第24話「第五鍵、継承の試練」
王の一言が広間を水平に張り詰めさせたまま、時間はわずかに沈んだ。
黄金の玉座の前、白い石床の真ん中に、侍従が黒い箱を捧げ持って進み出る。
箱の蓋が無音で開いた。中にあったのは灰青の石板――契約石。
縁には古語の連綴、中心には掌ほどの窪み。窪みの周囲に細い血溝が刻まれ、干からびた朱が薄くこびりついている。
「古代の契約式具」
灰の外套――技術庫の視官が低く囁く。
財務院長ハルドは笑いの縁だけを整え、指を軽く弾いた。
「王の血が倉を継ぐ。――宣言し、刻む。王命にて第五鍵を王へ」
若い王は、玉座から微動だにせず、ただ真っ直ぐこちらを見て言葉を重ねる。
「汝、倉は国家の心臓となる。王に継がれ」
倉の奥で、鍵穴が細く鳴る。
視界の周辺に、透明なインターフェースが滲んだ。
《第五鍵:継承》
《定義:在庫とは信頼の形而上》
《条件:次代に倉を渡す意思を示せ》
《注記:血、階級、官職は要件に含まれない》
――血ではない。意思だ。
俺は短く息を吐き、胸の奥の砂が音もなく崩れるのを感じた。
セラがわずかに目を細め、真ん中の声で言う。
「陛下。契約石の条は古く、血だけを問うものではありません。継承は――意思」
ハルドの笑みが薄くなる。「宮廷監査の越権は――」
王は片手を軽く上げ、声を止めた。「試練を行う」
侍従が契約石を高く掲げ、白い階段の上から降ろす。
広間の空気が一歩近づく。
王の視線は揺れない。重臣たちの唇は干からびた葉のようにわずかに擦れる。
財務院の筆記官が速く書き、技術庫の視官が薄い紙片に印を付ける。
軍の将は手を腰に当て、宗廟の僧は目を伏せた。
《案内:手を置け。意思を言え》
倉の文字は短い。短い言葉で重さが変わる。
手が震える。
第四鍵を開けた夜より、呪装兵の刃より、震えが近い。
「――俺が死んだら、この倉は誰に?」
喉の奥で、最小の声になった。
街に渡す、と言えたら簡単だ。だが倉の問いは、具体を求める。顔のある次代。
公共のために個に預ける。個が公共を誓う。
名前を――出すべきか。
「……あなたが渡したいと思えるなら」
震える声が、隣から来た。
リナが一歩進み、白の床に膝が触れる音が薄く響く。
包帯の下で新しい赤が広がっている。昨夜の呪装兵の打ち身が色を変えたばかりだ。
彼女は胸に掌を当て、俺を見た。
「私に。――あなたが渡したいと思えるなら、私に。預かるだけじゃなく、返す。街に。あなたに」
笑わない。泣かない。
ただ、言った。短く、強く。
喉の熱が別の形になる。
俺は契約石に手を伸ばし、窪みに触れた。
冷たい。だが冷たさに湿り気がある。古い血の記憶が石の中で温度を保っている。
倉の文字**が、一行、浮いた。
《宣言:次代に渡す意思》
《候補:入力》
入力――候補。
喉が乾く。唇が紙になる。
「――リナ」
俺は名を言った。
音は短い。だが広間の空気は、それを自分の内で一度転がす。
財務院の筆記官が止まり、軍の将の指が腰から離れ、僧の瞼が上がる。
王の視線は――動かない。
《候補:受理》
《補助条件:意思の対偶》
《問:彼は渡す意思を持つか/彼女は受け継ぐ意思を持つか》
「――持つ」
俺とリナの声が、重なる。
倉の文字が厚みを増す。
第五鍵の輪郭が光の線で描かれ、契約石の縁がわずかに温度を帯びた。
財務院長ハルドは笑った。柔らかな笑いで、余白のない笑いだ。
「美しい。――だが、手順がある。王の血が先だ」
彼は軽く指を鳴らした。
白い外套が揺れ、宮廷導師が前へ出る。
名前はレメギウス。
額に祈り粉、袖に符の束。
「契約石は御前の具。陛下の御血にて開封さるべきものを、素人の手で汚すな」
汚す――その一言で、広間の温度が一度下がった。
汚いのは血ではない。言葉だ。
レメギウスが手を翻す。符が空に撒かれ、金泥の線が絡む。
契約石がふっと浮いた。指一本分、石の上から剥がされる。
「――奪う」
セラが低く言い、印に力を通した。
「待て――」
王の声が低く落ちる。
だが導師の手は止まらない。
契約石が王の方へ滑り、光が縦に裂け、白い床に影が伸びる。
刹那、俺は倉に降りた。
《緊急:転送起動》
《構成:即席光格子→投光筒×16/鏡板×12/銀糸網×4/晶砂(位相粉)×8》
《展開:契約石周辺→三次格子/減速膜→呪圧耐性/地面固定具→不可》
《副次:落石バリア(極小)→玉座前/土嚢ドーム(微)→左右列》
