少女炎上1
母の主治医が、母の腕を持ちながら沈黙し続ける。
美夜はもう片方の手を握り母の顔を見つめる。
母は、ゆるゆると主治医から手を離し胸元から下げていたお守り袋を差し出した。
「…私に?」
「……な…かの…ものを…」
美夜は頷きお守り袋の小さな口に指を差し入れる。金属の鎖が指に触れた。それを引き出す。
ネックレスのようだった。銀の鎖が小さな指輪に通されている。
「これは…?」
母は答えず美夜を見つめた。その潤む瞳に美夜は別れを知る。
母の手を強く握る。
「…愛してるわ…私の、娘…」
美夜は奥歯を強く噛み締める。目の前の命に消えないでくれと叫びたかった。たったひとり、残していかないで、と。
あいしてる、と声のない呟きを最後に母の目から光が去った。
脈を取っていた手を離し、腕時計を見ながら主治医は臨終を告げた。
瞬間、美夜を闇が襲った。
心が引き裂かれた。
悲しみによるのか、衝撃によるのかは分からなかったが、確かに心は引き裂かれた。
ざあ…
慰めるかのように、木々がざわめく。
いつもはあの悲しい夢を誘うのに、皮肉なものだ、と思いつつもわずかに心が落ち着いた。
硬質なものが手の中にあるのに気づき、熱を持った瞼を持ち上げた。
夕暮れ時。主治医が運んでくれたのだろうか、美夜は自室のベットに横たわっていた。 美夜は身を起こさないまま手の中のものをつまんだ。
鎖と指輪だった。
指輪はとても小さい。ベビーリングらしい夕暮れ時の陽に、深い黄色の石が反射した。
「トパーズ…」
たしかそんな名だった。
母のものだろうか。
上半身を起こし首につけてみたが鎖が短く不格好になる。
鎖を手持ちのものと変えた。
そっと胸を押える。
母さん…。
桜に埋もれた広い屋敷に、少女はたったひとりとなってしまった。
日の暮れた夜道を男がひとり、歩を進めていた。
彼は名を風車弓月という。風雅な名にふさわしく容貌に華がある。街灯に照らされ時折現れる姿は痩身であったが動きがしなやかだ おそらくその腹部にはあばら骨ではなくひきしまった筋肉があるのだろう。
一見女性的ではあったが、その眼はそれを否定していた。
すべてを切り裂きつくすような鋭い眼光。
そっと触れたならその指先を切り落とされるのではないかと錯覚してしまう。
ただ間抜けなことに、弓月の両腕にはコンビニの買い物袋がぶら下がっていた。
「観咲め…車を傷物にした上に骨折するなんて…」
なにやらぼやいている。眼光が鋭いのは不機嫌なせいらしかった。
不意に、弓月は眼光をさらに鋭くして立ち止まる。そっと背後を振り返った。
バ・バチ!バチバチ!
頭上の街灯が不自然な消え方をする。道路を闇が覆った。
ここはオフィス街なのでこの時間は明かりが乏しい。そして人気もない。
ふわり、と弓月の長いくせ毛を風が撫でた
「…いやに哀しい風だ…」
闇の中、静かに呟くが目は鋭く前方を見据えている。なにかの気配をとらえていた。
弓月の視界の中でゆらぐ人影があった。それは弓月へと近づいてくる。
「…女の子?」
だがひとでないことはわかっていた。
現れた少女のスカートは水槽の中の藻のようにやわらかにそよぐ。そしてその長い髪もまた。
その顔を目でとらえ、弓月の目から鋭さが消えた。
少女は泣いていた。声を出すこともなくただ静かに、遠くを見つめたまま。透明な涙で頬を濡らしていた。
なんて奇麗に泣くんだろう、と弓月は見入ったまま思った。
「なぜ泣く?」
間近に迫った少女に弓月は問う。
けれど少女には届かない。
その声を聞いてみたいと思っていた。
「君…」
さらに問おうとした口が凍った。
小さな炎が現れたのだ。それは少女の艶やかな黒髪の先端に灯る。
驚く間もなく、その足に、服に、指先に…炎は容赦なく少女に灯る。
ただ無音だということが恐怖を誘った。
弓月が動けないでいるあいだに少女は炎に包まれ、消えた。
しばらくの間、弓月はその場を動くことができなかった。