兄さんは誰にも渡さない
夕飯を食べ終え、私は兄さんと共にシンクに食器を持って行った。食器を置いて兄さんを見上げると、兄さんがぽんを私の頭に手を置く。
「夢菜、ごちそうさま。今日も美味しかったよ。いつもありがとう」
兄さんはそう言ってにっこり笑うと、私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。撫でられる感触はすごく心地が良く、無意識に俯いて目を細めてしまう。
兄さんが撫でるのをやめるので、顔を上げて兄さんを見ると、またにこりとしてくれる。
「じゃあ片付けはやっておくから」
「兄さんも、いつもありがとう」
兄さんは「うん」と言って微笑み、腕まくりをする。
それから私はいつものように、お風呂に入るために自室に着替えを取りに行った。
私は一つ年上の、高校二年生になる兄と二人暮らしをしていた。
両親は私達が幼い頃から仲が悪く、世間体を気にして離婚をしないというだけで、夫婦関係はとうに破綻していた。
そんな両親は、兄さんが中学校に上がると同時に二人とも家に帰ってこなくなっている。恐らく二人とも私達の知らない異性の家に転がり込んでいるのだろう。
母が見知らぬ男と、父が見知らぬ女と一緒にいるところは幼い頃からよく見ていたし、多分間違いない。
きっとこの先両親と共に暮らすという事はないだろう。
それでも特別不満はなかった。二人暮らしに不便は感じないし、両親……特に父は必要最低限のことはやってくれる。仕送りも少々多すぎるぐらいにしてもらっている。
しかし私も兄さんも必要以上に使ったりはしない。私達は両親のことは好きではない。だから必要以上に両親に頼ることを嫌っている。
そんなこんなで私達は二人暮らしだが、不満があるどころか、のびのび出来るこの生活を、私は勿論兄さんも気に入っていた。
そんなことを考えながら着替えを取った私は、それを持って一階に下りる。着替えを抱えたままキッチンに向かうと、兄さんは丁度片付けを終えた所らしい。私を見ると目を細める。
「どうかした? 風呂、入らないの?」
「うん、入るよ」
私は兄さんに近づいていき、兄さんの目の前でじーっと兄さんを見上げる。意図を理解してくれた兄さんは、仕方ないな、と言わんばかりにまた目を細めて、私の頭を撫でてくれる。
心地好い感触にしばらく身を委ねるが、少しして兄さんの手が離れる。私はそれを残念に思いながら、片手で着替えをしっかりと支える。兄さんに近づいて、身体を密着させた。そして空いた片手を兄さんの背中に回した。
兄さんは平均身長だけど私が小柄なので、私は兄さん胸に顔を埋めるような形になる。
「夢菜はホント甘えん坊だね」
兄さんはそう言って私の背中に手を回すと、片手でまた頭を撫でてくれる。
兄さんの温もりが、匂いが……感じる全てのものが私の頭を満たす。すごく幸せだった。
私にとって兄さんは一番大切な『家族』で、一番大切な『異性』だ。
実兄を異性として意識するなんて、それがどんなにおかしな事かは、気持ち悪いことなのかは理解しているが、それでも好きになってしまったのだから仕方ない。
今の兄さんは多分、私を異性としては意識していないけれど、きっと兄さんも同じ気持ちになるという確信がある。
私が世界で一番兄さんを大切に思っているように、兄さんは私を世界で一番大切に思ってくれている。
今の兄さんは気付いていないだけだ。自分の気持ちに。きっと兄さんは、私のことを異性として好きだといずれは気付いてくれる。絶対に。
私は兄さんの胸に頬を預け、小さく息を吐き出す。そしてゆっくりと兄さんから身体を離す。
「お風呂、入ってくるね」
そう言うと兄さんは笑顔で私の頭を撫でてくれた。
◇
お風呂を上がり、私はいつものように兄さんの部屋に向かった。軽くノックをして扉を開くと、兄さんの姿を探す。兄さんはベッドに寝転がってマンガを読んでいるようだ。
