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考察・批評・信仰

掲載日:2026/02/20

 先日、ジュンク堂に行った際に、この先あまり手に取る事はないだろう三宅香帆の本が置いてあったので、手にとってめくってみた。三宅香帆については最近の売れっ子だという事、文学について言及している事、それ以上の知識はない。

 

 「文体のひみつ」という新書が置いてあって、私は少し読んだだけで、悪い意味で感心してしまった。感心したのは、「文体のひみつ」という本は、大学生が綺麗に取ったノートのような感じで、改行が多く、線が引いてあったり、太字になっていたりして、読みやすくできていた事だった。


 私が「悪い意味で」感心したのはそれだけではなく、「文体のひみつ」というタイトルの本なのに、本そのものは「文体」といったものを完全に破壊して、ひたすら読者に読みやすくしているという事だった。まあ、大学生のノート風の書き方も「文体」の一種だと言われれば、そうかもしれないが…。


 私は三宅香帆という人はそもそも文学をやる人ではないと思っている。というより、最近の哲学者とか、文学に携わっている人の多くはそもそも文学にも哲学にも関係のない人だという印象を持っている。


 私はある時期から、文学をやる人達の層が入れ替わったのではないかと考えている。ざっくり言うと、文学というのは社会の中の「陰キャ」がやるものだったが、今では「陽キャ」がやるようになっている。


 文学とか哲学が高学歴で、概念による整理能力は高いものの、昔の作家や哲学者が持っていた暗い情念を全然持っていない人達がやるようなものになっている。私はそう感じている。


 それでは、かつては文学をやっていたであろう「暗い情念を持つ人々」はどこへ行ったのだろう。この社会から消えてしまったのだろうか?


 私は、消えたわけではないと思う。ただ、そうした人達はこの社会で本当に居場所がなくなって、犯罪者になったり、自◯したり、あるいはせいぜいアマチュアで人知れず何かを書いたり、創作しているのではないか。

 

 これらの層の入れ替わりそのものは時代的なものなので仕方ないとはいえ、どこか隔世の感がある。例えば戦後文学の武田泰淳や竹内好などのねちっこい、暗いものがかつての文学の通底にあったとするなら、今はツルツルした美肌の青年や綺麗な女性が「文学」をしている。いい時代になったのではないか。

 

 ※

 三宅香帆という人は「考察する若者たち」という本を書いている。その中で考察と批評の違いについて述べている。三宅香帆によると考察とは「作者が提示する謎を解く事」であり批評とは「作者も把握していない謎を解く事」らしい。

 

 もう少し説明すると、考察には「正解がある」が、批評には「正解がない」らしい。また、考察には「語り手の個性が必要ない」が、批評には「語り手の考察が必要」らしい。

 (年間読書人さんの記事を参考にさせてもらった

  [https://note.com/nenkandokusyojin/n/n3e2a109659c0)](https://note.com/nenkandokusyojin/n/n3e2a109659c0%EF%BC%89)

 

 こういう答えを聞いても(はあそうですか)という感じしかしないが、(こういう事を言う人はちゃんとした批評を読んだ事がないのだな)と私は思ってしまう。また、ネットでよく「批評なんていらない」という人もいるが、そういう人も優れた批評を読んだ事がないのだな、と思う。

 

 当たり前だが批評もピンからキリまであって、優れた批評を難しい本を読むのが苦手な人がいきなり理解するのは難しい。しかしそういう人が批評なるものを一気に否定する、というのはネットでよくみかける光景だ。

 

 三宅香帆に関しては話のきっかけにするぐらいのつもりだったので、ここからはもう少し深い問題について考えていく。

 

 最近、鹿島健氏のユーチューブを面白く拝聴しているが、鹿島氏がラ・ボエシの「自発的隷従論」を取り扱った回で非常に面白い事を言っていた。ラ・ボエシは近代初期のフランスの文人だ。

 

 鹿島氏はまずラ・ボエシの論理というのは、キリスト教の神を本気で信じていたら出てこない言説ではないかと言っていた。というのは、神という権威が最初にあると「人間の自由」というものを起点とした論考は出てきにくいからだ。

 

 ラ・ボエシはモンテーニュの親友だったらしい。モンテーニュといえば「エセー」で有名だが、これは今の「エッセイ」の原型となっている。

 

 便宜上、この文章上で私は、「批評」というものの原型はモンテーニュの「エセー」だと考えてみたい。

 

 この場合、モンテーニュに関してもラ・ボエシと同じような事が言えるのではないかと私は鹿島氏の話を聞いて考えた。

 