空が薄く凹み、光が格子を形にする。
投光筒が四隅に刺さり、鏡板が角度を固定し、銀糸網が結び、晶砂が薄い膜を張った。
光格子は箱ではない。箱の数学を光にしたものだ。
契約石は浮いたまま、格子の中心に嵌る。
レメギウスの符が弾かれ、金泥が散って床に消**えた。
「――っ」
導師の呟きが短く切れる。
彼は袖から黒い粉を撒いた。字喰いの粉。呪装兵の喉を黒くした、あの質の反転だ。
光は喰われない。
銀糸に刻んだ反祈文が逆に喰い、黒を白に乾かす。
光格子の縁が一瞬だけ低く唸り、姿勢を保つ。
レメギウスは狙いを変えた。
俺だ。
短い符が矢のように飛ぶ。
視界の端で、リナが走った。
符の軌道に身を入れ、腕で逸らす。
音はない。匂いだけが焦げる。
白い包帯に赤が咲く。
「リナ!」
足が勝手に前に出る。
《転送:止血粉/圧迫帯/局所鎮痛》
減速膜を薄く、彼女の肩に落とす。帯が巻かれ、粉が噛む。
リナは息を吐き、笑いを作った。
「まだ――立てる」
立てる、という言葉は剣と同じ。
導師は次を投げる。
紋章槍――光の槍に紙の符を重ね、貫通力だけを残した術。
光格子が割れる。
割れて――止まる。
格子は割れてから閉じる。格子は閉じてから立つ。
箱じゃない。数だ。
レメギウスは目を細め、角度を変え、連射した。
光は薄く揺れ、契約石は中心で無傷のまま。
「やめよ」
王の声が落ちる。
命令は低く、短く、止まらない。
しかし導師は止めなかった。
財務院長ハルドの視線が、ほんの一瞬導師の袖に寄った。
――命はどこから出るか。誰が誰を動かすか。
倉は在庫の出し元を見る。人も在庫**だ。
「セラ!」
俺は呼んだ。
彼女は印を掲げ、白外套を翻して前へ。
「宮廷監査宣言。――この場の契約は公衆の目の下でのみ有効」
法の真ん中が白い床に一本引かれた。
光格子の内外を繋ぐ言葉だ。
レメギウスは笑い、手を上げかけた。
リナが滑る。
短槌の柄だけを握り、足で距離を殺し、肩で懐に入る。
柄は折れない。柄で肘を打ち、膝を刈る。
導師の符が一枚遅れ、紙の角が空で迷う。
「終い」
リナは囁き、紐を張る。
《転送:銀糸束→即席手枷/滑り止め粉》
銀糸が手首に掛かり、粉が床を噛んで逃げ道を奪う。
レメギウスは倒れない。膝で止まり、言葉を編もうとする。
光格子の辺が一本、伸び、彼の口と手のあいだに薄い壁を作った。
術式は繋がらない。数が線を切**る。
「――私は」
リナの声が低く、広間の真ん中に落ちる。
血が白い床に星のように落ち、赤が薄く広がる。
彼女は笑った。痛みを笑うのではない。意思を笑わせる。
「私は……あなたの倉に“預けられる命”でいたい」
預ける、ではなく、預けられる。
信頼の主語が逆に回り、倉の定義が胸の内で音を立てて重**なった。
倉の奥で、第五鍵の輪郭が濃くなる。
《第 五 鍵:継 承》
《確認:意思の対偶→成立》
《候補:登録》
《指名:二名》
指が燈る。
王ではない。
財務院でも、技術庫でもない。
俺と――リナ。
《継承候補:二名/主候補=カガミ/副候補=リナ》
《備考:街の合意が必要(公開誓約)/王都の監査下で可視化の場を設けよ》
広間の空気が、一秒遅れて動いた。
財務院長ハルドの笑いが消え、目の縁が薄く引き攣る。
技術庫の視官は紙片を落とし、軍の将は肩の紐を握り直す。
宗廟の僧は目を閉じ、王の瞳が少しだけ深くなった。
「継承は――王の許しなくとも動く鍵か」
王の声は低く、独り言に近い。
「公共の誓いの場で、続きを見せよ」
命は短い。だが、場は開く。
光格子が音もなく消え、契約石は俺の手の上に静かに落ちた。
重くはない。重さは言葉にある。
セラが印を袖に戻し、真ん中の顔で一点を見つめる。
リナは帯を自分で引き、血を止め、いつもより少し落ちた声で笑った。
「次の場を開ける。……鍵は二本。一本はあなた。一本は私」
第五鍵のアイコンは、俺とリナの肩口に同時に灯っている。
――継承候補:二名。
王都の白が、黄金の檻が、少しだけ鳴った。
(つづく)
※ここまで読んでくださってありがとうございます!「契約石の試練」「光格子の攻防」「“預けられる命”」が少しでも刺さったら、ブクマ&⭐評価&感想が次の補給になります。次回、公開誓約――王都の真ん中で、街と王、倉と人の継承を可視化します。数字と制度、そして少しの刃で、二名の鍵を証明しに行きます。




