第26話「北翼断水、委任粒の証明」
板の隅の赤点滅は、拍動のように早まっていた。
《警報:北翼水圧 低下→主幹管 破損/配給水 停止》
《補注:二次系統(浴場・官舎)へ優先分岐》
セラが眉をわずかに寄せ、「官舎と浴場が先に水を貯めた」と短く言う。
財務院の筆致だ。数字を化粧して優先順位を裏返す。
「行く」
俺は契約石を抱え、台から飛び降りた。リナとミーナが左右に付く。王は回廊の陰で見ている。技術庫の灰外套が、風のないのにわずかに揺れた。
北翼は白壁の間に石段が折り重なり、路地ごとに水樋が走っている。
配水塔の足元は乾いていた。乾いているのに――湿った匂いがした。
「下に溜まってる」
リナが手袋の指で石の継ぎ目を撫で、血の色に似た赤錆を見せる。
ミーナは弦を軽く鳴らし、見張り台の影に黒い人影が抜けるのを見逃さない。
「あれが切ったんだ」
「切り続ける仕組みを置いていくのが財務院の作法だ」
口に出した瞬間、倉の文字が視界の縁に滲む。
《第五鍵:継承→副機能【委任】》
《説明:権限の粒(委任粒)を貸し、条件成立で自動回収》
《要件:公共善/可視化/返却意思》
《提案:水の粒を分けよ》
「粒で回す」
俺は頷き、指で空に円を切った。
《委任粒:発行 120(試験上限)》
《粒の種類:修繕/配水/給水/記録》
《貸与先:配水工組/井戸番組/産婆組/記録僧》
《条件:赤札(救命)>橙札(補修)>青札(維持)を優先。使用後 12時間で自動回収》
粒は目に見えない。だが、受けた者の掌で温度を持つ。
配水工組の親方は煤で黒くなった手を見下ろし、顎を上げた。「貸せ」
「返す気持ちが先にあるなら、貸す」
「返す。――水を返す」
言葉が条件になった。
《貸与:修繕粒 40→配水工組》
《貸与:配水粒 40→井戸番組/産婆組》
《貸与:記録粒 10→記録僧》
《貸与:給水粒 30→子ども班(水配り)》
鐘が一度鳴り、子どもたちが鳴子の縄を肩にかけて走る。
記録僧は灰の衣を翻し、板の脇に簡易机を据える。
配水工は工具箱を開け、赤札の束を腰に差し、橙と青を胸に下げた。
「順番を守れ」「死ぬな」「戻って飲め」
短い合図が、筋になって路地へ伸びる。
地面は生き物のように湿り、石畳が一枚、一枚、下に沈んでいる。
配水塔の脇の点検蓋を開けると、蒸気ではなく冷たい息が上がった。
「落ちるよ」
リナが先に降りる。短槌の柄に銀糸を結び、俺の腰に繋いだ。
狭い石の喉を抜け、空洞に出る。
そこは都市の血管だった。
太い陶管が折れ、接合の鉛が剥がれ、黒い針の束が横から刺さっている。
「違法分岐」
ミーナが吐き捨て、上から灯を落とす。
黒い針は細く、数は多い。浴場と官舎の先へ伸びる管だ。
倉の文字が冷たさで光った。
《解析:主幹管 破断→原因=水槌+違法分岐の逆流》
《対策:①膨張式栓で破断面を止血 ②バイパスを仮設 ③違法分岐を封印→記録》
《補助:LCI(局所危機指数)→赤 0.81/橙 0.62》
「順序で勝つ」
俺は上に指を伸ばす。
《転送:膨張式栓×4/銀糸網×3/晶砂(位相粉)×8/鏡板×6》
《展開:破断面→膨張式栓/周縁→銀糸網+晶砂》
《補助:光格子(微)→水流での位相ずれ補正》
空の薄い皺が穴の中まで降りてきた。
膨張栓は萎れた果実のような形で落ち、破断面に挿し込まれると水を喰って腫れ、管の内側で止血した。
銀糸網は黒い針に絡み、晶砂がその隙を埋める。
光格子は見えない。だが、水の逃げる位相が鈍り、波がやさしくなる音が耳の内に立**つ。