 というのは、モンテーニュの「エセー」は彼自身の思考を綴ったものだが、この際、彼が神という権威、キリスト教という権威ありきで彼自身の思考を綴っているのであれば、彼の自己意識や理性が既存の権威の支配下に置かれたものとなってしまう。

 

 しかし「エセー」はエッセイの原型になったように、あくまでもモンテーニュという一個の個性がいかに様々なものについて考えたのかを綴った文章である。

 

 この場合、世界を測る基準であるのはモンテーニュという一人の男の自意識である。おそらく、批評の原型とはここにあるのだろう。

 

 鹿島氏は動画の後半では昨今の「推し文化」について述べている。推し文化は、今の日本社会のようにあらゆるコミュニティが弱っている状況において、それこそ自発的に隷従しようとする、そうした運動ではないかと語っている。

 

 今の日本では自分というものを帰属させるコミュニティというのが極めて希薄になっている。それ故に若者はその事に対する不安を感じ、そこから「推し」という偶像を絶対化し、自分をその「信者」と規定しようとする事で安心しようとする。

 

 これは大衆が自己という孤立した存在に耐えられず、「自己に由る」の「自由」を投げ捨て、安心できる価値観を作り出そうとする運動として考えられる。

 

 こうした運動が主流になりつつある時に、「批評」のような自己意識に根拠を置く論理よりも、「考察」のような、作品を批判したりせずに、「推し」を深掘りして、信者を面白がらせる論考が主流となるのは流れとしては自然なものとして考えられる。鹿島氏は概ね、そういう事を言っておられた。

 

 ※

 今述べた事についてもう少し整理してみよう。

 

 批評というのは、あらゆる権威に依らず、世界を自己の認識・知性で再構成する事である。ただこの場合、ただ主体(自己)の主観的な意見を述べたところで、夜郎自大な独り言となってしまう。


 だから、これを客観的なものにする為に、主体は自らの中に深い教養を持たなければならない。批評に教養が必要なのは、自己の主観性を人々のものへと架橋する為に、過去のデータベースが媒体とされなければならないからだ。

 

 一方で考察とは、考察される対象を決して傷つけない。考察は批判しない。

 

 鹿島氏の言っていた事で印象的だったのは「キリスト教徒はキリストを批評しない」という事だった。

 

 考察は、考察される対象を相対化しない。ドラゴンクエストというゲームを考察する人間は「ドラクエ最高!」という価値観ありきで、その内部についてあれこれと論じていく。私は三宅香帆の言うように、正解があるかどうかはそれほど問題ではないと思う。

 

 それ以上に重要なのは、考察は既存の権威ありきで思考がスタートするのに対して、批評は自己というものを起点として思考がスタートするという事だ。

 

 批評は神という権威が薄れた近代に現れてきたものだと考えると、現代は近代以前に昔帰りしているとも考えられる。自己というものを起点とした批評が否定され、既存の価値体系の絶対化、そこへの帰依から始まる考察が好まれるというのは、キリスト教社会において、キリスト教は正しいという前提の元で、神学の細かな発達のような、無限の深掘りが行われるのにやや似ている。こうした深掘りがいくら行われたとしても、前提となっている教義を覆すような事は決して起こらない。

 

 ここまで書いていると、私が考察を否定して、批評を称賛していると思われるだろう。確かにそれはある程度はそうだ。

 

 ただ、今、プロの優れた批評家というものはほとんどいないという印象を持っているので、考察と批評を峻別する必要もあまり感じていない。三宅香帆が「文芸評論家」を名乗ろうが「サブカル専門ライター」を名乗ろうが、どっちでもいいという感じに近い。

 

 しかし、私はここからは、批評というものはそもそもどのような可能性を持っているのか、どのような限界を持っているのかについて考えてみたい。これについては今一番考えているポイントなので、私としては触れないわけにはいかない。

 

 ※

 批評というのあくまでも自己、主体の自意識を起点に世界について論じていく、そういう場だと私は言った。この場合の問題点は、批評家が自己の意識を絶対化するという事にある。

 

 あらゆる権威を認めない批評家が、自己というものを代わりに絶対化するというのは仕方ない事である。どのような人間も「絶対」というものを一切持つ事なく、何かを論じる事は不可能である。

 

 自己、主体というものを起点にして、更には個人の好悪を排して、できる限り客観的に、世界のあれこれについて論じていく事、ここに批評の誠実さがある。そしてその為には、知的な練磨が必要とされる。

 

 しかし批評家のこの創造行為には限界があるのではないか。日本において「批評の神様」と呼ばれる小林秀雄はこれに気づいていた。

 

