「夏の手前のON THE WIND」
桜木沙織。それが彼女の名前。二年B組。ぼくは二年C組。彼女は隣のクラスの女の子。今学期に違う学校から転校してきた女の子だ。新学期の最初のホームルームが始まる直前、廊下でたむろっていた僕たちの前をB組の担任の先生と通り過ぎて行った。それだけなのに、それから僕は彼女に夢中になった。桜の花ってこんなに綺麗だったんだなあって、まだ十六歳の自分は感動に震えていた。彼女のせいで。残念ながら同じクラスではないのだけれど隣のクラスになったのが最高の幸せだった。そんな僕の名前は沢田浩次。
春も過ぎて、初夏の香りが漂い始めても彼女と話したのはほんの少し。それも僕がふざけながら廊下に後ろ向きで飛び出し、たまたまそこにいた彼女とぶつかりそうになったので、彼女が
「あ」
と言って僕が
「ごめん」
と言った一言だけ。つくづく同じクラスだったらなと思う。彼女を見るたびにため息が一つ、二つ僕の口から出て白い雲になって青い空に流れて行く。まるでしゃぼん玉のようにゆらゆらと。そんな気持ちを抱きながら日々が過ぎて行った。
十六歳になって僕は、オートバイの免許を取った。いつか見た映画で主人公2人がかっこよくオートバイに乗っていてそれから好きになって、親が許してくれるまで大変だったけれど、条件つきで許してもらった。それは125CCまでの小型限定免許まで。でも、まあ、原付一種、いわゆる50CCよりはかなりましだし、自分の体力で取りまわせるのは今はこんなサイズが丁度いい。馬力だってそこそこあって二人乗りだって可能だ。それにうちの高校オートバイ通学OK。いまどきこんなイキな学校、他にはない。ただしやっぱり125CCまでだけなのは同じだ。
3時限目の授業の終了チャイムが鳴ると同時に僕は急いで校内の売店に向かって走り出す。昼メシのパンを買うためだ。早くいかないと、大好きなスパゲッティロールが昼前あと一時限授業が残っているこの休み時間で無くなってしまう。気持ちは焦る。でも途中、B組の前を通り過ぎるときに中を覗くことは欠かせない。『いた』。いつも彼女は休み時間に教室で静かに本を読んでいる。何を読んでいるんだろう。『何を読んでいるの?』なんて話しかけてみようかとも思う。だけど僕はC組だし、B組に入ってまっすぐ彼女に話かけたらかなり怪しいやつに思われる。そこまで僕のハートは強くない。また今度にしよう。といつも自分に言い訳して売店に急ぐ。仮に彼女が廊下にでてきていたとしても、たぶんそんな時は他の女子と話しているだろうから、ますます、僕はくるっと後ろを向いて、逆方向の階段に走り始めてしまうかもしれない。気持ちはちっちゃい僕なのだから。
そろそろ気温もぐっと上がりそうな気配がしてきて、なんだか『けだるい』と感じていた日の最後の授業が終わった。帰宅部の僕は教室からロッカーがある廊下に出て、ポケットから取り出したロッカーの鍵を鍵穴に差し込んだ。その時後ろから声がした。
「今日は用事があるの」
胸がきゅっとなった瞬間だった。彼女の声。
「ごめん。また誘って」
耳のそばでその声は大きくなる。視線を下にしたまま全神経を耳に集中しすぎた。無意識で開けたロッカーの奥から教科書やら、食べかけのクッキー缶やら、借りっぱなしの音楽CDなどなどが落下し、金属バケツをひっくり返したような響きを廊下中に撒き散らした。彼女と一緒に歩いていた女子生徒は怪訝な表情を作って僕のほうをちらりと見たが、気になる彼女の方はすこし驚いた顔をした後、笑顔になって僕を見ていた。でもすぐに進む方向に向き直って話の続きをしながら一階へ続く階段を下りていった。
「よ、浩次」
高志。幼稚園からずっと一緒。クラスは違うけれど。
「どうした。なんかあったか?おまえの足元、大変なことになっているぞ」
両手を肩の上でひらひらさせながら言う。
「あ、ああ」
まだ、胸の鼓動が落ちつかないのを知られないように答える。
「もってきたぞ。ほら」
高志はジェットのオートバイヘルメットを僕の目の前に突き出して言った。
「ああ、準備万端だな」
