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カラリ、と背後で職員室のドアが開くのが聞こえた。
もうひととは触れたくなかったので逃げるように歩き出す。
「桜屋敷、そっちは体育館だぞ。こっちだこっち」
指で示す観咲を振り返る。
できれば顔を会わせたくなかったが、職員室でのことで迷惑をかけることになるかもしれない。謝っておくべきかもしれない。
観咲に並んで歩きながらその顔を見上げた
「先生に…ご迷惑を…」
驚いたように見返し、観咲は猫毛の長い前髪を掻きあげた。
弓月がその場にいたなら、それが照れた時の癖だと気づいただろう。
「気にするな。教師陣は桜屋敷に同情的だったから」
「え?」
教師というものは花井のような者なのでは それが顔に出たのだろう、観咲は苦笑した「教師も十人十色だよ。…あの女は花井先生はちょっと、精神的に問題がありそうだけどな」
「心の病気…だったんですか…」
そうだったのか。
「どうだかな…」
観咲の呟きは美夜には届かない。
あの手の人間にはしょっちゅう出くわすし確かに異常な人間だったが、この世の中まともな人間の方が珍しいくらいだ。
世俗まみれた者は多少なりとも精神に歪みを持っている。
なぜだろう、と観咲はふと思う。
なぜかこの子の前に立つと、その歪みが誇張されるような気がした。
そっと盗み見すると、なにやら思いつめた顔をしていた。
「どうした?」
尋ねると、唐突に歩を止める。
赤く腫れた頬に血がにじんでいることに気づく。花井の長い爪のせいだろう。
「あの方は非常識な人間だと、頭ごなしに決めつけた自分が恥ずかしいです。ひととは、とても複雑なものなんですね」
「うん…。でもな、彼女がああなってしまったのには彼女自身にも責任がある。歪みかけた自分に気づきそれを正そうと努力したならもっと違う人間になっていただろう。…ま、俺もひとのことは言えないか」
ハンカチを美夜の頬に当て、観咲は自嘲した笑いを浮かべた。
「ひとは複雑で多面的なんですね。貴方は誠実で優しい」
礼を欠いたひとだと思い込んでいた。けれどこうして優しい面をみつけると、とてもいいものを手に入れたような気がして嬉しくなる。
自然と顔がほころんだ。
母さんは、これを学んで欲しかったんだろうか。
「あー…」
ばりばり、と観咲は頭を掻き目をそらす。 顔が赤い。
さすがの美夜も、照れているのだと気づき小さく声をたて笑ってしまった。
「…あのな、桜屋敷。」
「はい?」
先を歩き出した観咲を見上げる。
「そういうことは、男には言わんほうがいいぞ」
「…はい…?」
授業中の校内は休み時間の喧騒が嘘のように静かだ。
特に一階の奥に位置する保健室の辺りは、使われない机や椅子を放り込んでいる部屋や用具室が多く人気がまったくない。
観咲はノックもせずに保健室のドアを開いた。その音はやけに大きく響く。
「弓月いるかぁ」
「観咲、何度も言いますが昼寝はよそで…」
回転椅子をくるり、と回しこちらを向いた弓月は慌てて立ち上がった。
「あ…」
なにか言いかけ、美夜の頬に気づく。
仕事を思い出したようだ。
「そこに、座ってください」
そばのパイプ椅子を指し薬箱を取り出す。 消毒を始めるその手が緊張していることを観咲は気づいていた。
「桜屋敷さ、最近変わったことないか?」
窓枠に腰かけつつ、観咲が尋ねた。
「変わった…こと?」
「そーだなぁ、身体から離れる夢を見たとか身体を炎や桜に覆われる夢を見たとか…」
美夜はきょとん、と観咲を見返す。
「…いいえ」
一体何を言い出すんだろう。