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はじまり

 鎌倉を過ぎると、電車は左にカーブを始めた。ゆるやかに左に左にと進んでいくにしたがって後ろの窓から徐々に強い日差しが車内に入り込んできた。そのせいで、私は首の裏が熱くなったかと思うと、手元の文庫本も紙が真っ白に見えるほど照らされてしまった。電車は左に九十度曲がり、東に進んでいるようである。南側の窓から日が差すのと乗客がまばらなのとで、車内は頗る明るい。向かいの七人掛けには、仲の良さそうな二人組のばあさんと女子高生が一人座っているだけである。


 向かいのばあさんの頭越しには、ポコポコとした小さいながらも急峻な山と、その麓まで複雑に入り組んだ住宅とが見える。その山肌は常緑の照葉樹に覆われていて、葉の一枚一枚が春のうららかな日差しを反射してギラギラと輝いている。その山の上をとんびが輪を描いて飛んでいるのが、窓枠に遮られて見えたり見えなかったりした。私は文庫本に視線を戻してみたが、日差しが強すぎて読みにくいのでそれを閉じて景色を眺めることにした。


 東逗子を過ぎると一層山が迫ってきた。私は首を右に九十度以上回してじっと進行方向に目を向けていた。前方に見える山がぐんぐんと大きくなったかと思うとトンネルに入った。しかし短いトンネルだったようで十秒と立たないうちに外に出た。他にも同じようなことを何度か繰り返した。すると今度はなかなか抜けない長いトンネルに入った。これまで日の光を受けて爽やかに発色していた座席や床の色が、急に暗くなった。車内のすべてが蛍光灯で照らされ、彩度の落ちた人工的な色合いの空間になった。窓からこぼれる明かりがトンネルの重々しい壁をぼんやりと照らしている。向かいのばあさんたちは、電車の走行音がうるさいために相手の話が聞き取れなくなったようで、どちらかが話すたびに何度も聞き返している。私はトンネルを抜けたらきっとすぐだろうと思ったので、閉じていた本をリュックにしまい、カメラを取り出し、電源を入れたりズームをしてみたりして正常に動くか確認した。


 トンネルを抜けると、線路わきの倉庫の後方に軍艦の艦橋が見えた。高架の道路や倉庫に遮られてもどかしいのだが、それでも湾の手前にイージス艦が数隻、奥に潜水艦が二隻停泊しているのがわかった。なかなかの威圧感だ。特に潜水艦は漫画やアニメで見るような、あの小さな姿をイメージしていたために、その大きさに驚かされた。体の半分以上は水中に隠れているが、その姿は黒光りする巨大なクジラが浮いているように見える。程なくして横須賀駅に到着した。


 私は座り疲れた体を伸ばすように大股でホームを歩いた。駅舎を出たら瞼の奥まで光で射抜かれたような感じがした。直に陽の光を浴びるのが久し振りな気がする。そんなことはないのだが、実に清々しい。駅前の広場にはバスが二台停車していて、私と同じ電車に乗ってきた地元の人が五、六人乗車していった。横須賀中央経由、三崎港行と書いてある。「中央」と書いてあるから、そこが横須賀の中心街なのだろうか。こっちは中心街と呼ぶには何もなさすぎる。駅前だというのにコンビニすらない。あるのは暇そうに客待ちをしているタクシーとバスくらいである。その向こうに電車から見えていた軍港があり、逆に後ろに振り替えると山が見える。その斜面が住宅にぶつかっている場所はここから百メートルほどしかない。実に呑気な風景に見える。


 さて、どこへ行ったらいいものか。特にこれと言った目的地はない。では東京に住んでいる私がなぜこんな三浦半島の入り口までやってきたかというと、大学で小説の創作を課題に出されたからだ。形式や字数は自由なのだが、実在する土地を舞台にすることという条件が付いていたので、私はこの横須賀あたりに目をつけて街を観察しに来たのである。


 この課題を出した人は滝沢という教授だ。年は七十を過ぎている。長年の研究生活にもそろそろ飽きてきて、最近では大学の自分の研究室でゲームをして暇をもてあましているらしい。学生の書いた作品を読むのが好きで、毎年長期の休みに同じような創作課題を出している。しかし作家の作品にはとてもシビアで文壇では嫌われているらしい。それなのに学生の書いたのに対しては不思議と寛大で、課題が提出されると、印刷された数十人分の分厚い小説の束を、たいそうな娯楽でも手に入れたかのようなご満悦の表情でニコニコしながら研究室に運んでいくのである。