「兄さん、お風呂どうぞ」
「うん」
兄さんはマンガを閉じて起き上がる。それを確認して、私は隣の自室に向かった。
自室の扉を閉めると、そこで待機して耳を澄ませる。少ししてぎぃっと扉開く音がして、足音が去って行った。それを確認して、私はまた兄さんの部屋に戻った。
そそくさとクローゼットを開けて、兄さんの制服のズボンを取り出す。以前、こっそりとズボンの内側にポケットを作った。私はそこにICレコーダーを入れている。勿論兄さんはポケットの存在も、そこにICレコーダーが入れられてることも知らない。
年が違う兄さんの、学校での言動や、人間関係を把握するにはこうするしかなかった。
こうやって兄さんの行動を監視することに罪悪感はある。だけどやめるつもりはない。私は兄さんの全てを知っておきたい。全てを知らないと不安になる。
私はレコーダーを取り出すと、録音の停止ボタンを押す。ズボンを元の位置に戻してクローゼットも閉めると、またそそくさと自室に戻った。
机の引き出しからイヤホンを取り出し、それを持ってベッドにうつ伏せに寝転がる。ICレコーダーと耳にイヤホンを装着して、再生ボタンを押す。
飛ばし飛ばしに録音された音声を聞いていって、最後まで確認を終えた私は耳からイヤホンを外しながら、つい小さくため息を零していた。
あの人、懲りてないんだなぁ。警告してあげたのに。
私にとって兄さんは世界一かっこいい男の人だけど、客観的に見たら兄さんの容姿は特別悪いわけじゃないけど、いいわけでもない。
だけど兄さんは昔からモテる。わかりやすくモテモテなわけじゃないから、兄さんは気付いていないけれど。
お人好しで、真っ直ぐで鈍感。そんな兄さんは女性に対して下心を持って接するということをしない。だから彼女はいないけれど女友達が多かった。
そんな女友達が、みんな兄さんのことを好きになる。だから兄さんは告白された回数はそこそこ多い。告白はしていないけれど、兄さんのことを好きになった女性は結構な人数になるだろう。
だけど兄さんは告白されたことなんか一度もないと思っている。それは私の努力の賜物なのだけれど。
私は兄さんがモテ始めた時期から再三色々と言い聞かせてきた。
『女の子はちょっと遊びに出かけることも『デート』という』
『男友達には冗談で告白するのなんて普通のこと』
『女の子は平気で嘘をつく』
『でも、私は、私だけは兄さんに嘘はつかない。信用していいのは私だけ』
兄さんが元来素直であまり人を疑うことをしない性格な上に、私は兄さんから強い信頼を得ていたので、兄さんは私の言葉を微塵も疑わなかった。
だから兄さんが今まで受けた告白は、兄さんは全部『冗談』だと思っている。
元々兄さんは自分のことを『冴えない男』だと思っているので、そもそも自分が告白をされる、という考えがない。
それに加えて私から再三聞かされた『助言』のせいで、相手がどんなに真剣に告白をしてきても、兄さんにとっては全部演技にしか見えない。
相手がいくら『演技じゃない』『冗談じゃない』と否定したところで、兄さんにはそれが自分を騙すための方便にしか聞こえない。
真剣に告白しているにも拘わらず、兄さんがそうやって取り合わなかったら相手は当然兄さんから離れていく。
それでも兄さんの周囲から女性がいなくなることはない。それでも、みんながみんなそうして兄さんのことを好きになるから、少しずつ兄さんの周囲から女性はいなくなっている。私の思惑通りに。
告白する様子はないが、明らかに兄さんに好意を寄せている女性には、私が『警告』をするようにしている。
新聞の切り抜きで『一条隆二に近づくな』という一文を作って下駄箱に入れると言うだけのことだが、守りに入る女性には効果てきめんで、直ぐに離れていってくれる。
ただ、今回に限ってはそれは逆効果だったらしい。
『藤原香菜』
