18
「なぜ…美冴夜がこんな目に合わなきゃならない…」
自問自答。
桜屋敷 美枝のせいだ。
「すべての元凶であるあの女…まったく周到なこった。美冴夜はあの女を憎めない。孤児である自分を育ててくれた母親だと、十四年もかけて洗脳されたんだからな…」
だん! 拳を膝に打ちつけた。
完敗。
血の繋がりは、切り札にさえなり得ない。
桜屋敷の庭に佇む観咲は、血のにじむ手のひらから桜へ目を移す。
「俺は、必ず、妹を家へ連れ帰る」
ざああ、と花びらが観咲に降り注ぐ。
桜の涙のようだった。
ゆるしてくれ、と、哀願しているようだった。
頬を拭われて、はじめて自分が泣いていることに気づいた。
はっとして身を引く。
弓月は美夜の泣き顔を見返し、困ったように小さく笑った。
腰を抜かした美夜を屋敷に運んだのはいいものの、泣きやまないので困っていたらしい
「ご…ごめんなさい…、今お茶をお出ししますね」
美夜自身もなぜ悲しいのかよくわからない 母さんが死んでしまった時のような悲しみが溢れてきて、どうしようもないのだ。
慌てて立ち上がり、台所へ向かう。
それを見送りつつ、弓月も立ち上がる。
美夜の後を追うように台所へ向かい、そっと覗いて顔を戻す。台所の入口横に立ち尽くし頭を抱えた。
泣いてる…。
台所で美夜は密かに泣いていた。
困った。
なぜ泣くのか原因がわかるなら慰めることもできる。しかし本人さえわからないものを弓月にわかることができるはずもない。
どうすればいいんだ!
泣き顔は苦手だった。他の女の泣き顔など見た事がないので、よけいにかもしれなかったが、美夜の泣き顔はとにかく苦手だった。
心がざわついて、いてもたってもいられなくなる。
落ち着きなくポケットを探り煙草を求める。
ない…。そうだ、観咲が持っていったんだ…
ここのところ、煙草を欲するほど心が落ち着かないことがあった。
そんな時はたいていひとつのことを思い浮かべていた。
炎に包まれた少女。
その泣き顔。…涙。
それを思い出す度、胸がざわめく。
どうしようもない、なにか激しい衝動が心の奥で動き出す。
『桜屋敷に惚れて…』
観咲の言葉が、不意に浮かんだ。
まさか…な。
悲しみは波のように後から後から襲いかかってくる。
震える膝で立ち続ける。部屋へ駆け戻り泣き伏したい衝動を必死で押えていた。
先生がいらしているんだから…お茶をお出ししないと…
そう自分に言い聞かせる。
涙を流そうと、逝かないでと叫ぼうと、置いていかないでと懇願しようと、母さんは戻らない。その現実を、心のどこかで悟りかけていたせいかもしれなかった。
それでも母さんを失った悲しみは引くことはなく、美夜は涙を流したままポットに手を伸ばした。
銀色のポットの表面に映るものに気づき、手を止める。
美夜の位置からは死角になり見えない場所が映っていた。台所の入口横。そこに立つ者の姿。
物言わずただ静かに佇む姿。
自然と微笑みが浮かんだ。悲しみを誘う波が音なく引いていく。
瞳はいまだ濡れていたが、そう遅くないうちに乾くだろうとわかる。
驚きのためか、鼓動が早かった。
ひとに触れることを学べ、と母さんは言った。ひとに触れるのは恐い。けれどこうして時折すばらしいことに触れることができる。
今、美夜は優しさに触れていた。
「遅くなってしまってごめんなさい」
お茶を出す美夜を弓月はそっと盗み見する 赤い目。火照った頬。
ぐ、と心が締めつけられた。
『なぜ美冴夜がこんな目に合わなきゃならない』
なぜこの少女がこんなに心を痛めなければならない…。
観咲の言葉とダブりつつ、そう強く思った 痛ましげな弓月の視線に気づき、美夜は顔を背ける。こんな顔を見られたくなかった。
「顔を…洗ってきますね」
そのまま立ち上がり洗面所へ向かった。
冷たい水で顔を洗いタオルを水に浸そうと顔を上げた時だった。
キュ、と蛇口をひねる音がした。
美夜はひねっていない。だからいぶかしげに蛇口を見下ろす。
聴覚が集中した。鼓動が大きく鳴っている
キ・キュ!
美夜が見下ろす先で、蛇口がひとりでに動いた。
ザザッ、と水が勢いよく流れ出す。
驚愕に目を見開いたまま、美夜はひゅ、と息を呑んだ。蛇口から目をそらさずに壁際まで下がる。
白い指先が、洗面台に渦を巻く水の中から現れた。
あの…少年…
キィワードは水、そして白い指。それらの表す者はたったひとりの少年だ。
アルビノの少年。