そんなことより今は、さっき見たあの笑顔を一生懸命自分のメモリバンクにしまい込むことで精一杯な状態だった。
「大変だったんだぜ。これ姉貴のこっそり持って出てくるの」
「いいじゃん。それ」
ロッカーの中から自分のヘルメットを取り出しながら、たいして興味はないけど一応言う。
「だろう?姉貴二つ持ってるんだけど、こっちは使ってないのさ」
バタンとロッカーの扉を閉めると高志は聞いてきた。
「で、どこ行くんだ?俺はやっぱ海だな。埠頭のさきまで行ってみようぜ」
高志はオートバイの後ろに乗れるとあって上機嫌だ。僕はオートバイが好きなので二人乗りだろうがどこへ行こうが構わない。まあ、高志の行きたいところに今日はつれていってやるか。
「おっけー。じゃあ、下で待ってるわ。おまえ、職員室に呼ばれてんだろう」
「ああ、そうだった。ちぇっ。先にいっててくれ。すぐ行くから。なんだって呼ばれるんだ?」
そう言って職員室へ向かおうとした矢先、高志はくるっと振り返って言った。
「これ。持っててくれ。先生にみつかるといろいろうるさそうだし」
ひょいと僕にヘルメットをほおってよこすと、よーいドンのまねをして廊下を歩くほかの生徒たちの間をぶーーんと言いながらまるでオートバイに乗って車をよけている仕草をしながら駆けて行った。
オートバイは北校舎側にある駐輪場に止めてある。自転車がほとんどだけど、僕のようにオートバイに乗ってくる生徒は他にもいる。でも、そのほとんどが原付のスクータで、ギヤつきのスポーツタイプは少ない。オートバイに乗るようになってから、乗る前までの僕と乗るようになった僕がこんなに違うものなんだと気がついた。つまりこういうこと。オートバイに乗らない僕と、オートバイに乗る僕ということ。もちろん、今の僕はオートバイに乗る。それはオートバイに乗るっていうことがどんなに素直な気持ちになれるかが分かった自分だ。
両手でハンドルのグリップをしっかり握って腰に力を入れて後ろにぐっと引く。そして、そのまま後退させて駐輪場からオートバイを引き出す。125CCは軽いからあまり力むと力があまってずっこけてしまう。それでも、それは下がアスファルトの場合で、学校の駐輪場は砂利だった。おまけに前の日に雨が降ったおかげで柔らかくなってタイヤがぬかるみにはまってオートバイを引き出すのがいつにも増して重たい。
「うっそー」
駐輪場の出口の少し離れたところで声がした。女子の声だ。見るとスカートの裾をはさんでしゃがみながら、自転車の後輪を見つめている後姿があった。左右の腕に顎ひもでぶらさがったヘルメットを揺らしながらオートバイを押して近づいて行く。横目に覗くとそれは彼女だった。水色のフレームに銀色のホイールが明るい夏ちょっと手前の太陽の光を反射して眩しい。同じように彼女の着ているシャツの白さが僕の目には眩しかった。またもや心臓がはりさけそうな勢いで回転し始める。どうやら自転車の後輪を見つめどうしたものかと考え込んでいるようだった。こんなチャンスはそうそうない。大きく息を吸い込んで、ありきたりの言い方をすれば、勇気を出して・・・
「あのー」
振り向く彼女の全てがスローモーションのように僕の目は捉えた。
「どうしたの?」
彼女が振り向き終わる前になんとかセリフは全部言えた。たった五文字だけど。彼女の目が僕の視線上に乗り、すこし薄い茶色の目が僕を見つめていた。その瞬間、こんな色した宝石ってあるんだろうか。もうそれだけ考えるのが精一杯で、自分がなぜ声をかけたのかなんて忘却の彼方に置き去りになった。間近で見る彼女の額から鼻のてっぺんにかけての線、そして頬から顎までの曲線が自分を夢中にさせている原因だとはっきり分かった。最初に出会った時からあまりにもその記憶が薄れてしまっていた。完璧だった。その肩から腰、そしてつま先までの細身の彼女はもう大人の女性の扉を開け始めているようだった。爽やかな風が吹くたびに口元にゆれてかかる髪が僕の気持ちを、落ち着かせなくするのが分かった。
「パンクしたみたいなの」
すっかり空気が抜けてぺちゃんこになっている自転車のタイヤに視線を戻して、彼女は言った。そしてまた僕のほうに顔を向けた。