兄さんのクラスメイトである彼女は、スレンダーで、私ほどではないが少々小柄な身体に、ショートカット。遠目に見ても分かるぐらいの美人な女性だった。
ただ彼女は気が強そうな印象を受けたから、警告が逆効果になるのは想定内。
私はきちんと警告した。それを聞き入れなかったのが悪いのだから、例え彼女が傷ついたとしても、それは自業自得。
私の兄さんに、思いを寄せるというその行為自体が許されざる事だが、兄さんを好きになる気持ちはよくわかる。だからこそ、私は渋々ながらも彼女たちの気持ちは受け入れてきた。
それに、彼女たちがどんなに思いを募らせようとも、その思いが叶うことがないのはわかっている。だからこそ兄さんに好意を寄せた女性が兄さんに触れても、私はどうにか平常心を保つことが出来ていた。
私は今まで『警告』以外のことはしてきていない。それ以上する必要がないし。
しかし今回はちょっと違う。藤原香菜は、兄さんがかつてないほどに信頼を置いている女性だ。
以前どうしてもそれに納得がいかず、嫉妬した私は兄さんに『兄さんは騙されている』と訴えかけたことがある。
兄さんは『香菜はそんなことしない。なにも知らないくせに勝手なことを言うな』と、酷く怒った様子でそう言って、その後私がなにを言っても取り合ってくれなかった。
兄さんが私以外の女性にそこまでの信頼を置くのが。私以外の女性に対してそこまで感情を露わにするのが。悔しくて、許せなくて、私が泣いてしまったことで兄さんが折れ、その場は収まった。
ただ、それ以来兄さんは私に藤原香菜の話を一切しなくなった。私も私で触れることが出来なくなった。
しかしICレコーダーのお陰で、聞かずとも大体のことは把握している。
仲良くなってまだ三ヶ月程度だというのに、泣きたくなるほどに二人はすっかり仲良くなっている。兄さんも藤原香菜には絶対と言っても過言ではない程の信頼を置いている。
そこまで信頼を置く女性が兄さんに告白したら、兄さんはどうするだろうか?
いつものように『冗談』だと受け取るか怪しい。というか、本気と受け取る確率の方が高いだろう。
兄さんが藤原香菜を異性として意識していないのは間違いない。友人としては大切に思っているだろうし、好意も寄せている。ただ、間違いなくそれだけだ。
だから例え本気と受け取っても、告白は間違いなく断るだろう。
しかし、藤原香菜がそれでも引かずに、『今は好きじゃなくてもいいから、とりあえず付き合って欲しい』と、そのようなことを言い出したら、兄さんも受け入れてしまう可能性はある。
勿論私の妄想ではあるが、私の警告を見て直ぐに告白を決心するような女性だ。可能性は高いだろう。
兄さんも『そろそろ彼女が欲しい』などどぼやいていたから、押されたらそのまま……となってもおかしくはない。
私はICレコーダーを使って、私が見えない兄さんの言動を把握し、必要があれば『警告』をする。
それぐらいの事しかしてこなかったが、そろそろ私も動くべきだろう。
その為の準備はしてきた。
兄さんは気付かないふりをしているけど、私が異性として兄さんを好きなのはうっすらとは気付いているはずだ。
私はブックカバーを付けた近親相姦のえっちなマンガを兄さんの部屋で読み、わざとそれを置き忘れる、ということを何度も繰り返している。
初めの内はその日に気まずそうな顔をしながら、「忘れてたよ」と私の部屋に届けてくれるだけだった。特別言わなかったけれど、兄さんの表情を見るからに、毎回カバーを外して表紙を確認しているのは間違いないだろう。
しばらくはそんな感じで思わしい反応は得られなかったけれど、続けていくうちに、次第に兄さんが私に届けてくれるのが翌日、ないし二三日後になっていった。
それどころか、兄さんが私に届けに来ていない物があったりする。特に問題はないので、私は素知らぬふりをしているけど。
それに兄さんが目を通しているのは間違いないだろう。
