第13話「僧侶の刃、祈りの裏切り」
屋根の上の夜は、路地より冷たい。
風は瓦の隙間で鋭くなり、音はひとつ高くなる。月の薄い光が、瓦の面を銀に磨いていた。
リナは瓦のへりに足をかけ、身を低くしていた。
下では財務院の使者とヴァルスが低声で交わり、庭木の影が会話にうなずくように揺れる。
(証拠は取った。あとはカガミに――)
首筋に、ひやり、と刃の呼気。
「こんばんは、リナ」
振り向けば、僧衣。柔らかな布の落ち方に反して、立ち姿は石の柱のように動かない。
元勇者パーティの僧侶、アーヴィン。
目は冬の川。声は祈りを通した鉄。
右手の短剣が喉に止まり、左の数珠が月を噛んだ。
「鍵を渡しなさい。あなたの街を助ける最短の方法だ」
「最短は、だいたい崖に続いてる」
リナは笑っているのに、体は一点も緩まない。
「祈りは、誰のため?」
「正義のため」
「それ、よく燃える」
アーヴィンの唇が、微かに動いた。
低い祈りの連ね――音ではなく拍。
「闇縛」
瓦の影が生き物のようにのび、リナの足首にまとわりつく。
冷たい重さ。
短剣が間合いを詰めてくる。
リナは身をひねり、刃の軌道を肩で外し、そのまま屋根の峰をすべる。
影が引く。
アーヴィンは追わない。数珠を軽く打ち合わせ、祈りを積む。
「闇の帯」
帯は空で結ばれ、リナの腕を捕ろうと輪になった。
「――貸す」
風より速い声。
屋根の端に、薄い光の縄が“置かれた”。
《貸与:瞬間ロープ×1/耐荷重 中/自動締結・自動解放》
「リナ!」
呼ぶ声に、胸の奥が一度だけ緩む。
カガミだ。
リナは光の縄を指でかすめ、反対の手で影の帯を握り潰す。
「借りる!」
瞬間ロープは彼女の合図で輪になり、アーヴィンの前足――影の踏み位置にすべり込んだ。
「――っ」
僧侶の足が半歩、瓦の溝で止まる。
リナはその一拍を全身で使い、反転。
光の縄が影と交差し、結び目が影の根を絡め取る。
《貸与フラグ:受領→ON/返却条件→自動》
アーヴィンの祈りがひとつ、切れた。
「……“倉”は、どこまで人の動きを読める?」
「一手だけ。二手目は人が決める」
カガミが屋根端に現れ、落ちない位置で膝をつく。
夜風が白いシャツの裾を鳴らす。視界の隅に半透明の板がひらき、縄のテンションが微細に表示された。
「呪いだ」
アーヴィンが低く言った。数珠の玉が、ひとつ落ちる。
「――お前の“倉”は、魂を喰う」
彼は右手をすっと開き、小さな羊皮紙を空に撒いた。
紙は夜風に乗って、市の屋根の間へ散った。
《虚報ビラ:“倉の貸与は魂の刻印”/“返せなければ子に請求”/“街は奴隷の柵”》
「信じる者は、救われる」
祈りは言葉より速く、恐怖は数字より速い。
下の路地で目を上げた数人が、その紙片を拾い、読み、震える。
「やめろ」
カガミの声が、今度は鋭かった。
《倉庫:公開反証/“貸与仕様”→屋根上幻灯》
屋根と屋根の間に薄い幕が張られ、倉の仕様画面が昼のように明るく浮かぶ。
《貸与:在庫番号・材質・劣化ゲージ・返却期限》
《禁止:魂・血・嗣の紐付け→未実装》
「呪いじゃない。棚卸しだ」
声は冷たく、しかし震えていた。
「魂に触れる機能は、作っていない。在庫と期限だけだ。子どもにも、名にも、触れない」
アーヴィンの瞳が細くなる。
「仕様は、書き換えられる」
「書き換えない。――見ている者がいる」
カガミは屋根から指を下ろす。
下で白外套がゆらぎ、セラが停止ボタンを掲げた。
「不正があれば止める。私が見る」
アーヴィンの数珠が、もう一度、鳴った。
「では、見えなくしてやる」
祈りが裏返り、空気が低く鳴る。
闇鐘――視の上に掛けられる布。
屋根のあいだの幻灯がざらつき、倉の板が波打った。
下の広場では、虚報ビラを手にした誰かが、叫ぶ。
「やっぱり呪いだ! 見えなくなった!」
混乱が走る。
