第5話「英雄じゃなく、要になる」
夜の匂いは、火と鉄と血の名残を少しだけ抱えたまま、朝のパンの香りに押し流されていた。
外壁防衛の翌朝、ルミナの広場には人が集まり、仮設の壇が組まれ、布旗が風に鳴った。
「英雄を!」と誰かが叫び、拍手が波のように広がる。
俺は壇の下で、腕まくりをしたまま立っていた。呼ばれれば上がって、頭を下げて、二言三言のそれらしい言葉を言う――それが街の“儀式”だ。
だが、壇の階段に足を掛けたところで、俺は踵を返した。
「悪い。俺は、英雄じゃない」
ざわめきが、ほんの少し遅れて、広場の石畳に落ちる。
市長が眼鏡を押し上げて、困ったように笑った。「しかし、君が昨夜――」
「昨夜、落ちた石の角度を決めたのは俺だ。火瓶の配合、新しい矢羽の治具、包帯の規格もそうだ。だけど“落とした”のは重力で、“燃やした”のは火で、“巻いた”のは人だ」
言葉が硬く響きすぎないように、ゆっくり続ける。
「英雄は一人、要は多点。要を増やせば、街は強くなる。俺は要の一つでいたい。できれば、要を増やすための要で」
沈黙のあと、ぱち、と一つの拍手が鳴る。洗濯屋の婆だ。孫を脇に置いて、皺だらけの手を叩く。
それに続いて、鍛冶屋のガレンが無骨な掌でゆっくり拍手し、診療所の女医が笑って手を打ち、やがて広場の空気は“盛り上がり”ではなく“納得”に染まった。
俺はそこで提案を出した。
「臨時物流本部を、常設にする。名前はともかく、やることは同じだ。――“市井の技能”をインベントリ化する」
《倉庫:モード切替/街同期(β)》
《新規ダッシュボード:市井ノード》
《同期項目:職人の得意・空き時間・手持ち資材・作業場所・搬送手段》
《表示:ヒートマップ/空き時間帯(緑)・逼迫(赤)・交換候補(橙)》
視界の隅に半透明の板が開き、広場の壁に投影する。
パン屋:粉在庫(橙)/焼成窯の空き(午後)/余剰パン屑(多)
診療所:清潔布(青)/煮沸釜(稼働率80%)
鍛冶屋:古釘(橙)/炭(逼迫)
染物屋(市井の小店):藍染の端切れ(橙)
水売り:運搬ロバ(午後空き)
大工:暇な弟子二名(午前)……。
「個人の“得手”と“空き”を在庫として扱う。倉は物しか数えないと思われがちだが、仕事も在庫だ。空き時間は在庫、手際は在庫、人の信用も在庫だ。これを同期して、足りないところに“人と手”が行くようにする」
「どうやって?」と若い母親が聞いた。
「端末は持たなくていい。掲示板に紙で貼る。ただ、書き方を決める――“得意三つ/空き時間/持っている道具”。それを俺の倉が読み込んで、壁に“どこに頼めば早いか”を出す」
リナが俺の横に立ち、腕を組んで壁の光を眺めた。
「“街のステータス画面”だね」
「そんな名前にするか」
「ダサいけど、分かりやすいよ」
笑いがあちこちで生まれる。その笑いは、昨夜の緊張とは別の種類――“街づくり”の笑いだ。
パン屋の親父が腕を組んで言う。「午後に窯が空く。乾燥パン屑、もっと焼ける」
女医が続く。「包帯に使えそうな端切れ、藍染の店に声かける。消毒済みの印も付けて」
ガレンは短く頷く。「古釘、鍛ち直す。折れない柄の試作は……弟子に“空き”がある」
「空きがあるじゃない」と弟子が照れる。
水売りはロバの鼻先を撫で、「午後は運ぶ、安くていい」と言った。
《ダッシュボード:同期率 0.37→0.52→0.66》
《交換候補:パン屑→診療所粥/端切れ→包帯/古釘→枠》
《KPI(街内):夜間灯点灯率 0.81→(予測)0.85/救急搬送時間 -8%(予測)》
数字が、街の呼吸を示し始める。
リナが横目で俺を見た。横顔の線が、朝日に淡く照らされている。
「惚れそう」
「どうぞ」
「いまは少しだけ」
「少しだけで、じゅうぶんだ」
ふいに風が変わった。
乾いた革と新しい紙の匂い。人を測る視線。
広場の外から、白い外套が歩いてくる。袖口に王都の紋章。背筋は真っ直ぐ、歩幅は一定、視線は一点の曇りもない。
「王都監察官、セラだ」
市長が一歩前に出て、形式的な挨拶を交わす。
セラは黒髪を後ろでひとつに束ね、透明な灰色の瞳で広場全体を一度だけ見回した。
笑わない。怒ってもいない。**“測る顔”**だ。
彼女の視線が、壁に投影された“街のダッシュボード”に止まり、わずかに眉が動く。
「これは、あなたのスキルの延長?」
「《倉庫》と市井情報の同期だ。個人情報は最低限、表示は集計。人の顔ではなく“必要の顔”を見るための板です」