いくら鈍感な兄さんでも、ここまでしたら私の気持ちに気付かないわけがない。
『妹だから』『有り得ない』そういう考えて否定はしているだろうけど、気付いてはいると思う。
着実に努力してきた甲斐あって、兄さんの周囲から女性は大分減っている。私の気持ちに気付かせることにも成功している。
だったら後は、兄さんの『有り得ない』と否定する気持ちを打ち砕いてあげればいい。
本当は私も兄さんも社会人になってから実行に移すつもりでいたけれど、そうも言ってられない。
例え兄さんが私のことを異性として好きでいてくれていたとしても、兄さんが私に告白をしてくれるというのは期待できない。私の幸せを何より願う兄さんが、兄妹で一線を越えるという、泥沼の道を選ぶと言うことはまずしない。
だけど私のことが好きだからと恋人を作らない可能性はある。ただあくまでも『可能性ある』というだけで絶対じゃない。
だから藤原香菜に告白をされて、恋人関係になることは充分あり得る。今はならなくとも、兄さんに藤原香菜を異性として意識させて、いずれ……という可能性も高い。
兄さんがかつてないほどに信頼を置く藤原香菜は、危険な存在だ。
だからこそ、今動くしかない。兄さんが他の女の物になるなんて、耐えられない。そんなことになるなら死んだ方がましだ。
兄さんは私だけの兄さん。
兄さんが見ていいのは私だけ。兄さんが聞いていい言葉は私の物だけ。兄さんが触れていいのは私だけ。兄さんに触れていいのは私だけ。
私だけの兄さん。
兄さんは、誰にも渡さない。
◇
お風呂を上がった兄さんは、ドライヤーとくしを片手に私の部屋を訪れる。私は読んでいた本にしおりを挟んで閉じるとベッドを下りて、ベッドの前に腰掛ける。
兄さんはドライヤーのプラグを挿すと、私の背後に腰掛ける。
「乾かすよ?」
「うん」
兄さんはドライヤーのスイッチを入れて、丁寧に髪を乾かし始める。
自分でも出来るけれど、腰の辺りまで伸びた髪を乾かすのは結構めんどくさい。それに、私はこうして兄さんに髪を触って貰うのが好きだった。だから私はずっと兄さんに髪を乾かして貰っている。
しばらくして、乾かし終えた兄さんはスイッチを切ってドライヤーを置くと、今度はくしで髪を梳かし始める。
心地好い感触に身を委ねていると、少ししてそれも終わって、私はくるりと兄さんの方を向く。
「兄さん、ありがとう」
兄さんは笑顔で私の頭を撫でてくれる。それからドライヤーのプラグを外して、ドライヤーとくしを持って立ち上がると兄さんは部屋を出て行く。
兄さんはなにも言わなかった。言ってくれなかった。予想通りではあるけど、胸がちくりと痛む。
私は痛む胸をごまかすように小さく息を吐き出した。
◆ ◆ ◆
翌日の朝、七時五分前。私はそーっと兄さんの部屋の扉を開けた。ベッドに近づくと、兄さんはすぅすぅと寝息を立てていた。
頭上に置かれた目覚まし時計を確認すると、目覚ましは七時にセットされている。予想通りだ。
私はベッドに上がり、兄さんに馬乗りになる。そっと上半身を倒して、兄さんの首に鼻を押し当てる。鼻いっぱいに兄さんの匂いを感じ、幸せな心地になる。
そんなことをしていると、兄さんが鬱陶しそうに顔を動かした。顔を離して兄さんを見ると、顔をしかめていた。
私はとりあえず兄さんに馬乗りになったまま目覚ましが鳴るのを待つ。しばらくして目覚ましが音を鳴らすと兄さんはまた顔をしかめ、掛け布団から腕を抜いて目覚ましを止めた。
兄さんがゆっくりと目を開くので、私は兄さんを覗き込むようにする。兄さんは私を視界に捉えると、不思議そうな顔をした。
「夢菜……?」
兄さんは私を呼んで、欠伸をする。そして目元をごしごしと擦った。私はそんなに兄さんににっこりと笑いかけた。
「兄さんおはよう」
「おはよう。それで、退いてもらえるかな? 起き上がれない」
「うん、無理」