「圧、戻る」
上で配水工の声。
《板:水圧→0.19→0.36→0.44》
「まだ。――バイパス」
俺は指を折る。
《転送:可撓管(大)×12/継手×24/支柱×20/砂灰袋×60》
《組立:主幹管の外→地上へ→配水塔脇→仮配給台》
《委任粒:配水粒→井戸番組へ 追加 20》
可撓管が蛇のように地に上がり、継手で繋がれ、砂灰袋で固定される。
地上で子ども班が番号札を配り、産婆が乳児優先の赤札を掲げ、井戸番が蛇口の開け閉めを時間で回す。
《下層給水:再開/待機平均 13分/列揺れ 低》
板の数字が落ち着く。赤が橙になり、橙が青ににじむ。
「まだもう一つ」
リナが黒い針の根元を指す。
針は折っても抜けない。抜けば主幹が裂ける。
「封印する。――記録して請求する」
俺は倉に降り、書式を呼び出す。
《請求:王都財務院→北翼主幹管 違法分岐 封印費用+供給遅延損害》
《証拠:可視化ログ/位置/封印写真/水槌波形》
《公開:板で表示》
板に黒い針の図が映る。
「誰が刺した?」
上層から声。
「名は出ない。――針は財務院の規格だ」
セラが真ん中の声で言い添える。「規格が罪ではない。運用が罪」
言葉は線を引く。人の顔を描かず、行為の線だけ見せるために。
封印の壺に針を包み、銀糸で結んで倉に預ける。
《委任粒:記録→回収/修繕→回収》
粒が戻る感触が掌に灯る。貸した権限は返すためにあった。
第五鍵の縁がひとつ、滑らかになる。
バン。
地上から乾いた破裂音。可撓管が波を飲んで膨れ、支柱が一本折れた。
技術庫の影が通りざまに砂を撒く。
――まただ。虚飢渇の水版。喉が嘘の乾きを覚え、列が乱れる。
「やめろ!」
ミーナの矢が砂の袋を縫い、灰外套の袖が裂ける。影は走り、人ごみに消えた。
恐怖の粒が一瞬で噴き、板の待機時間に棘が刺さる。
「鐘を三つ」
鐘が高い音を重ね、俺は倉の奥から別の粒を呼ぶ。
《委任粒:安寧(心拍・呼吸 同期誘導)→記録僧/産婆組へ 20》
祈りの形ではない。息の形だ。
記録僧が短い詩を読み、産婆が呼吸の数を数え、列の波が収まる。
倉の粒は刃ではない。背中に手を置く重みだ。
《待機平均:13→11分/列揺れ→低→微》
「上」
リナが顎をしゃくる。配水塔の上で、宮廷導師レメギウスが符を重ねていた。
「まだやるか」
「やらせない」
リナは短槌の柄で足場を叩き、俺は足元に板を生やす。
《転送:伸縮足場×3→塔外壁》
板が石から芽のように伸び、足を受け、縮んで弾く。
リナは二段で塔の中腹に取り付き、銀糸を投げ、導師の袖を縫う――はずが、符の風に逸らされた。
レメギウスが笑う。
「鍵は二本か。――一本は折れる」
「柄は折れない」
リナは息を吐き、足をかけ直した。
俺は倉に降り――負荷の赤を見る。
《転送負荷:高/冷却推奨》
第四鍵は人に刻む。第五鍵は人に返す。
「粒で登る」
《委任粒:攀(安全係留)→リナ 3》
粒が掌に灯り、銀糸が石の目地に噛んだ。
リナは一段、また一段。
導師の符が黒く反り、風だけを切って通り、光の格子に薄く弾かれる。
「落ちて」
彼女は囁き、柄で導師の膝を払い、肩を押し、銀糸で柱に縫い付けた。
塔の上で、音はない。息だけが上から降りてくる。
断水は止まった。水は戻った。
《板:水圧 0.72/給水 区画率 93%/赤札 待ち 0》
配水工が汗で黒く光る首を振り、親方が短く笑った。
「粒を返す」
「返せ」
