嫌も嫌もよ
「あれ、すごくびっくりするから止めてくれ…」
「へ?」
養護教諭が居なくなってやっと、清水は数週間あっためた言葉を口にした。あれからずっと機会を伺っていたが、神谷は来ないし、来ても養護教諭が居て2人きりになれず、結果今になってしまったのだ。自分の血を飲ませてくるな、とさすがに直接的なことは言えなかった。
しかし、当の本人、神谷は惚けたような間抜けな返事をした。
「…覚えてないのか?」
「え、ごめんなんのこと?」
「うっそだろ…」
本当に覚えてないらしい。
「…ほら、その…俺に、血を吸わせてきただろ、前…」
「?」
「自分で指切って、突っ込んできたやつ…」
「ああ、あれ」
しぶしぶ清水が口に出すと、神谷はあっさりと認めた。あまりに軽い口振りに驚く。
「え、清水って直接血飲まないん?」
「ばっかお前、そういうのやったら怒られるに決まってるだろ」
「えー。楽しいのに」
「ああいうのは大人になってからだ。煙草みたいなもの」
「へー……。なら別に良くね?」
「よ、良くないだろ」
「大人はみんな吸ってんだろ?じゃ、お前だけしちゃ駄目とか狡いじゃん。」
「いや、でも……」
「清水はさぁ、あれ、嫌だった?」
「……」
清水の喉が、ゴク、と鳴った。
嫌では、無かった。
本当に嫌なら、良くないことだとなんだの言う前に二度としないで欲しい、止めろと言っている。
「なら、いいじゃん。別に。」
「で、でも……」
「黙ってればいいんだよ。バレなきゃいいんだし。清水も吸血鬼ってバレてないんだろ?」
「それは、そうだけど……」
「あとさ、感想聞きたい。俺の血どうだった?もっかい飲む?」
そう言って、神谷はぐい、と自身のシャツの襟元を引っ張る。惜しげも無く晒された首筋に、清水の目は釘付けになった。
「あ……」
「首からの方が吸血鬼っぽいじゃん。どうよ。」
「う、う……」
「蚊とかはA型の血をよく飲むって言ってたけど清水はどんなんだろーな。」
「ぐるる……」
「ウケる。我慢するくらいなら噛めばいいのに」
耐える清水はちょっと可哀想なくらいだった。
その様子に、神谷は親戚の家で買っている茶色の犬を思い出す。アイツもそうだった。待てと言われると、ヘッヘッと呼吸を荒らげながら一生懸命命令を待つのだ。その間ドックフードを下げたり動かしたりすると悲しそうな目をする。
目の前の清水も、首元を整えると、あからさまにしょげた表情をした。その様子が面白くって、ついついからかってしまう。
「あはは。……んや、嫌ならいーわ。うん、」
まぁでも、イイコちゃんな清水は大人の言いつけを守るのだろう。待てと言ってるのは大人で、いいよといくら神谷が言っても意味が無い。清水は大人のいいよを聞くまで耐えるのだ。
仕組みを理解した途端、なんだか急激につまらなくなった。いくら誘っても清水はいや、と言って、それきり。ここには清水と神谷の、二人しかいないのに。
えっ、なんかウザ。
なんでわざわざ大人とか言われないといけないわけ?
どうでもいいじゃん。誰も見てないんだし。なのにさ……。
「俺、帰るわ」
「えっ」
椅子から立って、困惑する清水をそのままに踵を返す。
あーあ。結局、イイコちゃんの清水なんだろうな。
吸血鬼とかイイコちゃんからめっちゃ離れてるのに、ケチ。1回ぐらいいいじゃん。
神谷はガッカリした気持ちをずるずるダラダラ引き摺って、扉に手をかけた。扉を開けて、蝶番の耳障りな甲高い音がするはずだった。しなかった。代わりにドサッと何かがぶつかる音がした。
とりあえず、神谷はその瞬間、右腕を冷たい感触が襲ったことだけ分かった。
「んグ、」
「え、」
冷たい感触はたぶん指だった。清水のあのなまっしろい指。その後に首元でゴリ、と筋肉が変によじれる感覚。
「うお」
噛まれた、と咄嗟に思った。
痛みは感じなかった。
首には柔らかなもの……多分舌と唇が触れている。噛まれているところ全体が圧迫され、牙が皮膚を貫いて、ず、と啜られると、力が抜けるような脱力感がある。
犬に舐められてるみてぇだ、と率直に思った。
首元は、とにかく口内なんだろう、わずかに熱い清水の舌と口内が触れるのだが、情緒もへったくれもない。懐いた犬が顔を舐めるようにベロベロ舐めているし、なんか一生懸命なんだな、とは感じるのだけれど。神谷は後ろを向いているし、牙が刺さっているようなのであった。牙が抜けてくれないと清水の顔を見れない。
意思疎通するだけなら、この前みたいに口は閉じてないから、神谷が喋ればいいのだが……。
神谷は清水の気が済むまで、これ、なんなんだろうな……と放心していた。
数刻して、清水の牙がようやく神谷の首元から離れた。
血はついてない。よほど綺麗に飲んだようだ。
「ま、不味くはない……」
「え?」
「不味くはないって言ってんの!」
半ばキレ気味に、清水が言う。
主語がないから、言葉の理解に時間がかかった。
「お前が言ったんじゃん……」と清水が言って、やっと、俺の血が不味くは無いらしい、という情報が点と点で繋がる。
それってさ。
もしかして、それ言う為だけに吸った?
わざわざ俺を引き止めて?
どっ下手くそなやり方で?
感想聞きたいって、言ったから?
俺が、帰るって言ったから?
「ふ、」
「なんだよ。感想言えばいいんだろ。あ、あと、他のA型より、はサッパリしてた、と思う……」
「はは、ちが、なんでそうなんの!」
見当違いなのだけれど、神谷をここに留めておきたい意図が伝わったのでまた笑った。
「え、これ俺のために吸ってくれた感じ?」
「あ〜〜……」
「言えよ。逃げんなって」
今度は神谷が詰め寄る。一瞬にして形勢逆転してしまった。2人の今までを考えると、清水が好きにしていた時間の方が短いのだが。
「そ、そうです……はい……」
「なんで敬語なってんの」
壁に追い込まれて観念した清水はしどろもどろに答える。
「だって、恥ずいじゃん」
答えた清水は指先まで真っ赤だった。
その情報とあの涼し気な清水の細くて華奢になった声は暴力的で、カッ、と神谷の全身の血が沸騰した。
「は?かわ……」
とりあえずアレしたい。前やったやつ。
思考が思考になるよりも先に、神谷は体が動いた。けれど清水の手によって阻まれてしまう。
「……なんだよ」
「ちかいから」
「近くない!」
「近い!」
ぎゃあぎゃあ言い合って、2人とも疲れからか、帰るまで無言だった。