兄さんはきょとんとした顔で私を見る。
「……言い忘れてたんだけど、今日はちょっと予定があるんだ。だから早く退いてくれないかな?」
『言い忘れてた』、か……。それは間違いなく嘘だろう。言い忘れたんじゃなくて、言うつもりがなかった。
納得はいかないが、兄さんが私に気を遣ってなのは分かっている。兄さんは私が傷ついたり、泣いたりすることを酷く嫌うから。
『藤原香菜と約束がある』と伝えれば私が納得いかない顔をするのは、容易に想像が出来るだろう。兄さんは多分、私のそんな顔を見たくなかったんだと思う。それでも、私に内緒で他の女と会うなんて、納得いかないけれど。
私はぐっと両拳を握りしめて、小さく首を振って返した。
「予定って藤原香菜さんとデートの約束、だよね? 十時に学校近くのファミレスで待ち合わせ」
兄さんは心底驚いた様子で目を見開く。なんで知ってるんだ、と言わんばかりの表情だ。兄さんわかりやすい。
「僕、今日の予定って話したかな?」
「ううん、聞いてないよ」
「じゃあ、なんで……」
兄さんは怯えた様子で私を見るけど、この反応は想定内。それでもちょっとだけ傷つくけど。
私は右手に持っていたICレコーダーを兄さんに見せる。
「これなーんだ」
悪戯っぽく言うつもりだったけれど、緊張で声が震えてしまった。それでも私は精一杯笑顔を浮かべて兄さんを見る。
兄さんはレコーダーをじっと見つめると、恐る恐る手を伸ばすので、渡す。訝しげにレコーダーを見た兄さんはしかめっ面になると、じっと私を見た。
「ICレコーダー……だよね」
「ご名答。兄さんの制服のズボンの内側にね、こっそりポケットを作ったの。それで、毎朝そこにこれをこっそり入れておくんだ。兄さんがお風呂に入っている間に回収して、内容を確認してるの」
兄さんは片手を額に当てると呆れた様子でため息をついた。
「夢菜が嫉妬深いのは知ってたけど……そこまでしてたんだね……」
「うん」
「まぁ事情は分かったよ。とりあえず退いてもらえる? 起き上がれないから」
「だめ」
私は優しくそう言って、兄さんの顔の横に両手をつくと顔を近づける。
「約束してくれたら退いてあげる」
「約束?」
兄さんは怪訝そうに眉をひそめる。
「藤原香菜に告白されても、絶対に断るって」
兄さんは驚いた様子で目を見開いた。
「なに言ってるんだ……?」
本当に意味が分からない、という様子で私を見る。
「だって『デート』でしょ?」
「……女子はちょっと遊びに出かけるのも『デート』って言うんだよね?」
「そうだね。でも、藤原香菜は本当に『デート』のつもりだと思うよ。あと、藤原香菜は兄さんのことが好き。だからきっと、今日告白されるはず」
「あまり適当なことを言うなよ」
兄さんは呆れた様子でまたため息をつく。
「確かに、百パーセントじゃないよ? でも、もしそうだった場合に断るって約束をして欲しいの」
兄さんはじっと真剣に私を見つめてくる。
「……嫌だって言ったら?」
「今すぐ兄さんを襲います」
「笑えない冗談だな」
「そうだろうね。冗談じゃないもの」
兄さんは一度目を逸らすが、直ぐにまた私の目を真っ直ぐ見つめる。
「女の夢菜が、僕を襲えると本気で思ってるのか?」
「思ってないよ。力じゃ敵わないのはわかってるもの」
私は両手で兄さんの頬を包み込むとにっこりと笑いかける。
「ねぇ兄さん。私って可愛い?」
「……そうだね、可愛いと思うよ」
「じゃあ私が街中で逆ナンしたら、どうなるかな?」
目を見開いて私を見つめたと思ったら、兄さんは直ぐに睨み付けるように私を見る。
「あまりふざけたことを言っていると、本当に怒るよ?」
「ふざけてないよ」
「夢菜、もっと自分を大事にしなくちゃ駄目だろ?」
私は兄さんの額にちゅっとキスをして、にっこりと微笑む。
「兄さんが私以外の人を見るなら、大事にする必要なんてないもの」