「カガミ――!」
リナが身体で割り込む。
アーヴィンの短剣が光の縄を避け、今度は人を狙う。
斜め。
短い赤。
リナの肩口に、熱が走り、布が割れる。
カガミの喉が詰まった。
「――っ」
身体が考える前に動く。
《貸与:折り盾(短)×3→重ね雨》
《貸与:止血粉+圧迫帯/滅菌水》
折り盾は雨のように降り、闇鐘の布を押し返す角になる。
「退けない」
リナは低く笑う。
血の匂いは戦の匂いに似て、しかし甘い。
「要は、折れない」
彼女の足が僅かにふらつく。
カガミは彼女を抱きかかえ、屋根の安全角へ引いた。
胸の奥で、焦燥が形を持つ。
数字でも在庫でもない、裸の焦り。
「……ごめん」
「謝る順位は最下位。手当、一位」
言い合いの短さが、二人の長さを証明する。
アーヴィンは、屋根の峰で一度、祈りを畳んだ。
「“倉の主よ。王都の正義に従え」
「正義は、顔を選びすぎる」
カガミは彼を見ない。リナの肩を押さえ、止血帯を締める。
《止血:圧迫→十分/感染リスク→後処置必要》
風が、闇鐘の布を裂き、幻灯の板が戻る。
セラが下から短く手を振った。
「見える」
アーヴィンは退路を測り、夜に溶けた。
光の縄が自動解放で瓦に戻り、折り盾は一枚だけ、屋根の隅に残った。
《貸与:リナ→返却 1/延長 0/医療→補助請求(翌朝診療)》
虚報ビラは街中に散らばり、いくつかは井戸端に、いくつかは教会の掲示板に、いくつかは子どもの手に。
夜の騒ぎのあと、カガミは広場に立った。
「見せる」
閲覧台の白布は夜間反転。
《公開デモ:倉庫内部(幻影)》
《棚:在庫番号/温度・湿度/劣化ゲージ/タグ(用途・緊急性)》
《貸与→出庫→返却→請求→履行》
「呪いじゃない。棚卸しだ。魂には触らない。物と時間にしか触らない」
パン屋の親父が腕を組む。「返せなくなったら?」
「請求が立つ。労務か物資で返せる時に返す。“子”に請求は飛ばない」
薬屋が頷く。「胃薬は?」
「無償。寄付は別ライン」
洗濯屋の婆が言う。「帳面は?」
「公開する。偽造はできない。監察が止める」
安堵の息が広がり、しかし遠くに王都の影が立っている。
「王都は本物に見える嘘を使う」
セラの声は、真ん中から響いた。
「虚報は王都が流している。倉は“単一資産”として取り上げやすい。だから市井に分けた。――時間は、こちらにある」
そのとき、空気が鈍くたわんだ。
闇鐘。
僧侶の妨害が、広場にも降る。
幻灯の板がざわつき、数字が滲む。
「やっぱり――!」
動揺の声。
リナが肩の包帯を押さえながら、前へ出た。
「離れて!」
刃が影を切り、布を裂き、闇鐘の端を掴む。
咳。
血が、包帯をじわりと濡らす。
カガミの視界が赤く縁取られる。
「もういい!」
腕を掴み、身体を抱き上げる。
リナの体温は戦の温度で、生命の温度だ。
焦りが名前を持つ。
――リナ。
広場のざわめきが一拍止まり、倉の奥で、鍵穴が鳴った。
《自動通知》
《第二鍵:請求の正当化》
《状態:解放》
《条件表示:王都への最初の請求を行え》
《期限:――明日》
明日。
王都の請求に、請求で返せ。
数字で殴られ、数字で殴り返せ。
棚卸しで、正当を示せ。
カガミはリナを地面におろし、包帯の端をもう一度固く結ぶ。
「痛みの順位は?」
「二位。――一位は、あなたが勝手に消えないこと」
「消えない。明日まで、いや――その先も」
リナが短く笑い、目を閉じた。「たまに、格好いい」
「たまにでいい」
セラが近づき、白外套の裾で血を受けた。
「王都への請求。――条文は私が引く。根拠はあなたが出す。明日だ」
「出す。在庫で、数字で、人で」
夜が肺の底まで降りてくる。
虚報の紙が石畳で湿り、遠くの教会の鐘は鳴らない。
屋根の上では、折り盾がひとつ、月を受けていた。
鍵は、まだここにある。
請求は、これからだ。
(つづく)