炎の許し1
事務所の応接間にあるソファーに寝転がる姿を眺め、弓月はため息をついた。
「最近、行かないんですね、観咲」
ソファーからは返事がなく、弓月はいつものことと割り切って上着をはおり出ていこうとする。
「恐いんだよ」
届いた呟きに歩を止め、音もなくソファーを振り返る。
「このままずっと目覚めないのかと思うと恐いんだ。だから…眠るあいつを見たくない」
弓月は俯きしばらくの間微動だにしなかったが、振りきるようにして事務所を出ていった。
バルコニーへと続くガラスのドアに引かれているレースのカーテンを退ける。
「ああ、今夜は満月ですね。…桜月夜とはよく言ったものだ」
カーテンを正して、部屋の中央に置かれているベットに歩み寄る。
「あれからもう…二年ですか…」
音もたてずにベットサイドに置かれた椅子に座る。そして眠る美夜の手を握る。
「いつになったら、貴女は目を覚ますんですか…? あと一年ですか? 五年ですか? 貴女にとっては一瞬でも、私達には長過ぎる時間だ…」
手の中の柔らかくほっそりとした手を額にあてる。まるでなにかに祈るかのように。
「もう観咲も限界です。…私もいつまで持つか…。早く…早く目を覚まして下さい」
眠気が襲いかかる。最近、こうして美夜に触れていなければ眠る事ができなくなっていた。死んだように眠る、その手にぬくもりがあることを確かめながらではないと、眠る事ができなかった。
もう、俺も…限界かもしれない…
「美夜さん…美夜さん…美夜…」
やがて、寝息が二つになる。
美夜は二年もの間眠り続けていた。異なる二つの力が暴走したせいなのは明らかだった 観咲と弓月が交代で夜の番をすることになっていた。仕事を終えた後に桜屋敷に訪れ夜を過ごし、朝事務所へ向かうという生活がもう二年も続いている。
だが最近では観咲は寄りつくことがなく、弓月が毎日通っていた。
美夜は食事を摂取することがなかったが、痩せることもなく成長していた。髪も伸びている。桜の気のお陰だろう、と涼が推測している。
『美冴夜…朝ですよ…』
『美夜、起きなさい』
ぴくん、と美夜の瞼が痙攣した。二人の母の声が呼んでいる。
起きなくちゃ…。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。目が暗闇に慣れるまで数度まばたく。
なんだか…とても長いこと眠っていたような気がする…。
ふと、手を包むぬくもりに気づき驚く。
「か…」
風車先生、と言いかけて慌てて呑み込む。 一体どういうことなんだろう。ここは確かに私の部屋だけれど…
そっと上半身を起こし、一番新しい記憶を探る。
そう…あの水の檻に閉じ込められて…気がつくとどこかの庭だった。そして…指輪を…
胸が、苦しくなった。指輪によって思い出された記憶が鮮明に脳裏に浮かぶ。
私は義母さんに攫われた…。義母さんは私の髪を染め、パーマをかけ、目にはコンタクトをはめさせて美冴夜であるという特長を覆い隠した。さらに木の道を通り、遠い北の果てへと連れていき、そこで私をみつけたフリをした。たとえ父さんの捜索願いがきても、心中した偽の家族に置いていかれたことになっている私は、その捜索願いに引っかかることはなかった。
『お前を駒のように扱った女だぞ』
涼の言葉が突き刺さる。
『お前を愛してなどいなかった!』
静かに涙が落ちる。
「義母さん…」
押し殺した嗚咽が、満月が覗く室内に低く響いた。
もともと眠りが浅い弓月は、目が覚めてしまったことなどいつものことだった。再び眠りに落ちることができるほどの眠気はある。それに、手の中のほっそりとした手はぬくもりがある。眠れる。
そうして再び目を閉じた。そのほんの数秒の中で夢を見た。誰かが泣いている夢。小刻みに身体を震わせながら、押し殺した声で泣いている夢。
夢…? 違う、夢じゃない!
がばっと飛び起きる。
目が覚めたのか、と言いかけて凍りついた 泣いている理由を思い出したからだ。
このひとの時は…あの時から止まったままなのか。
指輪を手に取り、全てを知ったあの時から
「あの方は、貴女を愛していますよ」
驚いたように見返され、弓月はひるんだ。 なにかの衝動に押し流されそうになる。目をそらせば大丈夫なのだろうが、ここでそらしてしまう訳にはいかない。
このひとに教えなくてはならない。二人の母親がなにをしたのかを…。
「この掌を見なさい」
今まで握っていた美夜の手を広げて見せる 美夜が息を呑んだことを確かめ言を継ぐ。
「貴女の母上が、桜の力が暴走しないようにとここに宿っているんです。継承することのみが目的なら、ここまでしません」




