えていると、迎えの馬車がやってきた。
「トリア、しっかりやるのよ。ひと月の辛抱だから」
耳元でささやく母親にうなずき、トリアは馬車に乗り込んだ。
カーテンの陰から遠ざかる馬車を見ながら、ザーリは妹の無事を祈った。
「どうかバク転の時、妹が頭を打って死にませんように」
生きて家に帰れるだろうか、とはトリアも心配していた。なにしろ身体を張っ
て王子様を笑わせなければならないのだ。
「この町の景色を見るのも最後かもしれない」
トリアは馬車の中で泣き続けたが、お城に着くと急いで涙を拭き、道化らしい
愛嬌のある笑みを浮かべた。
「ご苦労さん」
御者に礼を言うと城に入り、自分の部屋を探した。
部屋数は何百もあり、中で迷子になる家臣もいるとのことだった。時々召し使
いとすれ違ったが、「僕の部屋はどこですか」などとは聞けない。トリアはザー
リに書いてもらった城の内部構造の図を出し、こっそりと見た。
「二階の南端から十番目……」
ようやくザーリの部屋を探し当てると、鍵を開けて中に入った。
「道化の服に着替えなきゃ」
兄に教えてもらった通りにタンスの一番上の引き出しを開けると、黄色に赤の
水玉模様の服を引っ張り出した。
「やだ、こんな派手な服着るの」
しかし、道化の制服を着ないわけにはいかない。トリアはブツブツ言いながら
ド派手な服に着替えると、姿見に自分を映して肩を落とした。
「見っともない……私は魔女なのに。カッコいい魔女なのに!」
泣きながら叫んだが、はたから見れば滑稽な道化以外の何ものでもなかった。
「しょうがない。お兄ちゃんのためだ」
トリアは鏡に向かって逆立ちをすると、ザーリがやっていたように足をパンパ
ンと打ち鳴らした。ひどいカッコだ。
「お嫁に行けなくなる~」
床にくずおれると、すすり泣いた。
「ダメよ、弱気になっちゃ……ザーリに……道化になりきるの……たったひと月
の辛抱じゃない……誰も私が美少女のトリアだなんて気付きゃしないわ」
トリアはすっくと立ち上がると、
「俺は道化師のザーリだ!」
鏡に向かって目をむき鼻の穴を広げた。
「ははは、ひどい顔!」
自分を励ますように頬をたたくと、部屋を出た。
いよいよチャル王子に会いにいくのだ。
トリアにとっては初対面だが、「初めまして」などとは言えない。何を言えば
いいかは、ザーリに教えてもらっていた。
王子の部屋は最上階である三階にあった。もちろん家来の部屋とは違い、何十
倍も広い。
トリアはドアの前に立っている護衛に「ご苦労」と声を掛けると、ノックした。
ドアが少し開き、お付きの侍女が顔を出した。自分より二つ三つ上らしい可愛
い娘だ。ザーリに教えてもらった名前はショナ。
「ショナさん、お久しぶり。王子様はおられるかな」
「ああ、ザーリさん、お帰りなさい。どうぞ」
ショナにうながされ、トリアはドキドキしながら王子の部屋に入った。
「ザーリ。待っていたぞ」
ドアから十メートルほど離れたベッドから王子が声を掛けた。
水晶玉で見たのと同じ、栗色の髪に切れ長の青い目が美しいイケメンだ。それ
が寝ながら豆を食べていた。
トリアは顔を赤くし、「初めまして」と言いかけたが、あわてて「どうも~!」
と両手の人差し指を頬に当て、首をかしげた。兄から教わった道化の挨拶だ。
「はははは、相変わらず面白い奴だ」
「王子様に笑っていただければ、私としては一番うれしく存じます」
トリアはうやうやしく頭を下げる。王子はうなずき、
「どうであった、夏休みは。家族と楽しく過ごせたか」
「はい。母と妹も元気にしておりまして、久しぶりにおしゃべりに花が咲き、楽
しい時間を過ごすことができました。妹は少し見ないうちに一段と美しくなって
おり、気立てがよく賢く、王子様がご覧になれば一目でお気に召すでことしょう」
トリアは二度と無いであろう権力者に対する自己宣伝の機会を生かすことにし
た。
「そうか。確かお前の妹は魔女修業の身であったな」
「さようでございます。すでに多くの術を習得し、将来は鬼神も恐れるような大
魔女になる器かと存じます。その節は王女様のお抱えになされば、大いにお役に
立てることと存じ上げます」
「なるほど、私が結婚したら、妃の相談役にな。考えておこう」
「ありがたき幸せ」
トリアは自分も出世コースに乗ったと心の中で踊り上がった。
(身代わりを引き受けたかいがあったわ)
トリアがニヤニヤしていると、
「ザーリ。久しぶりでお前のバク転が見たいぞ」
いきなり苦手な技をリクエストされてしまった。
「かしこまりました」
(出世できたんだ。はりきってやらなきゃ)
トリアは助走を付けると宙返りをし、頭から着地して気を失った。
「おい、どうした! 大丈夫か」
「ザーリさん!」
ショナが駆け寄り、トリアの頬をピシャピシャたたいた。
「うーん……」
「ザーリさん、しっかり!」
ショナが激しく揺すると、トリアはぱっちりと目を開けた。
「す、すいませんでした! ごめんなさい! 私ったら……」
トリアは思わず女の子に戻ってうろたえた。チャル王子は怪訝そうに、
「お前、いつからオネエになったのだ」
トリアはビクッとして手を振り、
「じょ……冗談ですよ、殿下。ギャグです、ギャグ」
「そうか。気絶をして正気づいたとたん、ギャグを飛ばすとはあっぱれな道化師
魂。褒美を取らしてつかわす」
王子はショナを招き寄せると紙袋を渡した。
トリアが彼女から袋を受け取って中をのぞくと、王子が食べていたエンドウ豆
が三十粒ほど入っていた。
(ケチやなー)
「それから、これは妹さんにあげてもらいたい」
王子は宝石箱からダイヤのブローチを取り出すと、ショナに渡した。
受け取ったトリアは目を大きく見開き、
「くれるの、これ!?」
家が一戸買えそうなブローチをかざして叫んだ。
「お前、またオネエになっておるぞ」
「ギャグです、ギャグ。これを私にくださるんですか!?」
「お前にではない、妹さんにだ」
「ありがとうございます! 妹もさぞかし喜ぶことでございましょう」
(なんて気前のいい王子様)
トリアはうっとりした目でチャル王子を見つめ、
「王子様……好き」
「おい、ギャグにしてもキモ過ぎだぞ」
「失礼いたしました。この賜り物は、さっそく妹に送らせていただきます」
「うむ。よきに計らえ。ついでに王宮にて働いてもらえる日を楽しみにしておる
と申し伝えよ」
「あ、ありがとうございます!」
こんなに気前のいい王子に仕えたら、どんなにおいしい思いができるだろう、
とトリアは涙ぐんで喜んだ。
「今日は頭を打って疲れておろうから、下がってよいぞ」
「はい」
(なんてお優しい王子様)
トリアはますますチャル王子が好きになり、ブローチを大事に握りしめて自室
に戻った。