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第23話「王都の白壁、黄金の檻」

 白は、雪の色ではなかった。

 石灰を何層にも塗り固め、数字で磨いたような白。

 王都の外郭は、朝日を浴びると眩しいより冷たく、遠くの丘から眺めると壁ではなく面に見えた。

 その内側から立つのは黄金の尖塔。塔身は細く、風を切る形に削られ、富だけでなく秩序の鋭さを空へ伸ばしている。


 門前の広場は静寂だ。静けさがあるのではなく、音が管理されている。

 列は三つ。官用、許可商、そして配給。

 配給の列は長い。許可商の列は短い。官用は空でも優先だ。

 セラが監査の印で手続きを押し通し、幌馬車は官用列の影を滑って門をくぐった。

 「記録に残るわ。あなたの入城も、倉の重量も」

 「数字は嫌いじゃない。――化粧の匂いがしたら、剥がすだけ」

 セラは短く笑って、それから笑いを畳んだ。「ここでは数字が権力の文法よ」


 城門を越えた瞬間、匂いが変わった。

 石鹸と香油の花、蜜の甘、染料の苦、そして何より――薄い小麦の乾いた匂い。

 豊かさの匂いと、足りなさの匂いが、同じ風に同居している。


 「檻みたい」

 リナが呟いた。白と金に縁取られた街路は広く、舗装は滑らか、街路樹の剪定は完璧で、歩くたびに安心が音を立てて割れる。

 「ここに閉じ込められるのは――嫌」

 「閉じ込められた檻は、倉で中から開ける」

 俺は笑ってみせる。笑いは薄いけれど、鍵の手触りだけは確かだ。


 財務院の使いが来たのは、宿の寝藁が温まる前だ。

 銀糸の縁取りの黒外套。胸元の徽章は秤と巻物。目に温度がない。

 「財務院長ハルド殿の御用。――倉の主、直ちに来られよ」

 セラが真ん中の顔で頷く。

 「監査も同席する」


 財務院の館は白壁がさらに白く、廊の鏡が正確に左右を写し、歩いても前に進んでいる気がしない。

 院長室は広くはなかった。広間ではない、箱。秩序を詰めるための箱。

 机の向こう、細い肩、薄い笑い。

 「ようこそ、倉の主。私は財務院長ハルド」

 声は柔らかい。柔らかさに余白がない。

 「挨拶は短くしよう。おまえの倉は王のものだ。街は“倉の出張所”にする。運用の権限は王都が持つ。おまえは名誉職だ」

 紙一枚で、手を抜いて心臓を抜きにくる言い方。


 「名誉は在庫の代替にならない」

 「代替にするのだよ。王都では数字が名誉で、名誉が数字になる」

 ハルドは細い指で机上の書類を揃えた。

 「おまえの倉はすでに王都会計に“軍事システム”として計上されている。予算と指揮権は王の側に置く。おまえに残るのは実務だ」

 セラの眉がわずかに動いた。

 「監査は?」

「監査は監査だとも。真ん中から見ていてよろしい。――だがな、倉の鍵は王の掌に置かれるべきだ」

 ハルドは目を細め、俺の喉の奥を覗く仕草をした。

 「第五鍵。継承。――それを渡せ」


 喉の奥で鍵が一枚鳴った気がした。

 「渡せば早い。渡さなければ遅い。――だが終点は同じだ」

 「遅い間に人が食って眠れれば、十分だ」

 言うべきことは短い。短い言葉は壁を立てる。

 ハルドは肩をすくめ、笑いの縁を整えた。「――謁見で決まる。王は待たない」


 王命は翌朝。

 俺は待つ時間を数字で埋めることにした。


 市場は四つに区切られていた。北翼は貴族・官吏向けの供応市場、東翼は工房と職人の素材市場、南翼は一般配給市場、西翼は闇に近い露の市場。

 北は静かで多い。商品は積まれ、売る声は低い。

 南は喧しく少ない。商品は薄く、売る声は高い。

 同じパンでも、重さが違う。北のは中まで詰まり、南のは空気が多い。

 油は北で透明、南で濁る。瓶の底に沈殿が見える。


 「配給札、見せてください」

 俺は南翼の列の端にいた老女に声をかけ、札を覗く。