兄さんはまた驚いた様子で目を見開く。そして視線をあっちのこっちにと彷徨わせた。
「なに……言って……」
「それはこっちのセリフかな。兄さん、本当は分かってるんでしょ? 私が兄さんを恋愛感情で……異性として好きなの」
「っ!」
びくりと肩を跳ねさせた兄さんは無言でをそっぽを向く。それは肯定と捉えていいだろう。
「私、兄さんのこと好きだよ。世界で一番好き、大好き。愛してる。誰にも渡したくない。なにもいらないから、兄さんと一緒にいたい。だから、兄さんも私だけを見て? 私だけを好きになって?」
じっと私の顔を見つめた兄さんは小さく息を吐き出す。
「……分かった、約束する。もし告白されたら断るよ。だから退いてもらえるかな?」
私はこくんと頷き、兄さんの上から退いて、ベッドを下りる。起き上がった兄さんもベッドから下りて、なぜか真っ直ぐ机に向かった。
机の上に置いてあるスマホを取ると、またこちらに戻る。ベッドの前に腰掛けた兄さんはスマホを操作して耳に当てた。
電話を掛けているのだと直ぐに分かった私は、慌てて兄さんの右隣に腰掛けて兄さんのスマホに耳を寄せる。兄さんはちらりと私を見るだけでなにも言わなかった。
『もしもし、隆二くん? こんな時間にどうしたの?』
スマホ越しに聞こえてくるのは、恐らく藤原香菜の声だろう。
「ごめん、ちょっと聞きたいことがあったんだ」
『聞きたいこと?』
「今日ってその……デート、なんだよね?」
『う、うん……』
「それってただ遊びに出かけるって意味、だよね? それ以上の意味はないよね?」
『突然なに……?』
ちらりと兄さんを見ると、気まずそうな表情を浮かべていた。
「……質問に答えて欲しい」
『……』
藤原香菜は押し黙る。兄さんを見るとぎゅっと唇を噛みしめていた。
「じゃあ質問を変えよう。今日、もしかしてなにか話があったんじゃないのかな?」
『な、なんでわかって……!』
兄さんはぎゅっと両拳を握りしめる。そして小さく息を吐き出した。
「僕に……告白するつもりだった……のかな?」
『それは……』
藤原香菜はまた押し黙るが、少しして盛大にため息をついたのが聞こえてくる。
『そうよ、そのつもりだったのよ。とりあえず、それはまた会ってからじゃ駄目?』
兄さんの両拳が小さく震えていた。胸が痛くなりながら兄さんの拳にそっと触れると、兄さんは私の手をぎゅっと握り込んだ。
「ごめん。香菜の気持ちには応えられない」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず肩を跳ねさせた。まさか電話で断るとは思ってもみなかった。
『なんで? どうして? 私は……』
藤原香菜の震える声に呼応するように兄さんの手に力がこもる。
「僕にとって香菜は大事な友人だよ。ただ、それだけだ。それ以上には思えない」
『そ、それでもいいの! 付き合っていくうちに、好きになっていく可能性もあるでしょう? だから、私と──』
「出来ないよ」
私が予想した通りのことを言い出す藤原香菜に、兄さんはきっぱりと拒絶の言葉をぶつけた。
「例え付き合っても僕の気持ちは変わらないよ。僕は香菜とは付き合えない。香菜のことは好きだけど、それは友人としてだよ。それ以上には思えない」
『……わかっ……た……』
「ごめん」
兄さんが謝って少しして電話は切れる。
私が身体を離すと兄さんは耳からスマホを離し、画面をじっと見つめながら小さくため息をついた。
兄さんはスマホを机に戻すと、直ぐに戻ってきてまたベッドの前に腰掛けた。
「夢菜、もう二度と、ふざけたことは言わないと約束してくれ」
真剣に見つめる兄さんに私は頷いて返す。
「うん、約束する」
正直、胸は痛む。私にとって兄さんが一番で、兄さん以外はどうでもいいとはいえ、良心がないわけじゃない。だから胸は痛む。
