第9話「勇者の夜戦、在庫の朝」
夜は、呼吸を潜めた獣のように外壁の下でうずくまっていた。
月は薄く、雲は早い。外壁の上には灯の列が伸び、弓弦の油の匂い、干し革の匂い、火薬草の匂いが重なる。
閲覧台の白布は夜間用に反転し、倉の半透明パネルは光を落として消費曲線だけを浮かべている。
「来るぞ」
見張りの低い声と同時に、草原の向こうで黒い影が波打った。
犬型、甲殻、背丈の低い群れに混じって、節目の光を吸う巨大な塊。
外壁上の人心に緊張が走る。だが、今夜の前列に立つのは――勇者だ。
金の髪は暗い空でも光を持ち、彼の背に下がる剣は月明かりを飲んで青白く輝く。
「俺が押す。お前らは続け」
声がよく通る。響きに“勝つ”の形がはっきり乗っていて、列の肩が一段上がる。
――いい。押せ。
俺は《倉庫》の供給線を北西の階段口へ合わせた。
勇者が前に一歩、踏む。
剣に光が集まり、光刃が夜を切り裂く。
轟く。
外壁の上から、喝采が起きた。
光刃は三体を薙ぎ、四体目を押し戻し、群れの先端を約一息ぶんびびらせる。
「すげえ……」
誰かの呟きが風に乗る。
弓列の矢は勇者の光の余韻に引っ張られるように伸び、命中音は増えた。
いい流れ――最初の三分は。
《倉庫:消費曲線》
《矢(蔦布羽):投射数→計画比+18%》
《包帯キット:使用申請→計画比+27%》
《携行食:前線摂取→計画比+35%》
《携行火瓶:投下→計画比+22%(連鎖炎上の兆候)》
――伸びすぎる。
光の勢いは、撃てる者に撃たせる。撃てない者にも撃たせる。
矢筒の底は浅くなる。包帯の白は早く赤に変わる。火瓶は“映えるところ”に投げられ、連鎖の危険が立ち上がる。
「配り替える」
俺は供給線を一段、勇者の戦い方に合わせて回す。
《火瓶:連鎖防止型へ切替(燃焼時間短・温度高・拡散抑制)》
《包帯:滅菌水付キットへ一本化(巻数少→交換早)》
《矢:軽量型へ切替(射数増・貫通低)》
《伝令:前衛指揮→“火瓶は割ったら下がる”“滅菌水で拭き切るまで次に移らない”“矢は面で打つ”》
「北階段、火瓶。短いほうだ!」
「包帯、キットで回せ!」
伝令の声が走り、担ぎ手が小倉から同じ重さの袋を受け取り、同じ段差を同じ足で上がっていく。
勇者の二撃目が外壁の影を振るわせ、三撃目が石粉を降らせ、四撃目で弾む。
――出力が落ちる。
人の筋肉は油では動かない。携行食は必要だが、タイミングが必要だ。
《携行食:投与タイム→“交替線通過時”》
《前線:摂取→禁止(勇者の光刃衝撃波で誤嚥事故リスク)》
「食うな、渡せ。下がってから食え」
短い指示が列の中で芽になり、間引きされた混乱が少しずつ“仕事”に育っていく。
リナはすでに側面へ回っていた。
「三時方向、甲殻上がる!」
「見えてる!」
彼女の短剣は勇者の光の反射を拾って薄く光り、関節に刺さり、抜け、また入る。
勇者の攻勢は“外壁上からの押し”を稀に見るレベルで成立していた。
――問題は、門だ。
門の下で、大型が肩を入れ、節を合わせ、押す。
門板が鳴り、蝶番が悲鳴を上げる。
勇者は迷わない。
「俺が出る」
「待て」
俺の声は届かない。
勇者は足場の悪さを見ない。前進の気分が勝つ。
門が半ば外れ、勇者が飛び降り、前衛が慌てて続き、隊列が崩れる。
「退路、確保!」
リナが身を翻し、門裏の狭路に消える。
――今、仕掛ける。
《テンプレート:落石バリア+緊急橋(複合)》
《配置:門裏・右→落石バリア(崩落角 38°)/中央→緊急橋(幅狭・耐荷重中)》
《誘導:外側からの圧→橋に集中→火瓶(連鎖防止)→落石》
「右、触るな! 中央、通せ!」
俺は支柱を二本抜き、緊急橋をあえて中央に細く置く。
敵は細い道に集まりやすい――群れは常に、狭さで縛れる。
「火、点で!」
火瓶の新型が、青い点火を合図に燃え、隊列を“広がれない”形に縫い止める。
「落とす!」
支柱を蹴る。
石材が道を悪くするために崩れ、橋の縁を削り、群れの足を奪い、重力が仕事をする。
勇者は跳び退く。
前衛がよろめき、しかし倒れず、列が――戻る。
戦術の絵が、夜気の中に立った。
「いける!」
見張りの声に昂揚が混じる。
だが、戦場は気分で完結しない。
終盤の事故は、たいてい気分の上に落ちてくる。