 小林秀雄はパスカルとモンテーニュを比較して、モンテーニュは自らの自意識を大切にするが、パスカルはそうではない、という事を述べている。私はこの意見は、小林秀雄自身が自分の批評意識の限界を知っていた事だと捉えている。

 

 どういう事かと言うと、モンテーニュという人は「エセー」という長大な文章を残している。モンテーニュが長大な文章をやすやすと残す事ができるのは、彼が世界を観照する自己意識については疑う事をしなかったからだ。

 

 これを単純に考えると、モンテーニュは世界を映し出す自分のカメラそのものについては、疑ったり、それを否定したり、壊したりはしなかった、という事である。自己意識は世界を映し出し、世界について言及する。

 

 意識は世界を吟味し、世界を解剖する。だが、意識は意識そのものを解剖しない。カメラはカメラそのものを映し出さない。ここにモンテーニュの安定性があった。

 

 パスカルにおいてはそうではない。モンテーニュと比べると、パスカルは苦渋に満ちた断章しか残す事ができなかった。だが、小林はモンテーニュよりもパスカルの方が面白いと感じている。私も同じように感じる。

 

 パスカルは、最後にはキリスト教に服し、キリスト教の正当性を延々と綴った人物である。もともとパスカルはキリスト教に全面的に服していたわけではなかったが、教養人としての自己を高める方向性に限界を感じて、キリスト教に回帰する立場を取った。

 

 パスカルの鋭い断章からは、彼の知性が世界を鋭利に切り刻んでいくのが感じられる。それでは、と私は考える。パスカルのよく切れる知性は、知性そのものを切りさいなみはしなかっただろうか? これはよく切れるナイフによって、ナイフそのものを切ろうとする不可能に近い。

 

 まさしくパスカルの行った事はそのような事だ。彼は、知性によって自らの知性を切り刻んでいった。そしてそこに何も残らない虚無を発見した時、彼は自分の知性という恐ろしくよく切れるナイフを放擲して、決して切れないはずの超越的な存在であるキリストという「絶対」を自らの内に招き入れたのだった。

 

 実際にパスカルがキリスト教を心から信じたかどうかはわからないが、パスカルがよく切れるナイフで、キリスト教だけを切らないようにして、キリスト教を擁護しようとする時、そこには痛ましいものが存在している。

 

 パスカルが自己の知性という絶対を起点に世界を切り刻む事を諦めた事、それは単にパスカル一個人の趣味的な探求ではなく、おおよそ知性というものを武器に世界を切り刻む人間が歩まなければならない一個の運命ではないか、と私は思う。

 

 パスカルによく似た資質としてはキルケゴールとニーチェが思い浮かぶ。もっとも長くなるのでここではここではニーチェだけ言及する事にする。

 

 ニーチェの哲学はそのほとんどが「批評」によって作られていると言っていいほどだ。ニーチェという個人が世界を切り刻むその様が哲学になる。その過程で、切り取りやすい「永劫回帰」や「超人」の概念が現れたとしても、その本質はあくまでも歴史の内に存在した一個人であるニーチェが世界をどのように見て解釈したか、という事に本質がある。

 

 ニーチェは晩年には廃人同様になった。ニーチェが精神を病む寸前に書いた「この人を見よ」にはニーチェの狂気が現れている。ニーチェはそこで自画自賛をしている。おそらくはそれまで封印していた自賛が現れてしまっている。

 

 ニーチェが世界を観照する時、自己の変幻する意識を絶対化していた。この意識が安定している時には、意識そのものは問題とはならなかった。「超人」はあくまでも外部概念として現れる。わかりやすく言ってしまえば、ニーチェ本人が「超人」である時には、ニーチェは超人概念を自分の外側に置く事ができた。自分が絶対者である時には、絶対的なものは外部に哲学的概念として置く事ができた。

 

 しかし、ニーチェ自身が肉体的・精神的に崩壊してきた時、ニーチェは超人とは自らの事であると種明かしをせざるを得なかった。彼にとって、自らが超人としての絶対性を失い、精神が脆さを見せだすと、世界を観照する自己意識そのものを自己が称賛しなければならなくなった。破綻した自己意識の絶対性を、自画自賛という形で行わなければならなかった。これは批評の崩壊として考えられる。

 

 ニーチェが妄想の中に生きた時、彼の行う批評は他人にはわからないものとなった。しかし、批評は彼の自意識の中で続いていたと考える事もできる。ただそれは他人には理解不可能な形になった。

 

 ニーチェは、自らの意識によって世界を観照したが、自らの意識そのものを切り刻まなかった。これについてはモンテーニュと同じである。ただ、彼はモンテーニュのような安定した肉体を持たず、それ故に、自己意識の崩壊という劇を演じる事になった。