だけど、藤原香菜だって兄さんが異性として意識していないのはわかっていたはずだ。それでも告白したのだから、それで彼女が傷つくのは致し方ないことだろう。
私は兄さんの目の前に移動して、兄さんの首に手を回す。
「ねぇ兄さん、私、兄さんのことが好きだよ」
「僕も好きだよ。……妹として」
兄さんはそう言ってぷいっとそっぽを向く。その反応で確信する。兄さんはちゃんと恋愛感情で私のことを好きでいてくれている。
「夢菜、聞きたいことがある」
真剣な表情になった兄さんはそう言ってじっと私を見つめる。
「うん、なに?」
「今までさ、なんだかよくわからないけど、突然『嫌いになった』とか『生理的に無理』とか、訳の分からない事を言って僕から離れてく女友達がいたんだけど……もしかして、それって夢菜がなんかしてたのか?」
「まぁ、そうだね。新聞の切り抜きを使って『一条隆二に近づくな』って一文を作って、それを下駄箱に入れただけ、だけど」
兄さんは目を伏せながら「なるほどね」と呟く。
「僕が今まで何度か告白されたことあるのは知ってるよね? でも、夢菜が『男友達には冗談で告白するのなんて普通のこと』、『女子は平気で嘘をつく』っていうのを聞かされてたから、全部冗談だと思ってたんだ。でもよくよく思い出すと、明らかに反応がおかしかった……というか……。冗談だよね? とか言うと、なぜか平手打ちされたりして……。もしかして、夢菜に聞かされた事って全部嘘で、今までの告白って全部本気、だったのかな?」
「ごめんね、兄さん。多分、全部本気だったと思う」
「……女子は平気で嘘をつく」
兄さんが泣きそうな顔でそう呟いた。胸が痛むが、仕方ない。自業自得なのはわかってる。
「ごめんなさい。そうでもしないと兄さん、誰かと付き合ったりしそうだったし……」
落ち込みながらそう言うと、兄さんはぽんぽんと私の頭を撫でる。
「……夢菜は僕が誰かと付き合うのは嫌なんだね?」
「うん、絶対に嫌」
「女友達を作るのは?」
「嫌」
きっぱりそう言うと、兄さんは苦笑を浮かべる。
私は兄さんの両肩に手を置いて、膝立ちになると至近距離で兄さんを見下ろす。
「兄さんが私以外の女の物になるなんて絶対に嫌。考えただけで頭がおかしくなりそう。兄さんには私以外の女の子を見て欲しくない。話して欲しくない。触れて欲しくない。私以外の女の子を信頼して欲しくない。私だけを見て欲しい。私だけに触れて欲しい。私だけを信じて欲しい。私以外のことを考えないで欲しい。ずっとずーっと、最期まで私だけの兄さんでいて欲しい。私が死ぬときが兄さんの死ぬとき。兄さんの死ぬときが私の死ぬとき。だって兄さんは私だけの兄さんで、私は兄さんだけの物なんだもの。全部全部当然の事、だよね。私、もう我慢するの嫌だな」
にっこりと兄さんに笑いかけると、兄さんはまた苦笑を浮かべて私の頭に手を伸ばすとくしゃくしゃと少々乱暴に撫でる。
「わかったよ。じゃあ女友達とは全員縁を切る」
「……いいの?」
「その意思確認いる?」
兄さんが呆れた様子でそう言うので、私はつい苦笑を浮かべてしまう。
「兄さん、ありがとう」
兄さんは目を細めるとぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれる。
私は幸せで胸がいっぱいになりながら、腰を下ろすと兄さんの首に手を回す。そしてじっと兄さんを見つめる。
「兄さん、キス、してもいい……?」
驚いた様子で私を見た兄さんの唇に、返事を聞く前に自分のそれを合わせる。むにゅりと、唇に当たった柔らかい感触に、私は酷く高揚感を覚えた。
唇を離すと兄さんは戸惑った様子で顔をしかめた。
「……していいなんて一言も言ってないんだけど」
「そうだね」
私は微笑んで返し、兄さんの肩を両手でぐっと押す。驚いた様子で目を見開いた兄さんの身体はあっさりと倒れる。床に後頭部を打った兄さんは、結構痛かったのか小さく声を上げた。
「ゆめ……な……!」