粒が手から戻り、掌が空になって――熱は残る。
委任は権限ではなく、熱を回す方法だ。
記録僧が板に最後の数字を記す。
《層別満足:上 61/中 76/下 88(%)》
鐘が一つ鳴る。群衆の波は静かだ。
契約石が手の中で温まった。
《第五鍵:継承→承認(本)》
《副機能:委任 安定化/分割認証→セラ監理下で運用可》
石の縁に微かな文様が走り、鍵の輪郭が完成する。
二本の鍵――俺とリナ。
一本は倉の奥へ、一本は街の手へ。
その瞬間、黄金の檻が別の音を立てた。
王城方面の水が落ちたのだ。
浴場の蒸気が白から灰に変わり、官舎の樋が鳴く。
北翼へ回った水は、誰かの栓を空にした。
王は回廊の陰から出ない。財務院長ハルドは笑わない。技術庫の灰外套は動かない。
動かないことが――動いている証拠だ。
セラが近づき、印を軽く撫でた。
「第五鍵、承認。公開の力で通った。――次は運用の線を太くする。財務院は別の穴を掘ってくる」
「穴は塞ぐ。穴を使う習慣を塞ぐ」
「習慣に勝つのが政治。あなたは運用で勝てる」
言いながら、彼女の目の奥に疲れが走った。
「人事は生き物。――私の席は今日は在るけど、明日はわからない」
「席が消えたら、板に置く」
「板は剥がされるかもしれない」
「剥がされる前に写す」
短いやり取りで、明日の線を一本引いた。
リナが肩の包帯を緩め、俺の手に額を ちょんと触れさせる。
「粒を少し、私にも返して」
「何の?」
「勇気の粒」
「貸す前に、持ってる」
「返すから」
彼女は笑い、短槌の柄を叩いた。
柄は折れない。鍵も折れない。折れるのは――習慣だ。
広場に戻ると、板の前の人の波が薄く整理されていた。
《第五鍵:継承→承認(本)完了》
《監理:宮廷監査》
《副機能:委任 粒→市内 18区へ配備/回収率 96%》
王は陰から出ず、財務院の筆記官が紙を束にして持ち運ぶ。技術庫は人の間に溶け、軍は槍の影を動かす。
檻は開いて見える時ほど堅**い。
鍵は――二本ある。
終わりではない。
一枚の紙が風に乗って壇上に転がり、印が目に刺さった。
王都財務院、新たな布告。
『外部倉機能の課税化――委任粒一粒ごとに印紙を貼付のこと。貼付のない粒は無効』
印紙――粒の自由に重りを付けるやり方。
倉の奥で、鍵の影がまた増えた気がした。
――第六鍵。名前はまだ読めない。
連結か、規約か、免責か。
王の声は聞こえない。街の呼吸だけが聞こえる。
「次は税だね」
セラが短く言い、印を袖に隠した。
「税は悪じゃない。――使い方で悪に変わる」
俺は板に新しい欄を描いた。
《印紙:見える化/誰が貼ったか/何に使われるか/いくつ貼ったか》
数字を化粧させないための線だ。
リナが肩で笑い、短槌の柄で板の端を軽く叩く。
「檻の柱を数えていくんだね」
「数えた柱は――折れる場所が見える」
王都の白壁は、夕日で薄金に染まり始めていた。
黄金の尖塔が長い影を落とし、その影の端に街の屋根が触れている。
街は檻の内にある。でも、鍵は内にある。
鍵の粒は人の掌にある。
――次の戦は、紙と印と数の上に置かれる。
(つづく)
※ここまで読んでくださってありがとうございます!「委任粒の実戦運用」「違法分岐の封印と請求」「公開の力で第五鍵・本承認」が刺さったら、ブクマ&⭐評価&感想が次の補給になります。次回、印紙税という見えない枷に対抗する“第六鍵”の手触り――連結/規約/免責、どの言葉が開くのか。数字と制度、そして少しの刃で、黄金の檻の柱を折りにいきます。