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「お兄様…」
桜の花びらが降りしきる中、ほっそりとした手が観咲をつかんだ。
「み…さや? いや、桜屋敷…、目が覚めたのか? どこか…怪我は…」
なんだろう、なにかが変だ…頭がぼぅっとする。
「お兄様? 変なお兄様。寝ぼけていらっしゃいますの? 私は桜屋敷なんて名前ではありませんわ。火祭美冴夜です」
くすくすと笑いながら、腕をからめてくるその娘は、確かに観咲の妹だった。
「そ…うだったな…」
俺は一体どうしちまったんだろう。
「お兄様ったら、お仕事のし過ぎで疲れていらっしゃるんだわ。今日は美冴夜の相手をして。お仕事はお休み。ね、いいでしょう?」
「ああ…、お前の頼みなら…」
考えることがひどく億劫になる。なにかが変だ。だがどうでもいい…そんなことは…。
桜の花びらに見蕩れていると、不意に誰かが抱きついてきた。柔らかな身体だ。
驚いて見下ろすと、見上げてきた少女と目が合った。
「美夜…さん?」
微笑み、美夜は弓月の胸に顔を埋める。
「気がついたのですか…? どこか、怪我でも?」
鼓動が速まるのを悟られたくなくて、身体を離そうとする。
「離さないで…」
かすれた声が聞こえた途端、弓月は身動きが取れなくなる。
「抱き締めて」
言われるままに、腕を回す。
そうだ…俺はずっと、この娘に触れたかったんだ。
『桜の力に惑わされてはなりません!』
女の声が轟いた。途端、抱きついていた美夜が、腕を絡めていた美夜が、抱擁していた美夜が、消える。
『暴走する桜は、ひとの心の奥にある欲望を映し出します。惑わされてはなりません』
桜の花びらはいつの間にか消えていた。足下に積もっていたはずの花びらもない。
呆然とする三人を、横たわる美夜のかたわらに立つ女が見つめていた。
「桜屋敷…美枝…」
呆然としたまま、涼が呟いた。
美枝の隣にはもうひとり女が立っていた。 それを見て観咲は我に返る。
「母さん」
そこには、美夜の実の母親と義理の母親が立っていた。いずれもすでに他界しているはずの者。
二人はにっこりと笑うと、それぞれ美夜の片手ずつへと吸い込まれるようにして消えていった。
観咲は追うようにして美夜の掌を覗き込む 右手のひらには小さな黄色い石が、左手のひらには薄紅色の花びらが埋め込まれていた
「母さん…」
ただわかったのは、もう美夜は狂わないだろうということだった。