勇者が再び火瓶を掴み、勢いで投げた一発が、味方の退路の上で早く割れた。
青い炎が退路に点をつくり、点が線になりかける。
孤立。
「退けない!」
「水! 水――!」
焦りの声は、空気を軽くし、足を速くし、判断を遅くする。
「貸す」
俺は倉の新棚を掴み、空間へ降らせた。
《貸与:一時盾(雨)×多数(薄・軽・短時間)》
《条件:退路ライン上のみ固定/衝撃3回で消失/民間に落下→自動回収》
雨のような盾が、退路に沿って次々に出現する。
火の熱を遮り、矢を逸らし、足を覆い隠さず、声を通す。
「下がれ!」
孤立していた小隊が、雨の盾の隙間を抜け、戻る。
歓声が、剣だけでなく供給にも向いた。
「見たか!? 盾が降ってきた!」
「倉だ、倉がやった!」
俺は答えない。数字で答える。
《残:矢 41/火瓶 12/包帯 9/水袋 14》
《敵活動:散発化/撤退兆候:上昇》
《負傷:中等 6/軽 19(包帯キット→消費率 0.94)》
最後の数合は、根気と手順だ。
勇者の光は薄くなり、弓の放物線は落ち着き、救護の手は早く、在庫の動きは最短を刻む。
夜は、石の上に身体を置く人間の数で、ゆっくりと勝ちへ傾いた。
朝。
外壁の上に座り込む人影の間を、湯気の立つ鍋が行き来する。
パン屑の粥は薄いが、胃はそれを歓迎する。
勇者は剣を背に戻し、額の汗を拭き、こちらを見た。
「……物資がなければ勝てなかった」
声は掠れ、目の下は黒い。
俺は一歩も近づかない。
「物資は街のもの。君のものじゃない」
勇者の眉がわずかに動き、唇の形は笑いにも怒りにも寄らない無表情を選んだ。
「分かってるさ」
彼が本当に“分かっている”かは、線が知らせる。
白外套が石段を上がり、セラは二人を視界に収めるように立った。
「剣は正義の顔をしやすい。運用は責任の顔をしやすい」
独白は風に小さく千切れ、朝の空の高みに薄く溶けた。
「どちらも必要。だが、顔に酔うな」
リナが俺の手を取った。
指のささくれに、薬草の油がしみる。
「痛い?」
「必要の順位では三番目」
「一番は?」
「小倉の棚卸し」
「二番は?」
「君の休み」
彼女は子どもみたいな笑い方をして、薬草の匂いを指の上に塗り広げる。
「カガミ、改めて言って」
「英雄じゃなく、要でいたい」
「なら、私がもう一本の要になる」
「もう、なってる」
「じゃ、太くなる」
「折れにくい材で頼む」
「銅帯巻いとく」
朝の光が外壁の角で裂け、街の屋根を金色に撫でた。
《KPI:夜間灯→点灯率 0.90→再配分で 0.87(節電)/外壁修繕→復旧時間見込 2.1日》
《貸与:返却率 0.94(勇者隊 0.89→請求通知)》
《請求:逸失火瓶 3→公共労務 3人×半日(監察承認)》
数字は、人の動きの影だ。
影があるのは、人がいるからだ。
だが、その朝の光を裂く別の影が、王都から伸びてきた。
広場の掲示台に、緊急布告が打ち付けられる。
王都の紋章。赤の封蝋。
読み上げ役が声を張った。
「古代遺物《大倉》は王都に移送する。臨時物流本部は停止、権限を凍結」
ざわめきは起きなかった。
誰もが一息、息を止めたからだ。
「発効は――明日の正午」
石畳の下で、時間が逆向きに流れ始めたような感覚。
セラが布告を一読し、目を細める。
「……早い。政治の速度」
勇者は白布から目を離し、俺を見た。
「どうする、荷物持ち」
俺は倉の奥で、鍵穴の温度を確かめる。
《LOCK:回転角 10°/条件:“請求の正当化”継続・“貸与の健全性”維持》
――時間はない。
だが、足りないという言葉は、在庫を数え始めた者の前では、ただの指標だ。
「回す」
俺は短く言った。
「凍結される前に“要”を増やし切る。貸与を街の骨にして、請求を街の免疫にする。王都には線で返す」
セラは黙って頷き、白外套の袖に短くメモをした。
「監察は“真ん中”から見る。――最後まで」
時間制限は、走り始めた。
在庫は、数えるほど賢くなる。
剣は、光るほど短くなる。
街は、要の数だけ、強くなる。
数字で殴る夜は終わった。
数字で守る昼が、もう始まっている。
(つづく)
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