 刻印は今年。紙質は薄い。数字は揃っている。均一な幸福を印刷する数字だ。

 だが、現物は揃っていない。

 俺は指の腹で札の角を撫で、倉の見える化を頭に呼んだ。共有のUIは止まっている。転送は緊急に限る。

 だから、人と物と動で熱を描く。

 北のパン籠の回転数、東の油樽の補充、南の列の停滞、西の足の流れ。

 数字が顔を出す。


 「――偏ってる」

 リナが低く言った。

 「偏りを隠すために、数字に化粧をしている」

 俺は頷く。

 「平均で語る。中央値を隠す。月次合計で誤魔化し、一人当たりの欠食を霧にする。――数字の化粧で隠されている」

 セラが腕を組み、真ん中の顔で市場を見渡した。

 「帳簿は完璧でしょうね。支出が揃い、配給が満額、倉の在庫も動いている。……数字の流量は正しく、幸福の流量が止まっている」


 西翼の影に、技術庫の外套が一瞬揺れた。

 黒でも白でもない、灰の外套。観察の匂いがする。

 「監視されてる?」

 ミーナが矢筒を軽く叩く。

 「見られるものは見せよう」

 俺は南の配給所の側で、紙を一枚高く掲げた。

 《公開・簡易指標:列の平均待ち時間/一人当たりの受取重量/再来列率》

 数字は筆で書く。粗いが嘘はつけない。

 人の顔が見るのは数字ではなく、自分の待ち時間だ。

 列の末が揺れ、ささやきが波になる。「うちの区画、再来列が三割?」「北はゼロ」

 騒ぎは望まない。だが可視化は必要だ。

 セラが真ん中から一歩出て、声を調える。

 「公開は許容。扇動は不可。――いまは見るだけ」

 見ることが、足りない街には最初の呼吸になる。


 財務院の使いがまた現れた。

 「謁見の刻」

 黄金の尖塔が近づく。

 宮城はさらに白く、さらに金い。目に刺さる華麗だ。

 広間に導かれるまでに、帳簿と印と身の検が三度。倉の転送は封じられていないが、緊急以外は狭い。

 「息苦しい」

 リナが袖から指だけ出して囁く。

 「息の仕方も教えてくれる街だから」

 俺は薄く笑う。檻にも呼吸はある。呼吸があるなら、鍵は回**る。


 謁見の間は広い。広さが権力を倍にする類いの広さだ。

 黄金の玉座は上にはない。真ん中の奥に低く座っている。王が高さでなく焦点で座る場所。

 左右に重臣、背に衛士、手前に床の広さ。

 俺は一歩、真ん中に入る。

 セラは半歩後ろに残り、印を袖で押さえた。

 リナはさらに半歩後ろで、手の汗を拭った。


 王の顔は若い。若さが怖いのではない。若さが無傷に見えることが怖い。

 声は低く、短い。

 「倉の主」

 呼びかけは名ではなく役だ。

 「第五鍵を我に差し出せ」

 広間の空気が、一秒、止まる。

 王は続けた。

 「汝の倉は、国家の心臓となる。街は管の先に置く。――継承を王に」

 財務院長ハルドは微かに微笑み、技術庫の灰の外套が壁際で揺れた。

 軍の肩章が光り、宗廟の僧が目を伏せる。

 王都の全部が、一言に乗ってこちらを押してくる。


 俺は喉の奥で鍵の音を聴いた。

 第四鍵は空を縫った。

 第五鍵は――渡すものではない。語るものだ。

 誰に渡せば街が強くなる?

 誰に語れば王が聴く?

 俺は一呼吸、街の匂いを思い出し、顔を上げた。


 「答弁を申し上げる。――鍵は在庫ではない。在庫とは信頼の形而上。第五鍵=継承は、鍵を渡すことではなく、開く場所を守る約束だ。王よ、継承の相手は個人でも官でもない。公共だ。街だ」

 広間は静かだ。

 黄金は光るだけで音を立てない。

 王の瞳だけが、少し近づいた。


 戦は剣より前で始まっている。

 檻は閉まっていく。

 なら、中から鍵を盗み続けるだけだ。


(つづく)

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