第8話「燃える南倉、請求の宣言」
黒い煙は、街の南を曇らせていた。
南倉――町内小倉のひとつ――の屋根は半分落ち、木梁が火の舌をもたげている。桶の列が石畳に弧を描き、子どもが縄を張って人の流れを整え、女たちの腕は躊躇なく水を投げ、男たちは焦げた壁を素手で剥がして延焼線を切っていく。
「右側、風下!」
「そこ、火の粉が飛ぶ!」
「列は切らないで!」
俺は《倉庫》に指を滑らせ、防火幕を呼び出した。
《出庫:防火幕×3(耐熱・耐油)/サイズ=大》
《設置提案:南面→路地の首/西面→屋根際/天井梁→落下抑止》
布は、音もなく空に落ちた。
防火幕は油を嫌う繊維で織り、縁に砂袋の重さを持つ。梁に掛ければ火は布の手前で息をひそめ、路地の首に張れば火の粉はそこで疲れる。
「そこ、押さえて!」
リナが二人の肩を借りて幕の端を引く。頬は煤で汚れ、目だけが健康な光を保っている。
「カガミ、次!」
「いく」
《出庫:消火壺(砂・小)×15/人感灯(夜間→昼間手動)》
壺は手のひらで掴める重さ。火の根が残る部分に、それを点で置く。面では勝てない場所に、点を。
火は、戦だ。計画と現場と、手の数。
白外套が煙の向こうから現れた。セラは裾を高くたくし、灰色の瞳で焼け筋を追う。
「内側から点いた火。外壁の飛び火ではないわ」
「内側……?」
「油の匂いがする。――壺を持ち込まれた」
俺は頷き、倉の貸与ログを呼び出した。
《貸与ログ:南倉/直近24h》
《油壺(小)×8/時刻:朝四刻/端末ID:SC-12/受領=コルノ(商会・若頭補佐)》
《搬送軌跡:商会倉庫→南倉裏口(進入)→回収なし》
《注記:裏口鍵=町内会管理→偽造鍵使用の痕跡》
広場に設置した閲覧台へ、ログを投影する。
「見て」
人垣のざわめきが、すぐに波になる。
「あいつの名だ」
「コルノ、だって」
「油壺、朝に借りてる」
「返してない」
その波に、香油の匂いがねじ込まれた。
ヴァルスが、笑って現れる。
「やれやれ。自作自演ってやつだろ? 帳面に名前を書いて、あとで敵の名前にして――線は書き換えられる」
「書き換えられない。閲覧のみ」
俺は静かに返す。
「時戻しログ、開示する」
《時戻しログ(閲覧)→SC-12》
《端末移動:商会書記室→南倉近隣→南倉裏口前》
《入力:油壺“貸与”→承認(臨時本部)/役務=搬送》
《注記:役務終了後“返却”予定→未実施》
人垣が割れ、コルノが引き立てられてきた。肘の皮が煤で黒く、目は泳いでいる。
「借りただけだ! 返すつもりだった! 火は――俺じゃない、偶然だ!」
「偶然のために、偽造鍵を作るか?」
セラの声は低く、冷たい。
コルノは喉を鳴らし、ヴァルスの方を見た。ヴァルスは肩を竦め、「現場の判断ミスだ」と言い捨てる。
ミス――。
この街でいちばん重い言葉に、いちばん軽い重りを乗せようとする口ぶり。
俺は閲覧台の横に立ち、板を叩いた。
「請求を宣言する」
《新機能:請求(Claiming)》
《定義:貸与された物資が“損壊・犯罪・公共善の阻害”に使用された場合、等価の労務または物資で弁済させる》
《選択肢:王都法の範囲内での収監/公共労務/物資弁済(監察官監督)》
「貸与は、信頼だ。信頼を裏切ったなら、請求が立つ」
「徴発と強制労働の線引きは?」
セラの刃のような問いが飛ぶ。
「選べること。期間と対価が明示され、公開されること。監察官が常時接続で見ること」
セラは一拍置いて、頷いた。
「証拠は十分。適用を認める。――ただし、脅しのためには使わせない」
「使わない。街を回すためだけに使う」
ヴァルスが舌打ちした。「誰がそんな条文に従う?」
「従わないなら、取引先が減る」
俺は壁に別の板を映す。
《公開台帳:信用点(仮)→貸与返却率・請求履行率・公共労務参加率》
《初期付与:全住民=1.0/請求未払い→-0.2/履行→+0.1》
「信用点は、市の入口に貼る。誰が、どれだけ街に返しているか。値切りより、返すほうが得になる」
コルノの顔から血の気が引く。「冗談じゃ――」
「選べ」
俺は淡々と言う。
「今この場で物資を弁済できるなら物資。できないなら、公共労務だ。選ばなければ、収監。王都法に基づく」
セラが横に立ち、紙にすらすらと書きつける。「記録する。期限、作業内容、安全配慮、監督」
コルノは唇を噛み、やがて吐き捨てた。「……公共労務」
「期間、三十日。作業は南倉の再建。夜間灯の柱立て。水路掃除。安全は町内会と監察が見る。賃金は最低額。信用点は履行に応じて戻る」
セラが最後の行を指で押さえ、「適法」とだけ言った。
人垣の温度が、ほんの少しだけ上がった。
怒りでも歓声でもない。納得の温度。