「あなた、C組の・・・」
「沢田」
僕は咄嗟に自分の名前を言った。
「さわだくん」
僕の言った言葉を確かめるようにちょっとずつ言葉を切って彼女は繰り返した。これで彼女の中で僕は名前がついたんだ。そう思うとやったと言わんばかりに嬉しがった。表情に出て悟られないかなと思いながら。
「さっき、ロッカーからいろいろ落としていたわ。大丈夫だった?」
予想もしない問いかけに驚いたけれど、あれは君のことが気になって、と言ってしまえたらと思いつつ、結局は、
「いつものこと」
といきがって肩をちょっと上げて見せた。彼女はそれを聞くと「ぷっ」と笑ったような気がした。いつもおっちょこちょいなやつだと思われたのかも知れない。それから少しだけ頷き、校門のほうを見つめて口をヘの字にした。
「どうしよう。今日、急ぐのに」
「どこに?」
「病院に行くの」
病院。そう聞いてロッカーの前で声を聞いた時に言っていた用事って、そのことなのかと思い出した。
「どこか具合でも悪い?」
「ううん。友達が入院してるの。だから」
「お見舞い?」
「そう。でも困ったわ」
そのとき僕の頭の中に閃く言葉があった。だからそのまま声に出してしまった。
「君って、オートバイの後ろ、乗ったことある?」
「ないわ。なぜ」
続く言葉、『聞くの?』は僕の頭の中で囁かれた。だから、
「送っていくよ」
と言うのには抵抗がなかった。その時彼女の表情には何も変わりがないように見えた。ただ、ほんの少しだけ間があって彼女は答えた。
「でも」
「なにか問題でもある?」
「私、乗ったことないわ。それに、私」
下を見ながら彼女は言う。
「スカート」
「そんなの股の下にはさんでおけば大丈夫」
なんて大胆なことを言ってしまったんだろう。彼女を見ると、顔が真っ赤だった。ええい、こんな時は勢いだ。そう思うと間髪いれずに、右腕にあご紐を通してぶら下げていた高志から預かったヘルメットを渡す。『ごめん、高志』ちょっとだけそう思いながら。
「さあ、これを被って」
「でも、でも」
と彼女は繰り返す。
「乗って。送って行くよ」
ヘルメットはこう被るんだと言わんばかりに渡したヘルメットを取り上げ、すかさず彼女に被せる。
「きゃっ。わかったわ。後は自分でやるわ」
彼女の細くて長い腕が僕のほうへ向かってきて、そしてやっぱり長くて細い指で僕のヘルメットを被らせようとしていた腕をつかんだ。はっとした僕は、
「ごめん。つい」
と言いかけたが、彼女は静かに、
「いいのよ。それでこの後どうすればいいの。この、ひもをどう締めたらいいの?」
と僕の目を見て聞いた。ドキドキ感はおさまるはずもない。
「これをこうして。それから。こうっと」
彼女の薄くて形の良い唇が僕の目の前にあって、紐を締めるどころじゃなかった。そして彼女の目が僕を見ている。こんな展開、予想していなかった。紐を締める時間がなぜだか長いように感じられた。
「自転車は家に電話して取りに来てもらうわ」
ぼそっと言う彼女は相変わらずじっと僕を見ている。どきどき。
「できた。でも、きつくないかな」
大丈夫ともきついとも彼女は言わず、そのヘルメットか被った頭だけをこくっと前に傾けた。それから僕もヘルメットを被るとオートバイの左側にまわってステアリングレバーを握りサイドスタンドを蹴り上げて、大きくオートバイに跨った。それから腰をひねって左右の後ろのタンデムステップをそれぞれ片方のつま先で水平に引き倒した。
「さあ、乗って。怖がらないで。僕が押さえているから大丈夫」
沙織は浩二のオートバイを見つめていた。全体的に白地でところどころに水色のラインが水平に描かれたそのオートバイは、どこも綺麗に光っていた。オートバイを身近で見るのは乗ったこともない自分には初めてのことで、こんなに大きいものだとは知らなかった。沙織は後ろのシートに右手をついて浩次が引き下げたタンデムステップに右足を乗せて踏ん張った。けれども体は意に反してもとに戻ろうとして、そのまま立っていた場所に飛び降りた。
「今度は、そっちの手を僕のこっちの肩においてみて」