 

 この自己意識の崩壊という劇は、ニーチェの批評の枠組みの中には入らない。それは、枠組みそのものの崩壊だからだ。

 

 パスカルやキルケゴールはこうした自己意識の崩壊、完全なる批評というものがいずれは壊れていくのを予見していたからこそ、決して批評不可能な絶対者であり"キリスト"という存在を自らの批評の先に置いたのかもしれない。


 こうする事によって、自らの批評の崩壊の後の世界の存在が信じられる。自己の批評の外側にも何かがある事が信じられる。これは哲学的には独我論の外部を認めるという事になる。信仰を持つとは、自我を超えるものを信じる事だろう。


 パスカルとキルケゴールは批評の崩壊の後にキリストという絶対者を置いた。それで彼らが救われたかどうかはわからないが、彼らはそうした道を進んだ。とにかくも。

 

 ※

 これまで述べてきた事は、批評というものがどのような運命を辿るのかという航路のようなものだと考える事ができる。

 

 私はこの文章の前半では、「批評>考察」という価値観を持ち出した。これに関して、私の考えは変わらない。最初から権威ありきでなされる考察よりも、自己を起点に行われる批評の方が優れていると考える。

 

 しかし話はそれだけで終わらない。優れた批評は、最後には自らの批評意識そのものをも批評しなければならない。あらゆるものを知性によって切り刻み、解剖した結果として、最後には自らの知性のナイフだけが残されたとしても、今度はそのナイフによってナイフそのものを解剖するしかない。世界を切り刻む自己意識は最後に自らを破砕しなければならない。

 

 こうして一種の欠如、空無が生まれるが、この空無にパスカルのような優れた思想家は神という古い絶対者を充填しようとした。

 

 こうなると、一周まわって、キリスト教の正当化に費やされるパスカルの批評と、ドラゴンクエストの信者がドラゴンクエストの価値を疑わないという前提の元になされる"考察"と、形式上は似ているという事になってしまう。

 

 どちらも既存の権威ありきの言説であるという意味において、両者は似ている。

 

 しかしこの二つは辿ってきた道が違う。"考察"は懐疑をくぐり抜ける事なく信仰に至り、パスカルの方は懐疑をくぐり抜けて信仰へと至る。両者はスタート地点とゴール地点でぐるりとまわって近い場所にいるように見えるが、歩いてきた道筋が違う。

 

 この違いは、単に概念の類似性という事ではわからない差異であるように思う。表面的に似ているからと言って、恣意的に異なっているものを結びつける批評を私は好まない。

 

 さて、私はこの文章で、何かわかりやすい結論を導き出す気はない。ただ私なりに現代の"考察"と"批評"について考えてみたかっだけだ。

 

 そういうわけで、私は、考察というものと、批評をくぐり抜けた考察に似た言論パスカルとキルケゴールのようなには大きな違いがあるのではないかと思う。


 もっとも、パスカルやキルケゴールに対してもう一度、理性の立場から懐疑をぶつけていくのは、知性というものが当然すべき事の一つでもあるので、そういう事は当然為されるべきだろう。


 そのような行為はおそらく、また新たな"批評"を生む事にはなるだろうが、とはいえ、それが最後まで批評としてうまく臨終を迎えられるかどうかは決まっていない。


 そうした批評もやはりよく切れる自己意識という「絶対」を抱えているという批評の本質は変わらないからだ。批評は自らの「背中」を見る事ができない。


 批評は見るものすべてを自らの意識に取り込み、あらゆるものを自らの意識を構成する一事物と化すのだが、自己意識そのものが世界にとって何であるか、それを批評が語る事は原理的にできない。それを語ろうとすると、今度はそのような言説そのものが批評ー自己意識を構成する一対象物となってしまう。


 批評は自己意識という限界を伴っている。批評というものの限界を超えるのは自らの自己意識を越えるものを信じるという知的操作しかないのだが、自己意識の外側にあるものを信じる事は理性に反する為、健全な知識人はこの道を進まない。


 おそらくこの事態については人々の意見は分かれるだろうし、また別れて当然だろうと思う。私自身も確たる答えを持ってはいないが、私としてはこの文章では、批評と考察の違いについて考えてみたかっただけである。そしてそのついでとして批評の先にあるものについても、文章として触れないわけにはいかなかった。



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― 新着の感想 ―
 う~ん、難しい。  とはいえ私にも解ることはいくつか。  事象の観測から懐疑が生まれ、懐疑から考察が生まれる。但し考察には比較が必要でありその一時的結果として批評が生まれる。そしてそれが嫌われるのは…
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