第29話「会計大審問、心臓の在処」
鐘が三度、白壁を震わせた。広場は円形の審問庭に変わり、上層・中層・下層の三つの呼吸が段を埋める。王は回廊の影と光の境に立ち、財務院長ハルドは笑いの縁だけを整え、技術庫の灰外套は風のない空気で揺れた。勇者は剣を帯びず、衣一枚で証人席の手前に佇む。
セラが印を掲げる。「宮廷監査、立会人として開廷を宣言。暴力・扇動・偽装を禁ず。数字と証跡のみを許す」
俺は板の前に立った。契約石は胸紐に固定され、《監査灯》の薄金の輪が四方に淡く灯る。
《提示:照合子一覧/帯B(南翼食糧救済)=0xA1…C3、背骨帯S1(給水×食糧)=0x5E…41、帯D(中毒対処)=0x9F…2B—改竄なし》
《印紙トラッカー:貼付所→入金→歳出、流れの可視化》
《起点解析:呪装帯=祈禱逆位相+断帯符+財務院符号改変痕》
数字は静かだ。静かであるほど、刃になる。
「まず、北翼断水の時系列です」
板に時間軸が現れ、粒の貸与と回収、背骨帯の強度推移、監査灯の照合ログが滑らかに重なる。配水工組の親方が証言台に立ち、煤だらけの手で帽子を胸に当てた。
「水は切れたが、粒が掌に灯った。俺らは“貸せ・返せ”の順で動いた。帯が一葉の紙で持つなんて、誰が考えた? だが動いた。あれで赤子が泣かずに済んだ」
産婆組の年配が続く。「赤札は先、青札は後。順番が数字で見えたから、揉めなかったよ」
上層商の男も渋々と前に出た。「……価格は吊り上げられなかった。帯で一斉に“同件”に束ねられたからだ」
記録僧は細字の束を掲げる。「照合子に従い、服用と症状、給水と待機、すべて重ね書きにて保存。改竄痕なし」
セラが短く頷くと、監査灯が一段明るむ。鎖印が王旗柱—鐘台—記録僧机—契約石を結び、審問庭に四角の呼吸が生まれた。
財務院長ハルドが笑った。「公庫への入金を忘れている。印紙税は国家の血。君たちは租税を回避したのだ」
俺は板の隅を叩く。
《印紙トラッカー→印紙一葉/帯単位の“件”で貼付→入金/歳出の対応表》
「‘一件一葉’は条文。粒を一個=一件と拡大解釈したのは財務院。第六鍵《連結》で“件”を帯に正当化し、王都監査の割印で承認済み。ここに王命ログを添付します」
王は頷かない。否も言わない。ただ、目の色が一段深くなった。
セラが席を移し、声を真ん中に置いた。「次、呪装帯。照合子により起点の相関は高い。宗廟式の祈禱逆位相と、技術庫の符、そして財務院の標準符号が改変されている」
灰外套の男が立ち上がる。「祈りは善だ」
「善を“逆位相”にすれば、善の音は嘘に変わる」セラの声は刃を含まない。だからよく通る。
俺は勇者の名を呼んだ。彼は一歩前に出る。剣を置いた指がわずかに震え、すぐ静まる。
「証人に問う。外壁の夜、物資は剣に何をした?」
勇者は短く息を吐いた。「……勝たせた」
「剣は剣のままでは、壁になる。物資は道にする。俺は、彼の倉がなければ勝てなかった。——それは“俺の”勝利ではなく、“街の”勝利だ」
ざわめきが広場の石を撫でて消える。財務院長の笑みの縁が紙のように薄く裂けた。
俺は最後の板面を開く。文書庫の地下映像。隠された監査灯が写した火の手と、清水幕と光格子で消火された紙の山。符の断片。照合子のハッシュ列。
「会計大審問の最中に、証跡を燃やそうとした者がいる。名はここで断じない。断じるのは憲章と、王だ」
王は回廊から半歩出た。影が一枚、床に貼り付く。
「問う。倉は国家の心臓か」
俺は胸の鍵に触れる。視界の縁で、鍵穴がもう一段、静かに回った。
《第八鍵:憲章》
《定義:倉を“所有”から“制度”へ移す。運用権は憲章の条文に紐づく“職能”へ。》
《要件:条文(公共善/分権/監査/緊急避難)/署名(王・監査・市井代表)/可視化(破壊不能)/“所有者の自己放棄”》
《注記:誓いは人に、力は制度に》
「——倉は制度の心臓にする。国家か街かではない。公共の心臓だ」
俺の声は短く、しかし骨に届くように置いた。
「ゆえに、俺は“所有者”をやめる。第八鍵《憲章》を起動し、王・監査・市井の三署名で、倉を制度に渡す」
広場の温度が一段下り、すぐ上がる。人は変化の気配にまず身構え、次に息を吸う。リナが段から立ち上がり、短槌の柄を握り直した。その目は笑っていない。けれど、揺れてもいない。
セラが前に出る。「宮廷監査は署名する。条文案はここに」
《憲章・草案:①公共善の最優先(救命>衛生>生産>快適)/②分権(小倉ネット+貸与・請求・共有の分有)/③監査(監査灯・照合子・鎖印)/④緊急避難(転送の発動基準)/⑤軍事転用の禁止/⑥管財人の任期・罷免・資格》
「王に問う。王命は、憲章に従って倉を運用する“職能”を生み、個人の所有を禁じることを許すか」
王はわずかに顎を引き、回廊の影を踏み越えた。
「許す。——ただし、数字と証言で今日この場に示された誓いが、憲章の骨となることを条件に」
ハルドが立つ。「王よ!」
「会計は光の下で行う」王は短く、それだけ言った。
俺は契約石に掌を置く。リナも隣で掌を置く。二本の鍵は胸から光を失い、石の縁に薄金の帯として沈む。
《第八鍵:起動条件達成→“所有者の自己放棄”確認》
《署名:王(在位印)・監査(公証印)・市井代表(配水工/産婆/記録僧の共同割印)》
《可視化:憲章板(破壊不能)→王都中央広場に設置》
《移行:所有権→無効化/運用権→“管財人”職能へ(任期一年、再任上限あり)》
光が四方へ走る。監査灯が鎖印を新しい環に組み替え、憲章板が白い石から芽のように立ち上がる。条文は短く、骨だけを晒し、余白を意図的に残した。
勇者が証人席から一歩進む。「……剣の居場所ができた気がする。城門の外だ」
「外はあなたに。内は制度に」
「ならば、俺は外を守る」
灰外套が音もなく去る。ハルドは笑わず、紙束を握り潰す。審問庭の空気は、ようやく呼吸のリズムを取り戻す。
最後に、俺は短く言った。「——倉は、ここで人から降りる。制度で上がる」
《第八鍵:憲章→承認(一次)》
《本承認要件:①条文の“実運用”を一件証する(印紙と無関係に)/②管財人の初任命/③王都外一都市の同憲章受理》
王は頷かない。否も言わない。だが、壇の影が一枚、軽くなった。
セラが俺の肩を軽く叩く。「畳みの紐を結べる場所まで来た」
リナが囁く。「——“二本の鍵”、いまは石の中。でも、私たちの手は空じゃない」
「空いた手で、在庫を回す」
広場の風が、憲章板の余白をやさしく鳴らした。畳み始める音だ。
(つづく)