「ふむ」
そこへ、風を切る香油の匂いとともに、ヴァルスが現れる。
襟元の商会印は今日も光り、口元の笑みは“客前用”に磨かれている。
「監察官殿、ようこそ。市のことは我々ギルド加盟商会が預かっておりましたが、最近、臨時本部などという非合法の組織が動いておりましてね。供給をかき回し、規則を無視して――」
「ヴァルス」
俺は遮らず、淡々と名を呼んだ。
セラは目だけを俺へ移す。「非合法?」
「臨時物流本部は、非常条項によって市長と医師ギルドの決裁を得ています。昨夜の戦闘報告、配布履歴、負傷記録、すべて開示可能」
「開示?」
セラの瞳がわずかに光る。
「ええ。王都式の統制が“秘匿”によって成立するのは承知していますが、こちらは“公開”で回す運用です」
「挑発?」
「運用方針の相違です」
ヴァルスは肩を竦め、セラに囁く。「数字は作れますからね」
セラは首を振った。「数字は作れる。だが**“流れ”は嘘を嫌う**」
「おや、監察官殿は“流れ”なんて曖昧なものを」
「曖昧ではないわ。数字を点ではなく線で出せ、ということ」
彼女はすっと前へ出た。
「形式に従う。調査を宣言する。供給ラインは、調査の間、凍結される」
広場に冷たい風が落ちた。
凍結――昨日それを食らっていたら、外壁は抜かれていた。
リナが半歩前に出かけ、俺は指先で袖をつかむ。
「ならば、成果で語る」
セラの視線が返ってくる。
「三つのKPIを掲げる。腹痛患者数の推移、外壁修繕日数、夜間灯の点灯率。今日から三日。リアルタイムで開示する」
広場の壁に、三本のグラフが立ち上がる。
《KPI①:腹痛患者数(南区・洗濯屋窓口・診療所受付)》
《現状:前週平均 31.2 → 現在 11》
《KPI②:外壁修繕日数(破損箇所の平均復旧時間)》
《現状:前月平均 9.4日 → 現在 3.1日(昨夜の臨時補修含)》
《KPI③:夜間灯点灯率(全域)》
《現状:0.81 → 0.85(予測 0.87)》
数字は点ではなく線。
「調査期間中も、供給は止めない。代わりにすべてのログをあなたの宿舎にミラーする。あなたが“止めるに値する”と判断したら、止めてくれ」
セラは目を細めた。
「……大胆ね」
「こちらも命がかかっているので」
彼女は一拍置いて、うなずいた。
「では、三日。私が見る」
ヴァルスの唇が、笑っているのか噛んでいるのか、曖昧な形になった。
「監察官殿、商会の見解も――」
「商会は、あなたの数字を出しなさい」
セラは短く言い、踵を返した。その背中は硬く、しかし空を軽く切るように歩み、白外套が風に鳴った。
調査の一日は、仕事だった。
紙の掲示板は昼までにびっしり埋まり、倉はそれを読み込み、“街のダッシュボード”は刻一刻と色を変えた。
「午後、パン窯空き」→乾パン屑+二袋
「診療所、煮沸釜フル」→藍端切れは共同釜へ
「鍛冶屋、炭逼迫」→水売りのロバで炭屋へ往復
「洗濯屋、午後空き」→包帯干し台見張り
「小学校、子ども四人・縄跳びの合間」→ろ過槽の布洗い手伝い
リナは走った。走りながら、小さな“要”を増やしていく。
「おばあちゃん、干す布はこっち。影に干すと湿気が残るよ」
「はいはい、偉そうに」
「偉そうなのは私の担当」
笑いながら、彼女は俺の方をちらりと見る。視線が合うと、わざとそっぽを向く。
――小出しでいい。
感情も、供給も。
節度が継続を生む。
《KPI①:腹痛 11→9》
《KPI②:修繕 3.1日→2.8日(予測)》
《KPI③:点灯率 0.85→0.86》
《監察ミラー:転送成功(宿舎:北宿No.3)》
夕刻、セラの宿にミラーが届いたかを確認しに行くと、白い外套は椅子の背に掛けられ、彼女は卓上に広げた紙と投影を同時に見ていた。
「数字を信じたいから疑う。だから見に来た」
「歓迎する」
「あなたの倉は、嘘を吐ける?」
「嘘を吐く動作は実装していない」
セラはそこで初めて、口角をわずかに上げた。「良い答えね」
そんな折、街道から噂が転がり込んだ。
**外の荒野で“古い石造りの倉”が見つかった――**と。
「石造り?」
リナの瞳がぱっと明るくなる。朝日に濡れた琥珀のように、奥に火が灯る。
「あなたの倉と、関係あるかも」
俺は倉の奥に浮かぶ鍵穴の感触を思い出し、無意識に掌を握った。
「……鍵穴のもう一方か」
「行こう。確認だけでも」
「調査の三日は外せない。だが、“誰が先に触るか”は重要だ」
「じゃあ私が――」
