第15話「宣戦布告、街の選択」
朝の光は、刃の縁のように冷たかった。
城門から広場にかけて、革の軋みと馬の息が途切れない。槍の穂先が同じ角度で揃い、王都の旗は赤い鳥の羽を高く揺らす。広場の石畳に、規則正しい影が格子を描いた。
白外套が、その影の上で一度だけとまる。
セラだ。いつもの灰色の瞳は、今日は細く、そして深い。
「……命令に従えば、街は守れる」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
「だが、街が街でなくなるなら、それは“守る”と言えるの?」と、誰かの声が広場の端で返した。
答えは風の中に消えた。セラは布告の羊皮紙を握りしめ、指先が白くなる。
「臨時本部は終わりだ!」
香油の匂いを濃くして、ヴァルスが旗竿を掲げる。王都の紋章が日光に剥がれ、広場の人々の目に焼けた。
「帳面の魔法も、地味な小細工も、今日でおしまい。王都の秩序が、ここに入る」
俺は壇に上がらない。広場の真ん中で、一歩も引かずに立つ。
「倉は街のものだ。俺のものじゃない。ここにいる全員のものだ」
《倉庫:広場モード/表示=“倉の所有:市民連名”》
白布に、昨日までに登録された市民の連名が淡く流れる。名前と、職の印。パン屋、魚屋、洗濯屋、鍛冶、子ども食堂、学校、町内会、診療所。
ヴァルスは鼻で笑った。「連名を集めたからといって、所有は王都法の外だ」
「意思は、外じゃない」
セラが肩を震わせる。視線は俺にも、ヴァルスにも、王都の槍にも向けず、真ん中に置かれた。
俺は手を上げた。
「――投票をしよう」
広場の空気が、ぴん、と張る。
「選んでくれ。王都に従うか、臨時本部を支持するか。だが、その前に数字を見てほしい」
《倉庫:公開パネル/“選択の影響”》
《王都直轄下:救急搬送+22分/夜間灯点灯率 0.89→0.41/給水(南区)−58%/配給決裁=王都軍司令部》
《臨時本部存続:救急搬送+3分(警備線のため)/夜間灯 0.89維持/給水 安定/決裁=市民・監察接続》
「数字は未来を保証しない。だが、選ぶ線を見せる」
軍列の前で、若い兵が眉をひそめた。
「……あの板は、嘘がつけないのか?」
セラが短く答える。「閲覧のみ。改竄不能」
沈黙を割ったのは、短剣の柄で空気を叩く音だった。
リナが一歩、前に出る。肩の包帯は新しく、目はまっすぐ。
「私は、倉庫に救われた! 腹も、心も!」
彼女の声は、パンを割る音みたいに気持ちよく割れた。
「買い占めの夜に、一日パックが手に入った。火の夜に、包帯が届いた。戦いで退路が焼けかけた時、盾の雨が降った。――誰のためでもない。街のためだった。私たちのためだった!」
広場の空気が、ほんの少し温度を取り戻す。
《投票:起動/小倉ノード→投票箱配布/“二択札”印字》
《条件:一人一票/掌紋・声紋・町内紐付/結果=監察宿ミラー公開》
屋台の屋根の梁に端末miniが灯り、紙の二択札が印字される。「王都に従う」「臨時本部を支持」。
「列を作って!」
リナが声を張り、町内会の面々が手を広げて通路を作る。
パン屋の親父が手粉を払って札を受け取り、魚屋の女将が小刀で糊の封を切る。
「選ぶのは、私たちだ」
……そのときだ。
城門側の列の一部で、金具が鳴った。
「秩序のための入城を開始する!」
王都軍の小隊が、強行突入を試みた。槍が斜めに傾き、盾の並びが市民の列に楔を打ち込む。
「下がれ!」
「押すな!」
叫びが立ち、木箱が倒れ、子どもが泣きそうになる。
ギルド仲間の若い連中が間に入る。鍛冶のガレンは素手で盾の縁を押し、弓手は矢を番えずに弦だけを鳴らして牽制する。
「セラ!」
俺が名を呼ぶと、彼女は一瞬だけ迷い、叫んだ。「兵は民を傷つけるな!」
だが現場の動きは、法より体が速い。
俺は《倉庫》の新しい棚に指を滑らせた。第三鍵――共有。
「解放」
《第三鍵:共有(Share)→即時モード》
《機能:端末保持者全員に“共有棚”アクセス権を一時付与/返却不要だが譲渡・転売不可/用途=“防護・救護・配布”限定》
