第1話「追放と、空腹の少女」
街道の砂は、靴底に小麦粉のようにまとわりつく。
背中の荷は軽い。いや、軽くされたのだ。パーティの共有袋から俺の名が消えた瞬間に。
「在庫ばっか数えてる荷物持ちに、魔王は倒せねえよ」
最後にそう言ったのは、勇者の笑顔だった。拍手のように軽い、空っぽの肯定。
言い返さなかった。言い返すための言葉は、いつだって必要数だけ棚に並べてから取り出す。だが、今日に限っては棚が空いていた。
だから俺は、何も言わずに背を向ける。砂と風と、夕立の匂いのする空だけが、俺に味方した。
視界の隅で、半透明の枠が瞬いている。
《倉庫:在庫表示/温湿度安定(低)/損耗リスト:干し肉×4、水袋×2、麻布×6……》
俺のスキル《倉庫》は、入れて、出す。ただそれだけだと、彼らは決めつけた。だが俺は知っている。正しく入れて、正しく出すことは、世界の形を変える。
城壁の低い街が見える。夕陽に照らされた門柱は、塩の柱みたいに白い。門の前に、人の影が一つ転がっていた。
「……おい」
近づくと、少女だった。革の軽鎧。細い肩、細い指。頬に土がついて、唇が干からびている。
俺は躊躇せず《倉庫》に触れ、指先で「水袋」を引き出す。温度管理は、涼。口を開けば、喉が勝手にごくりと鳴った。飲むのは彼女だ。
「……っ、……だれ」
声は紙切れみたいに軽かった。
唇に少しずつ当てる。噛みつくように飲むのを、掌で支えながら速度を落とす。胃が驚かないように。干し肉を、爪の先ほどに小さく裂いて舌に置く。
《仕分け:可食部抽出(小)/湿潤化》――干からびた繊維に、倉の中の湿り気が移る。少女の眉間の皺がほどける。
「助かった……ありがと……」
礼の言葉は、空腹の腹が鳴る音に掻き消された。
笑ってしまい、俺はもうひとかけ渡す。
「私はリナ。傭兵。今日は、仕事がなかった」
「俺は……カガミ。荷物持ち。いや、元だ」
眼差しが、たしかに俺を測った。人を測るときの、真面目な目だ。
「元? 追放?」
「そう聞こえるのか」
「傷の位置で分かる。背中の、刃の跡が浅い」
たいした観察だ。俺は苦笑し、肩をすくめる。
門衛がこちらを見ているが、食い入るようでも、追い払うようでもない。街は疲れている。飢えた犬のように。
「宿、ある?」
「金は、ある」
「じゃあ一番安い床に、二人で半分寝よう」
「それは、安いのか?」
「半分こは、いつだって安い」
彼女はひゅっと笑って立ち上がると、すぐ膝を折った。力が抜けている。俺は肩を貸し、門をくぐる。
街は、薄い潮の匂いがした。井戸のそばには、人が列を長く伸ばしている。桶を抱えた老婆が、舌打ちをした。
「また油だよ。膜が浮く。腹が下る」
「油?」
「染め物屋の連中が、またやったんだよ。役人は見てるだけ」
列の途中で、子どもが泣いた。舌に白い苔。熱。俺は小さく息を吐いて、《倉庫》を開く。
《サンプル採取》――井戸の水を小盃に汲んで倉へ。画面の端が黄色く点滅する。微量毒性。
《仕分け:濁り分離(微)/有害層タグ付け》
透明な層だけを取り出して、子どもの口元にそっとあてがう。母親の目が、大きくなる。
「お代は、いい」
「……神さま」
「神ではない。荷物持ちだ」
夜までに、宿代くらいは何とかなる。
露店の端で、傷んだ果実の箱を安く買う。リナは眉をひそめたが、俺は首を横に振り、箱ごと倉に沈めた。
《仕分け:可食部抽出(中)/損耗停止》
掌に転がってきたのは、瑞々しさを取り戻した果肉。ナイフで薄く切り、串に刺す。甘い匂いが夜の通りにしみて、人の足がゆっくり止まる。
「一切れ、銅貨一枚」
「傷んでたはずのが、なんでこんなに……」
「倉の中は、腐らない」
十本、二十本。リナが器用に声を張って、子どもに笑いかけ、老婆におまけをし、たまに俺に目で合図を送る。