「一人で荒野に行かせると思うか」
「思わない。言ってみただけ」
そのやり取りの最中、城門の見張りが笛を鳴らした。
風の匂いが変わる。革と油と、砂を踏む音。
細い影が三つ、街へ入ってくる。顔を布で覆い、背は軽く、足の置き方は猫のように静か。
リナの肩が微かに強張った。
「……斥候」
「元勇者パーティの?」
「歩幅と視線が、あいつらだ」
彼らの目的はひとつだろう。
倉。
秘密。
俺の掌は汗ばみ、倉のUIの端がひとつ、赤く点滅した。
《警戒:観測者(外部)/視線タグ 3》
《提案:見せる情報のレイヤー制御→“開示層”限定》
ヴァルスは広場の向こうで斥候と軽く会釈を交わし、何やら囁いた。
斥候の一人が笑ったように見えた。笑い声はしない。ただ、匂いだけが残る。
狩りを始める者の匂い。
二日目。
KPIは素直に下がり、上がり、また下がった。生き物の線だ。
《腹痛 9→8》
《修繕 2.8→2.6(臨時補修→常設へ切替)》
《点灯 0.86→0.87》
「よくやってる」とセラは言わない。
彼女はただ、見ている。
その“見る”が、責めでも賛美でもなく“計測”であることに、俺は奇妙な安心を覚えた。
「王都式の統制は、嫌いか?」と聞くと、彼女は答えた。
「統制は、嫌いでも好きでもない。必要な時に必要な分だけ使えばいい」
「必要の順位、だ」
「似ているわね」
似ている――という言葉は、敵か味方かの線を曖昧にする。
だが、曖昧は悪ではない。曖昧なまま、観測できるなら。
ヴァルスは、その曖昧を嫌った。
彼は商会の会館で小さな宴を開き、斥候を招き、酒の香りを街へ漂わせた。
「王都の友は、街の友」と彼は言い、“友”の重さで秤をねじる。
だが秤は、昨夜から**壁の向こうの“重量”**を知っている。
市井は“要”の増えた感触を、手の皮で覚えた。
三日目の夜明け。
広場の壁に、三本の線が並ぶ。
《腹痛:11→7(-36%)》
《修繕日数:3.1→2.4(-22%)》
《点灯率:0.81→0.88(+7pt)》
セラは白外套を整え、壇に立つ。
「王都監察官としての見解を述べる。臨時物流本部の運用は“市の公共善”に恒常的に寄与している。凍結の必要は、現時点では認めない」
広場に息が戻る。拍手は小さく、長い。“盛り上がり”ではなく“継続”の音だ。
ヴァルスは口角を引き攣らせた笑顔のまま、爪の先で掌をかいた。
セラはそのまま続ける。
「ただし。王都式の監査は続く。公開はやめるな。数字を点で出すな、線で出せ。運用を“人質”にするな。――守れる?」
「守る」
「なら、しばらくは敵でも味方でもない。“真ん中”から見ている」
“真ん中”に立つ者の言葉は、時に刃より冷たい。
だが、冷たさは熱を殺さない。温度差は、むしろ流れを作る。
広場の端で、斥候の一人が横顔だけで笑った。
「あの倉の鍵を、どちらが開けるか」
その無言の挑発に、俺は倉の最奥を指で撫でた。
夜。
人の足音が減り、パンの匂いが薄れ、鍛冶の火が眠り、夜間灯が一定のリズムで点く。
《夜間灯:点灯率 0.88/巡回間隔:安定》
《倉庫:最奥インターフェース》
鍵穴が、静かに光を吸い込んでいる。
俺は深呼吸し、指先で、そっと触れた。
「開け。街のために」
わずかに――ほんとうに、わずかに。
鍵が回る音がした。
クリックでも、ガチャリでもない。**“息を吸う前の僅かな舌の動き”**のような音。
《LOCK:回転角 7°/条件:進捗》
《注記:公共善/透明性/分散/継続》
背後で、リナが欠伸をした。
「眠い?」
「眠い。けど、いまは起きとく」
「開いたら、起こす」
「ううん、閉じてても起きる」
彼女は俺の肩にもたれ、まぶたを半分だけ落とす。
「ねえ、カガミ。英雄は一人でしょ。要は、増やせるでしょ」
「ああ」
「じゃあ、私も要になる」
「もう、なってる」
「じゃ、倍。……いや、三倍」
「欲張りだ」
「必要の順位、一位:私、二位:私、三位:街」
「逆だ」
「知ってる」
彼女の笑いは、子どもみたいに短い。
遠くで犬が一声吠え、夜は深くなる。
倉の鍵穴は、こちらを見ていた。
街のダッシュボードは、呼吸を続けていた。
そして、城門の外で、古い石造りの倉が、夜風に輪郭を濃くしていく。
――英雄じゃなく、要になる。
その誓いは、街の線に編み込まれていく。
(つづく)
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