第6話「監察官とKPI、数字で殴る朝」
朝のルミナは、火の匂いより紙の匂いが濃かった。
広場の中央に、俺たちは臨時の閲覧台を組み上げた。板と柱、布屋根。支柱の影が石畳に短く落ち、上部に吊った白布がやわらかく光を返す。
《倉庫:街同期(β)→公開モード》
《パネルA:腹痛患者数(南区・洗濯屋窓口/診療所受付)》
《パネルB:外壁修繕日数(平均復旧時間)》
《パネルC:夜間灯点灯率(全域)》
《可視化:時系列/対照群/注記》
半透明の板が三枚、布の裏に浮かんだ。線は朝の光を透かし、石畳に薄い曲線の影を作る。
人垣の前に立ったリナが、口を少し開けて呟いた。
「……“見せ方”で、戦い方が変わるね」
「刃だけが武器じゃない」
「ほんとに。数字がこんなに“絵”になるなんて」
人垣の後方で、香油の匂いが風を切った。
ヴァルスが肩を揺らして笑う。襟元の商会印はいつも通りぴかぴかだ。
「ほう、線だの曲線だの。悪くない見世物だ。――だが、患者数は季節要因だろ。冷えると腹は壊れる。暖かくなれば治る。グラフの下がりは、季節の功績だ」
俺はすぐに《倉庫》の別枠を呼び出した。
《対照群:北区・丘側井戸(汚染歴なし)》
《期間:過去8週/現週を含む》
《重ね表示:季節トレンド/南区(汚染)→南区(介入)》
パネルが切り替わり、二本の線が並ぶ。北区の線はなだらか。南区の線は、臨時ろ過と配水の開始点で折れて落ちている。
俺は言葉より先に、注記を点灯させた。
《注記:介入開始日 T/以降72hで腹痛訴え -63%(北区変化 -4%)》
《注記:気温推移(気象塔)→北南とも同一傾向/説明不能差分=介入効果》
ヴァルスの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「ふうん。上手に線を描くもんだ。だが線は線、現場は現場――」
「線のない現場は、賭けだ」
言葉を切り、俺はセラを見た。
白外套に朝の光が乗る。灰の瞳は冷たく、だが見ようとしている温度があった。
セラは一歩前へ出る。
「臨時本部の成果は認める。けれど、正式化には王都式の監査が必要。――それが私の仕事」
ヴァルスがすかさず頷く。「当然だ。ルールはルール」
俺はそこで一手、先に出した。
「監査人の宿を、《倉庫》の見える化に常時接続する。在庫・予算・配布ログをリアルタイム開示。あなたが見たい時に、いつでも見られる」
人垣がざわめく。隠し事が難しくなる提案だ。
セラは瞬きひとつせずに言った。「透明性は、よい。責任を伴うなら」
「責任の所在は、ダッシュボードに表示する。“誰が”“どこに”“何を”送ったか」
「よろしい。――甘えるなよ」
「甘えない」
朝の閲覧はそうして始まった。
広場に置いた長椅子に老人が座り、子どもが線を指でなぞり、女たちがメモを取る。パン屋の親父は焼き色を確かめるみたいに線を見て、診療所の女医は眉をひそめながら注記を読み上げる。
数字は、物語になっていく。
昼前、広場の反対側が突然ざわついた。
「北小路、食い物が足りない!」
叫ぶ中年男の声が走り、子どもが泣き、籠がひっくり返り、パン屑が石畳に散った。
ヴァルスが手を叩く。「やれやれ、臨時本部の不手際だな。供給線が止まれば、腹は空く」
セラがこちらを見る。俺はうなずき、走った。
北小路は小さな店が並ぶ路地だ。染物の匂い、古本の紙の匂い、油の匂い。
パン屋の支店の裏口前に、一次発酵の桶が空っぽで並んでいた。
《倉庫:ヒートマップ(北小路)》
《表示:発酵→赤/輸送→橙/配布→青》
発酵のノードだけが真っ赤に点滅している。**“消えた在庫”**だ。
「誰が、指示を出した?」
「廃棄指示が来たんだ。『雑菌混入のおそれ』って。匂いがしたから、ぜんぶ捨てた」
「捨てた……」
手順は正しい。だが――。俺はすぐさま《倉庫》のログを開く。
《時戻しログ(閲覧のみ)/北小路発酵No.2》
《T-02:13 注記:日向→日陰へ(温度低下指示)》
《T-02:07 指示:発酵廃棄(雑菌混入) 端末ID:NK-5》
《T-02:05 端末NK-5:位置→ギルド書記室(Wi標)》
《備考:手順タグ“日陰移設”→“廃棄”に上書き(短時間)》
上書きだ。
俺は喉の奥の怒りを、ひとつ息で押し下げた。怒鳴るほど余裕はない。
「発酵のやり直し。保険生地を出す。日陰に。酵母はまだ生きてる」
《合成:保険生地(乾)→水加え/捏ね→一次短縮》
《出庫:混合酵母パック(耐熱・耐冷)》
「子ども、ここで縄跳びしてたね。ごめん、縄を借りる」
「え?」
縄を二本。桶を日陰の壁沿いに並べ、縄で侵入禁止の印を作る。
「“ここから先は跳ぶな”だ。跳びたい時は別のロープを出す。跳ぶ在庫と発酵在庫を、分ける」
「在庫を、分ける……」
パン屋の母親が復唱し、顔に少し血の色が戻る。