私はゆっくりと兄さんに顔を近づけていき、またキスをする。唇が触れた瞬間に、背筋がぞくぞくした。
兄さんの下唇を唇で挟み込み、ちゅぅっと吸い上げる。吸い上げたまま唇を離すとちゅっと音がした。
上唇を舌先で撫でると、兄さんの肩がびくんと跳ねる。
私は自分の体温が酷く上昇するのを感じながら、また兄さんにキスをする。唇を合わせたまま、唇の間に舌を割り込ませる。
僅かに空いた歯の間をくぐって兄さんの口腔内に舌を差し入れると、兄さんの舌を舌先で数回つつく。兄さんの舌が逃げるように動くのが面白かった。
舌先で兄さんの唾液を感じた瞬間、背中に電気が走ったような感覚に襲われる。
初めてなのに、兄さんとこんなえっちなキスしてる、と思うと身体が熱くなった。
くらくらと酷く目眩がしたのもあって、一度舌を抜いて唇を離すと、至近距離で兄さんと目が合う。兄さんは赤くなった顔をごまかすようにそっぽを向く。
「兄さん、大好き」
兄さんの肩がびくりと跳ねる。起き上がろうとするので、渋々兄さんの上から退く。
兄さんは困った様子で後ろ頭をかくと、小さく息を吐き出す。そして私の腰に手を回した。
「にいさ、んっ」
今度は兄さんからキスをしてくれる。しかし兄さんは直ぐに唇を離す。私は慌てて兄さんの首に手を回して、また私からキスをする。
先ほどと同じように兄さんの口腔内に舌を入れて、兄さんの口腔内を舐め回す。全部全部知りたくて、確かめるように、丁寧に舐め回す。
今度は兄さんも応えるように舌を動かしてくれた。
お互いの唾液が混じり合い、ぐちゅりぐちゃりと音を立てる。
興奮しながら一度唇を離すと、私は勿論、兄さんもハァハァと呼吸が荒くなっていた。
私はもう一度唇を合わせて、夢中で兄さんの口腔内を貪る。
しばらく何度も何度もキスをして、完全に唇を離した私は身体に力が入らなくなっていた。ぐったりと兄さんに身体を預けると、兄さんはぎゅっと私を抱きしめてくれる。
「……兄さんのえっち」
「……お前に言われたくない」
私達は同時に噴き出すが、息が整っていないのもあってうまく笑えなかった。
私は兄さんのハァハァという荒くなった呼吸音を聞きながら、ゆっくりと身体を離す。じっと兄さんを見つめると兄さんも見つめ返してくれる。しかし兄さんは直ぐに気まずそうに視線を逸らした。
「……はぁ……どうしよう、これ……。夢菜、ファーストキス、だよね?」
「当然」
兄さんは心底困った様子でため息をつく。
「あー……やっぱり父さん達に言わなくちゃ駄目、だよなぁ……」
兄さんがそんなことを呟くので、私は両手で兄さんの頬を包み込む。
「お父さんもお母さんも私達に興味ないし、言ったところで『勝手にしろ』で終わりだと思うよ? ……とりあえず、そういうのは後で考えようよ。ねぇ兄さん。今でも兄さんは私のことが『妹として好き』だって言うの?」
「……妹として、も、好きだよ」
兄さんはそれだけ言ってそっぽを向く。今はそれだけで充分だった。
「今はそれで我慢してあげるから、キス、して……?」
兄さんは私を見るが、直ぐに気まずそうに視線を逸らしてしまう。とりあえず目をつむってキスをしてくれるのを待つと、直ぐにちゅっと、柔らかい感触が唇に触れて、離れる。
ゆっくりと目を開けると、赤い顔の兄さんと目が合う。
「兄さん、愛してる。私だけの兄さん……もう、誰にも渡さない」
兄さんは苦笑を浮かべるとぎゅっと抱きしめてくる。
「誰かの所に行ったりしないし、夢菜から離れたりしないよ」
耳元でそう囁かれて、私は身体に甘い痺れが走るのを感じた。
「兄さん、一生一緒にいようね」
「そうだね」
兄さんの言葉が頭の中でこだまする。
これで私がずっと望んでいた通りになったのだと、実感する。
兄さん。私だけの兄さん。私は兄さんと一生一緒にいる。誰にも渡さない。誰にも触れさせない。
もうずっと、兄さんは私だけの兄さん。