第19話「ロールバックの夜、素手で回す」
赤が消えない。
広場じゅうの端末miniが一斉に赤点滅してから、もう一刻が過ぎた。
《共有:無効化》《アクセス拒否》《権限移譲:王都外倉》――紙の刃は、剣より早かった。
ヴァルスは香油の匂いを濃くして、旗竿を肩に担ぎながら笑った。
「だから言っただろ、“代表戦”なんて遊びだって。現実は帳面じゃなくて命令で動くんだよ」
「命令でしか動かない現実は、長持ちしない」
俺が返すと、彼は肩をすくめて門外の幕舎へ消えた。王都軍の列は、騒がずに圧だけを増やしていく。「秩序のため」という名の重石を、静かに街へ降ろす手つきで。
共有が死んだ。
なら、街はどうやって呼吸する?
答えは古く、そして速い。
「――手作業モードに移行する」
俺は閲覧台の白布を払い、紙束を広げた。
《手作業モード:起動》
《紙の伝票/口頭伝達/回覧板/走り屋/伝書鳩》
《寄託台帳:三分冊(教会/監察宿/ギルド)》
《小倉:自律運転/相互融通→伝書鳩+走り屋》
セラが公証人の革袋を開く。認証印が三つ、銀の輪に吊されていた。
「公証を貸す。真ん中は紙で通す」
「ありがとう」
「礼は明日。――今日は押す」
彼女は教会へ一つ、監察宿へ一つ、俺の手へ一つ、認証印を分けた。
印影は同じで、位置が違う。それが分散の意味だ。
「町内小倉は自律。相互融通は鳩と走り屋。番号を振る。鐘は三回が救命、二回が補修、一回が照明」
俺は短く、同じ言葉を何度も繰り返す。
人は新しい操作より同じ合図で速く動く。
リナが頷き、ガレンが柄で地面をコツンと叩く。ミーナは矢筒を軽く叩いて「走り屋班に入る」と言った。
紙が街に降った。
洗濯屋の婆は回覧板に「南井戸:ろ過布不足/炭求む」と書き、パン屋の親父は「一次発酵:夜の三刻に手返し」の札を店先に出し、鍛冶場の壁には「釘:短寸過剰/長寸不足」の紙が貼られた。
《紙台帳:小倉名/在庫/不足/余剰/連絡先(鐘・鳩・走)》
手で書いた癖が、久しぶりに街の表情になっていく。
走り屋のコースは路地の骨に沿って引いた。
「北東班、湯屋→学校→鍛冶→北井戸。西班、市場→医師→小倉西→南門裏。灯は夕刻前に油を足せ、芯は短く切る」
「了解!」
十代の足が石畳を軽く叩く。ミーナは矢筒を斜めに背負い、胸には小さな鳩小屋を掛けた。「鳩は二色の足輪で?」「赤は救命、青は補修だ」
伝書鳩は洗濯屋の裏庭と学校の屋根に仮舎を結い、軽い地図を胸に結んで飛ばせた。
口頭は短文に限る。「井戸→布」「灯→油」「釘→長」。覚えやすい言葉は、運用の最短路になる。
《心臓:確認》
《パン:一次発酵→夜の二刻・三刻・五刻に手返し/石釜の残熱→温度管理は手の甲で》
《井戸:ろ過→布→砂→炭→石→布/順番は厳守》
《夜間灯:点灯→菜種油・紙芯/風の通り道に背を向ける》
走り屋が砂を運び、鳩が「炭」の字を連れて飛ぶ。
倉は黙ったが、街は話す。
倉庫は人の頭と脚でも動く――それを、今、実演する。
深夜。
王都軍は約束どおり静かに過たない。威力偵察の延長――夜襲だ。
装備の一極集中ができないぶん、街の各路地はそれぞれに工夫する。小戦場は無数に生まれ、無数に終わる。
南門通りでは、ガレンが民家の塀を即席の鉄枠で抱くように補強した。
「ここ、釘が足りない」「長寸は西の鍛冶から」「走る!」
鉄枠は継手の角を舐めるように曲げ、家を抱える腕に変わる。折れない柄を作る男は、折れない壁も作る。
塀の内側では老人会が「さあ、鍋蓋!」と立ち上がる。
槍柄は刃がない。鍋蓋は盾のまま。
「叩くんじゃない、押すんだよ」
老人会の列は乱れず、押す。
押すと、来る側は止まる。止まると、来ない。
西井戸路地では、子ども班が鳴子紐を張った。
カラカラ――深夜に似合わない明るい音が、侵入の影を暴く。
「こら、鳴子を低く、猫も鳴るぞ」
「猫も敵だよ」
「……まあ、そうね」
彼らの笑いは短い。けれど、怖さを棚に入れるのに十分だ。
走り屋は矢より速く、声より確かに、路地を繋ぐ線になる。
「布→南井戸!」「油→灯班!」「釘→長寸!」
短文は命令ではない。手の動きだ。
リナは縦横無尽に走った。
貸与も共有もない夜に、彼女自身が瞬間援護の塊になる。
崩れそうな場所へ、砂袋を一つ。火瓶(連鎖防止型)を一つ。包帯を二本。