《出庫:軽盾×200/足場杭×400/棒槍(非致死)×150/救急袋×100/携帯食(干しパン)×600/投光灯×30》
《条件:軍人への攻撃=禁止/押し返し・防護・避難誘導のみ許可/違反→即時回収》
広場の点という点で、光が弾けた。
屋台の下、井戸の縁、教会の階段、学校の塀の影――端末を持つ者全員の手元に、軽盾と棒槍と救急袋が現れる。
「盾!」
「こっち、杭!」
「食い物、列に回せ!」
非致死。押し返す。守る。配る。
槍と槍の間に足場杭が入り、押しの力の向きが変わる。
軽盾の列が波になって、市民の列を守る。
投光灯が昼みたいな明るさで広場の角を照らし、混乱の「影」が隠れる場所をなくす。
ギルドの若い連中がリナと並び、棒槍で槍の腹だけを押し、刃を使わない戦いに変えた。
「……なんだ、これは」
王都兵のひとりが目を瞬かせる。
セラがその肩に掌を置き、低く言う。「“共有”です。攻撃ではない。――あなたたちが押すなら、押し返すだけ」
刃は抜かれない。だが、勢いは止まる。
隊長は歯を食いしばり、槍を下ろさせた。「撤収!」
人の波の高さが、ゆっくりと元の高さに戻る。
泣きそうだった子どもが、干しパンを齧りながら笑い始める。
その笑い声は、剣の勝利では聞こえない音だ。配れたときの音だ。
「投票をつづける」
俺が言うと、リナが頷いて列の端へ走る。包帯の端が風に鳴った。
パン屋の親父が札を箱に入れ、魚屋の女将がうなずき、洗濯屋の婆が杖で箱の横を軽く叩く。
紙の音は小さいが、意思の音は大きい。
夕刻。
《開票:監察宿ミラー/結果公開》
白布に数字が浮かぶ。
臨時本部を支持――多数。
広場の空気が、一瞬、音を失い、次の瞬間、息を取り戻した。
セラが震える指で布告をめくり、喉を整える。
灰の瞳は、まだ真ん中を見ている。
「市民意思を尊重し、臨時本部は存続とする」
その文言は、王都法の余白に書いたような綱渡りだった。だが、法は使うためにある。真ん中からも、端からも。
王都軍の列が、静かに形を変える。
槍の穂先が一斉に天を向き、馬の鼻息が落ち着く。
隊長が合図を送り、列は一時撤退の姿勢を取った。
その列の中で、金色がふと光った。
金髪。
剣。
勇者が、振り返る。
人垣の間にできた細い廊に、彼の視線がすべり込む。
「次は――王都そのものが敵だ」
宣告は、短い。だが音が重い。
「倉の主。剣は、お前の帳面に従う気はない。――王都は、王都の正義で来る」
彼はそれだけを言い、列の中に溶けた。
空が低くなる。
幕舎の枠が、城外で増えていく。
戦争前夜の匂いは、火薬草ではなく、墨と革だ。
セラは小さく息を吐き、停止ボタンを胸元に戻す。
リナは干しパンの袋を俺の手に押し付け、「食べて」とだけ言う。
「必要の順位では?」
「一位。あなたが倒れないこと」
「二位は?」
「灯。夜を明るくする灯。共有で骨を作る」
彼女は笑い、肩の包帯を結び直す。「三位は?」
「王都に“請求”を続けること。法で殴られたら、法で殴り返す」
《共有棚:稼働率 0.62/返却不要→規約遵守 0.97/転売検出 0》
《KPI:夜間灯 0.89維持/救急搬送+1分(投光灯導入効果)/市場滞留−23%》
数字は戦の準備に変わる。
在庫は筋になり、共有は骨になる。
要は、増えつづける。
ヴァルスは香油の匂いを薄め、旗竿をゆっくり下ろした。
今日、彼は勝てなかった。だが、彼の目は負けを覚えていない。次の火を探している。
セラは真ん中から一歩も動かず、ただ見る。
俺は閲覧台の白布を撫で、倉の奥の鍵穴に耳を澄ます。
《LOCK:第一鍵・第二鍵・第三鍵→開》
《第四鍵:……未表示》
まだ先がある。
選択の先に、戦があり、戦の先に、運用がある。
「――回す」
小さく、しかし確かに言う。
「奪われる前に、街のものにする。攻められても、回して勝つ」
リナが干しパンを半分に割って、俺の手に置いた。
パンは固いが、噛めば甘い。
広場の灯が、すでに夜の位置に点り始める。
戦争前夜は来た。
街の選択は、もう出た。
あとは、選んだ線を太くしていくだけだ。
(つづく)