ヴァルスは薄く笑い、「ま、帳面で殴るのは得意だな」と肩を竦めた。
「帳面は剣だ」
俺は言い返す。
「数字で殴る。請求で縛る。貸与で回す」
火は止まった。
だが、供給は止まる――そう仕組まれていた。
その日の午後、ヴァルスは商会加盟店に囁きを回した。
「納品するな。臨時本部は干上がる」
倉のダッシュボードに、赤い点が増える。
《欠品:生鮮(青果・蛋白)→赤/乾物→橙/炭→安定》
《商会ルート:搬入停止/理不尽性:高》
「来たね」
リナが唇をなめる。
「分散で受ける」
俺は即座に小倉ノードを太らせた。
《分散小倉ネットワーク:起動強化》
《貸与在庫:相互横持ち→優先度上げ/回数制限→緩和(監察承認)》
《配送:ロバ隊→倍増/手押し車→臨時貸与》
「乾き物は持つ。生鮮が足りない」
「生鮮は、時間に縛られてる」
「敵の供給を、運用する」
夜、商会倉庫の裏手に静かな車輪音。
破棄寸前のB級食材が搬入される。傷だらけの果実、売り物にならない部位の肉、規格外の野菜。
《交渉:B級食材→買い叩き》
《条件:現金少額+“信用点の譲渡不可”》
俺は倉の奥で仕分けを全開にする。
《仕分け:可食部抽出(大)/雑菌タグ付け/加熱推奨》
《合成:乾燥→薄切り果実/燻製→端肉(低塩)/スープベース→規格袋》
《ラベル:救済セット(朝市限定)/価格=原価+わずか》
煙が夜に薄く広がり、塩の匂いと木の香が混ざる。
リナが火の番をしながら笑った。
「これ、敵の倉、空になるよ」
「**敵の“余り”**を、**街の“要”**に変える」
翌朝。
市場に並んだ救済セットに、列ができた。
「安い!」
「塩加減がちょうど」
「子どもでも食べやすい」
歓声ではない。生活の声。
倉のダッシュボードで、赤は橙に、橙は黄に、そして緑に変わっていく。
《欠品:生鮮→緑/乾物→安定》
《信用点:救済セット志願配達+0.1/商会価格吊上→-0.2(買い叩き印象・市評価)》
ヴァルスの顔は、笑っているのに笑っていない。
彼は一歩前に出た。「慈善で腹はふくらまない」
「慈善じゃない。運用だ。値上げの芽を摘む」
セラは白外套を揺らし、「数字は伸びている」とだけ言った。
《KPI:腹痛→継続改善/修繕日数→短縮/夜間灯→点灯率 0.90》
火傷で手を包帯に巻いた小さな子が、診療所の前でちょこんと座っていた。
リナが腰を落とし、包帯の端を優しく結ぶ。
「痛い?」
「ちょっと。けど、水はもう怖くない」
「偉い」
リナの声は、戦場に向いたときとは別の色になる。
俺が見ていると、彼女はちらりと上目遣いで笑い、口をすぼめた。
「あなた、刃じゃなく、鍵なんだね」
「鍵?」
「閉じた扉を開ける。回す。人の手を増やす。……街の、鍵」
頬が熱くなる。
「鍵は目立たない」
「目立たないのが、鍵」
甘さは一口だけ。
リナは立ち上がり、いつもの琥珀の眼で、次の仕事を探した。
日の傾きが長くなる頃、ギルドの門が開いた。
金髪が光り、鎧が鳴り、旗が揺れる。
元勇者パーティ本隊。
先頭の剣士――勇者が、笑顔で手を振った。笑いは広場の空気を掴みやすい角度で、声は遠くにも届く高さ。
「ルミナの皆さん! 聞いてくれ!」
集まる人々。ざわめき。
「街を救うのは、剣だ。地味な帳面ではない。あの日、魔獣を退けたのは“勢いある攻勢”だ。躊躇のない前進だ。ルールは大事だが、ルールを作るのは、俺たち剣だ!」
声はよく通る。事実の一部も、含む。
だが、線は、点より長い。
俺は壇上に上がった。
勇者の視線が、ほんの一瞬だけ笑顔から外れる。
俺は、一言だけ言った。
「なら、今夜の外壁を任せよう。物資は、貸す。」
広場の空気が、固まる。
勇者は笑顔を崩さず、だが目の奥がわずかに硬くなった。
「……任せられるとも」
「貸与の条件は、公開する。返せば、次も貸す。返さなければ、請求が立つ。剣の正義も、資材の正義も、同じ広場で測ろう」
閲覧台の白布に、貸与条件が並ぶ。
《貸与:矢(蔦布羽)×120/携行火瓶×60/包帯キット×40》
《条件:座標外持出NG/民間被害ゼロ/返却率 0.9以上→次回優先》
《請求:逸失・損壊→公共労務または物資弁済(監察監督)》
セラは白外套を風に鳴らし、真ん中から見る。
リナは短剣の柄を軽く叩き、必要の順位を頭の中で並べる。
ヴァルスは笑わず、計算する。
勇者は、笑う。剣は、光る。
夜が来る。
資材の正義が、刃の正義と同じ場に立つ夜が。
(つづく)
※ここまで読んでくれてありがとうございます!面白い・続きが気になると感じていただけたら、ブクマ&⭐評価&感想が次の補給になります。次回、外壁の夜――「剣」と「倉」の正面衝突。数字で殴り、刃で守り、要を増やして進みます。