俺はその場で配給の分散に着手した。
「北小路は小倉を三つに分ける。一次発酵→二次→焼成を分離。どれかが止まっても、全部は止まらない」
《小倉:北小路A(一次)/B(二次)/C(焼成)》
《相互融通:不足提示→自動提案(端末表示)》
「運搬は?」
「水売りのロバを回す。午後は空いている」
水売りの少年が手を上げる。「行く!」
「行け。**“小さい路線”**を増やす」
セラが路地へ入ってきた。白外套が汚れないよう、裾を指で摘む。
「時戻しログ?」
「閲覧しかできない。書き換えは不可」
「正しい。けれど、透明性に甘えるな」
灰色の瞳が、静かに俺を刺す。
「権限は毒にも薬にもなる。君は“見せる”ことで権限を強くしている。分散しなさい。一つを止めても、街全体は止まらない構造に」
「やるつもりだった。――やる」
応答と同時に、《倉庫》の構成を切り替える。
《食糧配給:単一ルート→分散ルート(小倉×地区)》
《権限:各小倉に最小在庫の裁量/相互融通=自動提案(承認制)》
《表示:小倉ヒートマップ(緑:余剰/赤:逼迫/矢印:提案ルート)》
壁に新しい地図が浮かぶ。矢印は一方向ではない。
ヴァルスが鼻で笑う。「こんなに細かく切って管理できるのか? 人の手は増えねえぞ」
「余らせる仕組みが防災だ」
俺は静かに返す。
「“余り”を罪にする街は、一度の事故で全部が止まる。余らせ、それを流す。それが倉の役目だ」
ヴァルスは肩をすくめ、「好きにしな」と言った。
セラは何も言わない。ただ、線を見ている。点ではなく。
夕暮れ近く、リナが息を切らして戻ってきた。
肩の布が少し裂け、血が滲む。
「内通者、押さえた。ギルド書記の青年――エドって呼ばれてた」
胸の奥の温度が一度だけ跳ねる。
「どこで」
「北小路の裏路地。短剣を出された。浅いけど一度切られた。――背後に“斥候”の匂い」
リナの瞳に、薄い怒りが揺れる。
「『倉の鍵を渡せば、君らは助かる』って。笑ってた。誰かの言葉を借りたみたいに」
俺はひとつ息を吐き、倉の《危機在庫》を閉じた。
「エドは?」
「拘束済み。町内会の詰所」
「セラ」
呼ぶと、白外套はすでに動いていた。
「押収物は?」
「羊皮紙一枚。王都の文様。まだ封は切ってない」
「封は、あなたが切るといい」
セラはうなずき、羊皮紙をそっと開いた。
薄茶の肌理の上に、記号が並ぶ。古い図法の小地図。
青い線は乾いた川、濃い茶は崖、点々の印は古い石積み――そして、赤い印。
セラの眉が、ごくわずかに動いた。
「古代遺物《大倉》の所在に関する手掛かり……。王都の文様で間違いない。本国案件」
彼女はすぐに俺へ見せた。
地図の端には、昨日噂に出た“石造りの倉”と一致する印が、赤で記されている。
リナが息を呑む。
「ねえ、カガミ。やっぱり」
「鍵穴のもう一方だ」
セラは淡々と言う。
「あなたの倉と同系なら、王都の案件だ。管理・封鎖・調査――」
俺は彼女の言葉に被せるように、静かに言った。
「街を守るために、先に開ける」
広場の空気が、ほんの少しだけ冷えた。
ヴァルスの笑い声は、なかった。
セラの灰色の瞳が、初めて揺れた。
「……方法は?」
「線で行く。人で行く。要で行く。一人では行かない」
リナが短剣の柄を軽く叩く。「もちろん」
夜。
閲覧台の布屋根の下、線は今日の終わりを描いていた。
《腹痛:7→6》
《修繕:2.4→2.3(予測)》
《点灯率:0.88→0.89》
《分散小倉:稼働 17/相互融通 31件/ボトルネック 0→1→0》
セラの宿に接続したミラーは、点滅をやめて安定の緑に変わる。
「透明性に甘えない」と彼女は夕刻に言った。
甘えないために、俺は権限を分けた。
分ければ、奪いにくい。
分ければ、止まりにくい。
倉の奥で、鍵穴が静かに光った。
《LOCK:回転角 7°→9°》
《注記:分散/公開/継続》
わずかに、だが確かに――回った。
リナが肩の包帯を押さえながら、横で欠伸を噛み殺す。
「痛む?」
「“必要の順位”で言えば三位。一位は、あなたが寝る。二位は、明日の準備」
「三位は?」
「惚れる」
「順位の入れ替えは?」
「状況次第」
彼女はいたずらっぽく笑って、屋根の布の端を指で弾いた。ぱちと乾いた音。
遠くで犬が吠え、風が石造りの倉の方角から吹いてくる。
匂いは冷たく、乾いていて、古い。
数字は今夜も呼吸を続け、監察官は“真ん中”から見ている。
商会は酒の席で笑い、斥候は影で牙を研ぐ。
それでも、要は増えた。
増えた要が、線を支える。
――開け。
――街のために。
(つづく)
※ここまで読んでくれてありがとうございます!面白い・続きが気になると思っていただけたら、ブクマ&⭐評価&感想で応援いただけると“次の補給”になります。次回はついに「石造りの倉」へ――数字と刃、そして要で挑みます。