 「知っている人の書いた小説はおもしろいですね。頭の中がどんなになっているかが一発でわかりますよ。主人公は作者自身、そしてヒロインは理想の女ですね。ははぁ、彼はこんなことを考えて生きているのかって味わいながら読む。文学部の子たちは口よりも頭の方が発達してるのばかりだからね。表面的な会話だけじゃ頭の中なんてとてもわかりませんが、文章ならわかる。とても真面目そうに見える生徒が、川端康成大先生もびっくりなとんでもない変態小説を書いて提出してきた時もありましたね。いやぁ、アマでもあんなものが描けるものなんだね。すごい筆力だったよ、うん。すごいすごい。」


 先生にとって、教え子の小説を読むのは確かに道楽のようであるけれども、この課題をありがたがっている学生もかなりいる。ここはこうした方がいい、あそこはああした方がいい、うん、これはおもしろいねと言ったアドバイスが的確だからだ。作家志望の学生の中には書くたびに先生の研究室に見せに行っている者さえいる。課題には毎回テーマが一つあって、それさえ守れば何字でも良いらしい。例えば「物語の視点は一人称で書くこと」だったり、もちろんその逆もある。そして今回は、「実在する土地を舞台にすること」である。課題が発表されたとき

「それじゃあ、実際にどこかに足を運んでよく観察してこないとだめだね。」

と誰かが言った。

「そう、その通り。街の空気、地形、植木の種類、空の色、人々の足取りや表情。よーく観察して来てごらんなさい。」

すると私の右隣にいた友人が

「こりゃあなかなか難しいぞ。お前、どうする。どこへ行く。」

と言った。この男の名は雄二という。

私はまだわからないと言った。教室にいた生徒たちもどこへ行こうか話し合っていた。大抵のものは春休みの旅行先を舞台にしようかなあなんて言っている。ざわざわとした教室の中で、北海道、越後湯沢、鎌倉、京都、ディズニーランドという言葉が聞こえた。ディズニーランドはちょっと馬鹿っぽいなと思った。だが私は自身の考えがまとまらないうちに春休みに入り、結局ズルズルと日が過ぎて早くも三月半ばになってしまった。友人たちと連絡を取ると既に完成した人も何人かいるという。私は雄二に助けを乞うことにした。


「どこか良いところはないか。絵になりそうな。」

雄二は旅好きの男である。彼だけのお気に入りスポットをいくつも持っているのである。

「絵になりそうって言っても色々あるだろう。どんな雰囲気の所が好きなんだ。」

「うーん」と考えたふりをしては見たが浮かばない。すると雄二は

「そうだ。群馬出身のお前は海のある街を知らないだろう。」

と言った。

「海くらい知ってるよ。海水浴だって何度も行った。」

「どこの海だ。」

「新潟。」

「ほらやっぱり。日本海は陰気くさくてダメだ。陸地が、巨大な暗い海面に引きずり込まれそうな不気味な感じがするだろう。だけどこっち側の海は違う。近場だと…そうだな、三浦半島のあたりが美しい。小さな山と坂道がいっぱいあって、海もどことなく優しくて自然の驚異を感じさせない。急な石段を頂上まで登って、それから振り返ると眼下に街があってその向こうに海が見える。日本海にそういうところはあるか。」

「わからない。」

「俺も厳密にはわからない。だけど、たぶんない。あっても少しだ。」

私はそれを聞いて確かに行ってみたくなった。それなら絵になりそうだ。今の説明を聞いただけでもかなりイメージがわいてきた。そして雄二になぜそんなに詳しいのかと尋ねると

「昔付き合っていた女が横須賀に住んでたからな。」

と言った。少し間が空いてから

「今でもあの坂道を夢に見ることがある。」

と言った。

「そんなに小説じみたこと言うなら君が横須賀を書けばいいのに。」

「いや、俺が書いたらほとんど私小説になっちまう。もしそれが傑作と評され出版でもされてみろ。元カノに怒られるだろう。」


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