「三時方向、押してきてる!」
「押し返す!」
短剣は刃としてより、指示棒として役に立った。入りと出を指す。道を作る。
狭い路地の奥で、リナは祈りの声を踏んだ。
僧侶アーヴィンが、闇鐘を低く積む。
「君は――祈りを盾にしているだけだ」
彼はそう言い、数珠を一つ落とした。
リナの足が半歩、遅れる。
「祈りは誰のため」
「正義のため」
「それ、よく燃える」
彼女は、言い返す言葉を一瞬落とした。
影がすく。
アーヴィンの目は冬の川だ。
「倉の主に従え。街は救われる」
「私は――」
言葉が迷う。
その時、路地裏の軒下で、母子の姿が見えた。
母親は袖で血を押さえ、子どもを庇いながら、止血粉を探している。
共有のラベルは消えている。棚も灯も落ちた。
けれど、紙袋に止血粉は入っている。走り屋が置いたもの。手が運んだもの。
リナは迷いを棚から抜いた。
「祈りは、守る人の背中でしろ」
短剣がぶれない。
影の結びを切り、闇鐘の振幅に踏む。
アーヴィンは一度だけたじろいだ。
「……“倉の女**”」
「倉ではなく、街」
彼女は背中で母子を庇い、前へ出る。
祈りは、背で聞くと強い。
知恵は戦の合間に走る。
倉が黙った夜、不足は交換で埋める。
「――欠けているものを表に出す」
俺は走り屋と怒鳴り屋(声がでかい係)に合図を飛ばし、各小倉の前に木札を立てさせた。
《木札:□不足/□余剰/□交換希望/□受取先》
「書け。見ろ。持っていけ。――返せはあと」
公開交換市は、宣言しないうちに始まる。
夜半、広場の片隅に布が敷かれ、釘と縄と古布が山になり、明け方には医薬と灯用油の瓶が歩いて集まり、朝には**“自然と”整っていく。
共有のUIは消えたけれど、共有の精神は残った**――それが、目に見える。
セラが公証台の印を押しながら、低く呟いた。
「市有は紙で作れる。心の所有は――景色で作る」
「景色が回るなら、数字はあとでついてくる」
俺は紙を束ね、走り屋に渡す。
「走る道は短いほうがいい」
「はい!」
短い返事は、長い夜に効く。
夜明け前。
心臓は動いている。
《一次発酵:三回目手返し→完了/焼き待ち:二刻後》
《井戸ろ過:南井戸→稼働/西井戸→稼働》
《夜間灯:点灯率 0.82/芯交換待ち:0.11》
数ではない。人の動作の累だ。
倉が数字を出さないなら、目で数える。耳で遅れを聞く。鼻で腐りを嗅ぐ。
両手を縛られても、頭と脚は残る。
そのとき、走り屋の笛が音を変えた。
鋭い二連。
広場の空気が下を向き、視線が上を向く。
城門の向こう、王都軍の列の後で、黒い車輪が四本、ぎいと軋んだ。
「……投石器」
セラの顔から血の色が落ちる。
「重装投石器。城攻め兵器」
石は壁を砕くためにある。人を殺すための兵器より、街を殺すための兵器だ。
壁が崩れれば、終わる。
秩序入城ではなく、破城。
昨夜の勝利は、朝の石で消える。
ガレンは槌の柄を握り直し、リナは包帯を固く結び直す。
ミーナは矢筒を確認し、矢の残を正直に数えた。
老人会は鍋蓋の紐をもう一度締め、子ども班は鳴子紐をもう一本張る。
人は準備をする。
だが、石の軌道は、準備だけでは曲がらない。
俺は空を見上げた。
白んだ光が、まだ色を持っていない。
倉の最奥で、鍵穴が密度だけを増している気配がした。
――第四鍵。
名のない層。
骨を抜かれた街に、筋を通すための何か。
「第四鍵、応答してくれ」
声に出した。
祈りではない。運用の呼び声だ。
倉は黙っている。
それでも、呼ぶ。
紙と人と灯で線を保ちながら、空へ鍵を差し込む動きを、俺は想像の中で何度も繰り返した。
石が、上に上がる。
街は、下で動く。
手は縛られている。足はある。声もある。紙もある。
そして――鍵がある。
回れ。
回す。
奪われる前に、街のものに。
奪われた後も、街で回す。
(つづく)
※ここまで読んでくださってありがとうございます。共有が死んだ夜でも街は呼吸できる――そう信じて走りました。もし「手作業モードの運用戦、燃えた」「市井の自律が熱い」と感じていただけたら、ブクマ&⭐評価&感想が次の補給になります。次回、重装投石器が火を噴く朝――第四鍵は応えるのか。紙と声と、“鍵”で、石の軌道を書き換えにいきます。