彼女は、浩二の言うままに僕の左肩に手を置き、さっきやったのと同じに右足を踏ん張った。スカートが風にふかれてひらひらとはためくのもかまわず、一気に体を上に上げる。
「やった。乗れたわ」
『やった』心の中で叫ぶ。さらに彼女はぽんぽんと僕の両肩を叩きながら叫ぶものだから、僕もなんだか大げさに嬉しくてたまらない。
後ろの荷重がいつもより重たい。近くにいるだけでも緊張するのに、彼女が後ろにいる。『だから頼むよ、俺の相棒』なんてくさいセリフをぐっと飲みこんで、アクセルグリップの下にある赤いボタンを押してエンジンを始動させた。二、三回アクセルを空けてその振動を確かめる。クラッチを握って左足のつま先でギヤを一速に入ると振り返って肩越しに彼女に言った。声がうわずりそうなのを、堪えながら。
「行くよ」
「うん」
彼女と僕は静かに動き出した。前後のタイヤがゆっくりと上下する。そのままの速度で校門に向かっていく途中、何人かの同級生とすれ違った。彼らは僕たちを見ると大きな声で冷やかしたり、口笛を吹いたりした。知らない学生たちも通りすぎるたびに二人を振り返っていた。新緑の隙間からこぼれる光のように僕の顔にはこらえきれない微笑が広がっていたに違いない。そして、校門を出ると、僕はゆっくりとアクセルを開けた。
職員室で学級担任の小言を聞いているのに飽きていた高志は、ふと眺めていた校門から浩次のオートバイが後ろにだれかを乗せて視界から消えて行くのを見て、ふんと鼻を鳴らした。そして、教師のほうに向き直りひとこと言ったのは
「先生。俺の青春ってどこにあるんですか?」
だった。そのあとに心の中でつぶやいた。『オートバイの後ろにスカートの女の子を乗せてはいけません。』
沙織は浩次の後ろで片手でぱたぱたと風になびくスカートを抑えて、もう片方の腕を浩次の腰にまわしていた。時折、シャツの下からも風が入り、めくれ上がりそうになるのはもう気にしないことにしていた。そして、ヘルメットを被った頭を浩次の背中から横に出して進んでいく方向を眺めながら、首から胸にあたって抜けていく風の感触を楽しんでいた。もう少し経つともっと夏が本格的になって風もたいして涼しくなくなるのかもしれない。今年は猛暑の年だと天気予報で話していたのを思い出した。
「さわだくん」
オートバイの排気音と風きり音のせいで浩次には聞こえない。もう一度、
「さわだくんってば」
と目の前に見えるヘルメットをこずきながら叫んだ。僕は急に頭のてっぺんがこつこつとなったのと、名前がはるか遠くで呼ばれた気がして後ろを振り向いて、
「はい」
と大きな声で答えた。彼女の病院へ行くには、あと数百メートル先の交差点を右ターンだ。と思いながら。
「私の名前知ってる?」
やっぱり、オートバイの排気音と、ヘルメットに回り込む風の音で良く聞こえない。僕は左手の親指でヘルメットのバイザーの下を引っ掛けるとぐっと上に押し上げてもう一度後ろを振り返って言った。
「なにか言った?」
「私のなぁーまぁーえー」
聞こえた。僕は『君の名前なら知っている。十分すぎるほど』と言いたかったが、知らないふりをして前に向き直り、頭を横にした。
「桜木沙織って言うの。B組のね」
交差点の歩行者用の信号は青の点滅を始めていた。
「聞こえてる?私は・・・・」
大声で繰り返そうとしたとたん、僕は叫んだ。
「さ・く・ら・ぎ・さん。右へ曲がるよ。しっかりつかまっていて」
信号が青のまま交差点に進入して、右へ重心を傾ける。彼女の背中の腕を伸ばして一緒に重心を移動させるように促す。はたして彼女は体を右へ傾けオートバイは綺麗な弧を描いて右にターンした。僕は信号待ちをしている車の運転席でおばさんが、自分達を見ながら何か呟いたのを見た。そして、それを合図にしてシフトダウンされたギヤを左手のクラッチのリズムに合わせて一気に上げていった。
