19
美夜の予感通り、白い手は洗面台の縁をつかみ白い少年が身体を持ち上げるようにして現れた。
「!」
洗面台に腰かけた少年は無言で美夜を見下ろす。その視線は美夜の右手首に注がれていた。
美夜は息をひそめつつ少年から視線を外さぬまま出口へ向かおうとした。その瞬間、少年は美夜の方へと動いた。
「いらぬ物を身につけるな」
美夜に触れようと手を伸ばした少年は、触れる寸前に弾き飛ばされた。
「!」
少年の顔には驚愕の色が浮かんでいた。
床に叩きつけられた少年の身体が崩れ出す 蝋が炎で炙られたかのようにどろり、と熔けていく。
「ば・かなぁこぉぉおれえわあああああ」
少年の声はねじ曲がり、狂った音を奏でつつ美夜に届いた。
その異常さに美夜は気が遠くなる。けれど少年から目をそらすこともできず、気を失うこともできず、膨張した恐怖の念は、悲鳴という形で発散された。
足音高く駆けつけた弓月が見たものは、顔色を失った美夜が座り込み、床にこぼれた水を凝視しているところだった。
ざーざー、とうるさく流れる水を蛇口をひねり止める。
「一体どうなさったんです?」
そっと抱き起こすが、震える形のいい唇は言葉を紡ぐことができない。
「そうか…風車がいるということは火祭もいるのだな。あの紐護は炎の色をまとっていた…危ういところだった…」
不意にあがる声に美夜の身体が恐怖にこわばるのを感じ、原因はこの声の主だと悟る。
「誰です」
美夜を腕に抱きかかえ、庇うように壁際による。そして顔だけ声の方へと振り向いた。
「風車の者、お前になど用はない。だがお前が火祭のそばにいるとあいつらの力が強まるんだ」
床の水たまりから現れた白い少年の言葉に弓月は息を呑む。
「なぜそれを…」
「知ってるよ。…あの女も知ってたさ。だから僕ではなくその女を選んだんだ」
忌々《いまいま》しげに呟き、弓月に抱かれた美夜を見た。
この少年は、桜屋敷美枝がやったことを知っている!
「君は一体何者なんです」
「僕?」
くつくつ、と笑い弓月を嘲る。
「無知で馬鹿なその女は知らなくて当然だけど、お前が知らないはずはないけどな」
ギ・ギュ! 蛇口がひとりでにひねられ水が勢いよく流れ出す。
はっとして弓月は少年を見た。
「そう。僕は水泉寺だよ。お前、殺してやろうか。僕はねぇ、前々から風車は根絶やしにすべきだと思ってたんだ。なにしろあいつらの力を強めてしまうんだからね」
水泉寺と名のる少年は酷薄な笑みを浮かべ弓月を見返す。
「身体中の水を蒸発させてやろうか。それとも肺に水を流し込んでやろうか。おっと、君の得意なカマイタチで僕が切り殺される方が早いかなぁ」
笑みを浮かべたまま、恐ろしい言葉を平然と口にする。
「実体ではないのでしょう?」
「あたりまえだろ。お前達には真似できない術さ。その女に干渉することによって僕の力は多少強まったはずなんだ。お前で試してやろう」
「遠慮します」
言い切るなり弓月は美夜を出口から押し出す。そして水泉寺少年を振り返るなり両手を振り上げ空を裂いた。
カマイタチが生まれる。風の刃が水泉寺少年に襲いかかる。
少年の姿は笑みを浮かべたまま弾け飛ぶ。
姿は崩れ、水となり床に叩きつけられた。
「美夜さん、今のうちに…ぅ…!」
逃げるように促す弓月は突然うずくまった
「干からびて死ぬがいい」
水泉寺少年の冷めた声が響く。
それまで呆けていた美夜は弓月の呷き声によりようやく現実に戻る事ができた。
「どうしてこんなことを!」
笑いながら水面に立つ水泉寺少年に食いかかる。
少年の姿が、再びカマイタチによって吹き飛んだ。
「はや…く、逃げ……」
弓月の警告が届く。けれど美夜は弓月を置いて逃げることなどできなかった。
「やめて! 出てお行きなさい!」
水たまりから生えてきた白い腕は、とろりと溶け水となり、ゆるい波紋を残して消えた それを見届けた弓月は、ほ、と息をつき膝をつく。
「先生!」
弓月へ駆け寄る美夜。
その頃になってようやく、駆けてくる足音が聞こえてきた。
「どうした!何が...弓月!」
悲鳴を聞きつけた観咲が駆けつけた時、弓月はすでに意識を手放していた。
水泉寺少年の頬に、「悪」といたずら書きしたい。