沙織は浩次が自分を曲がる方へ誘導しようとしているのが分かった。それで少しだけ自分から体を傾けてみた。アスファルトの面が自分の座っている場所へ向かってくるのを一瞬だけ怖いと思い、浩次をつかんでいる腕に力を入れた。けれども同時に、体が傾いている方向とは逆の方へとしっかり固定されているのが分かって、怖さがどこかへいってしまった。それから感じたのは、ふわりとしたなんだか大きなサラダボールの壁をぐるっと回り終わった気分だった。
「うわぁ」
彼女は小さく声に出した。浩次は重心を元に戻しながらシフトダウンしたギヤをまた上げ、速度を上げた。沙織は自分の両側の景色が自転車を力いっぱい漕ぐだけでは体験することの出来ない勢いで後ろに行ってしまうのを見ながら、今日と言う日もあっという間に過ぎ去ってしまうのだろうかと思い巡らせた。
「ごめん。怖かった?」
「ううん。大丈夫」
やっぱりまだ風は涼しい。
僕は迷わず病院の正面玄関の前で左足を出しながらゆっくりとブレーキをかけて止まった。彼女の胸が押し付けられてくるのを感じてなんだかばつが悪い。嬉しいのは、嬉しいけれど。反対に沙織は浩次の背中にぐっと自分の胸が押し付けられて少しだけ恥ずかしかった。それから僕はオートバイの車体を左に傾けたまま左足を地面にべったりとつけて、右手でブレーキレバーを握ったまま、少しだけ振り返りながら言った。
「もう降りても大丈夫」
「うん」
沙織は足元が見えないのもあって怖く感じたが、浩次の肩につかまりながらゆっくりと地面に両足を着いた。ふーっと吐き出す息。
僕は素早くサイドスタンドを出すとオートバイから飛び降りて沙織の正面に立った。そして彼女が被っているヘルメットの顎紐を軽くひっぱってほどいた。
「脱げる?」
「ここを持つのかな」
両手でほっぺたの上の端に親指をひっかけてヘルメットを脱ごうとしている沙織を見て僕はまたどきどきしてくるのを感じた。脱げるヘルメットから流れ出す彼女の髪が踊っている。
「これ。ありがとう」
沙織からヘルメットを受け取ると、自分の脱いだヘルメットをかけいているバックミラーとは反対のミラーにかけた。
「髪、ぺっちゃんこね」
「あ、ミラー見る?」
「ううん、大丈夫。こんなのへっちゃら」
微笑みながら沙織は、ばさばさっと両手で髪の毛を持ち上げるようにかき上げた。そう。それでもきみは素敵さ、なんてきざなセリフが頭の中をよぎる。
「沢田くん。今日はありがとう。オートバイ気をつけてね」
こちらこそ。と言おうとしてとっさに出たのは、
「サンキュー。友達によろしく」
「会ったこともないのに?」
「あ、そうか」
こんなときに気が利く言葉が出てこない自分なのは仕方がない。そう思う僕は笑うしかない。二人はケタケタと声を出しながら笑って、お互いさようならの意味で右手を上げた。その時彼女が思いもしないこと言って、僕はまた驚いた。
「彼女によろしくね」
「え?」
「だって、そのヘルメット、いい匂いがしたわ」
笑顔を顔一面に広げている彼女に思わず見とれてしまう。このまま時間が止まればいいななんて思いながら、
「ちがう、ちがう。これは友達のお姉さんの借り物なんだ」
と、なんだか力いっぱい否定している自分が照れくさい。彼女はそれを聞いて、口の両端をキュッと上げて微笑んだ気がした。それから片手を少しだけあげるとくるっと病院の玄関のほうに向かって駆け出した。それを見て心の中でまた明日と呟いて僕はまたオートバイに跨って自分のヘルメットに手を伸ばす。そしてヘルメットを被って振り向くともうそこには彼女の姿はなく、小さな男の子を連れた母親が出て来るところだった。太陽の陽が今日の明るい日差しを終わらせ始めていた。
オートバイをまたゆっくりと走らせながら、彼女は帰りはどうするのだろうと思ったが、左腕にぶら下がるヘルメットが気になってそんなことはすぐに忘れてしまった。そして、また来た道へと本来乗せる相手の高志を迎えに速度を上げたとき、なぜだか来た時より軽い車体が、僕の気持ちをわくわくさせていた。
沙織はベッドの横に座りながら初めてオートバイに乗ったことの感想を話していたが、それは彼氏?と聞かれて慌てて頭を横に振っていた。でも、またオートバイに乗ってみたい気持ちは薄れそうにもなかった。それはこのまま風は涼しいままでいてほしいという思いも一緒だった。