「うそつき」
「何が」
「元荷物持ち、って。あなた、運用人だ」
「言い換えだ。地味だが、長く効く」
宵の深いところで、ギルドの掲示板を見に行った。板屋根の下には、手書きの紙がたくさん貼られている。
“飲用水の異臭調査(小口) 報酬:銅貨十枚/家庭ごとの巡回と対処法の提案”
“井戸の掃除 報酬:桶二つ分の水”
“外壁のひび 報酬:パン一斤”
銅貨十枚。安い。だが、命に直結している。
「やる」
俺が言うより早く、リナが紙を剥がし、受付小屋へ駆けた。細い背中が、やけに頼もしい。
戻ってきた彼女は、紙を胸に抱いて言う。
「明日の朝、洗濯屋の婆ちゃんのところに行くって。あなたの……その、倉、井戸に効く?」
「水は、混ぜ物の塊だ。分ければ飲める部分がある」
「えらい」
「普通だ」
「普通が、誰にもできてないから偉いの」
宿は、ほんとうに安い床だった。藁は湿っぽく、窓は風で鳴った。
眠る前に、倉の奥に目をやる。
《在庫:干し肉×3、水袋×1、麻布×6、薬草粉×2、砂×……》
乾いた数字は、明日の段取りに変わる。水は足りない。砂は多い。炭も欲しい。布は煮沸する。
「ねえ、カガミ」
藁の向こう側から、リナの声。
「うん」
「追放、痛かった?」
「痛みは、だいたい手当て済みだ」
「心のほうは」
少しだけ、返事に時間がかかった。
「在庫は、欠けたときに見える」
「何が?」
「足りないものが、はっきり」
彼女は布を頭まで引き上げる気配を見せて、笑った。
「じゃあ、明日埋めよう。足りないもの」
「埋めるんじゃない。回すんだ」
「難しいこと言う」
「簡単だよ。正しいところに、正しい数だけ置く」
眠りに落ちる直前、軋む階段を上がる足音がした。二足。止まる。
扉の隙間に、油の臭いが入り込む。
リナが寝返りを打つ瞬間、俺はそっと指を伸ばし、《倉庫》の外に小さな罠を置いた。
《即席鳴子(微)/設置》
次の瞬間、からん、と小さな音が鳴る。沈黙。気配は遠ざかった。
朝、井戸の縁に腰をかける洗濯屋の婆が、皺の深い目でこちらを見る。
「おまえさんが、倉の子かい」
「倉の子ではない。持ち主だ」
「なら、うちの子の腹を収めておくれ」
井戸に桶を沈め、透明な層だけを倉に受ける。毒性は微弱だ。外からの流入なら、配管のどこかで色が変わる。
「下水の分岐を見たい」
「鍵は、あたしが持ってるよ」
婆が錆びた鍵束を揺らすと、リナが嬉しそうに笑った。
「おばあちゃん、かっこいい」
「褒めてもパンは出ないよ」
「パンは、私たちが出すから」
下水の分岐は暗く、湿っていた。鼻にくる甘い臭い。染料。
《サンプル採取》――三色。青、赤、黒。濃度が違う。流入時間も違う。
俺は倉の画面に並ぶ波形を見て、最も濃い黒の線を指で弾く。
「夜。店が締まった後に、黒が増える。ここに、捨てている」
分岐の先、空気の流れが変わるところで小型のスライムが這い出てきた。リナが一歩前に出る。
「任せて」
短剣が光り、粘体が二つに割れて、水の音に戻る。
「うまいものだ」
「お腹が空いてるから、早く終わらせたいだけ」
地上へ戻ると、ギルドの前に人だかりができていた。貼り紙一枚。でかでかとした文字。
“臨時ろ過装置の設置、撤去せよ。ギルドの許可なき公共設備の運用は禁止とする”
リナの肩がぴくりと動いた。
「昨日の……あなたが作ったやつ、壊されたの?」
「夜の足音は、たぶんそれだ」
俺は深呼吸を一つして、広場の石畳を見渡した。日向と日陰の境目。風の向き。人の流れ。
倉の中で、在庫が自動で前面に浮かぶ。
《布(粗)×12、砂×50、炭×8、石×若干》
「撤去するなら、数を増やそう」
「は?」
「壊されたら意味がないように、壊しても意味がない数にする」
リナは、ゆっくり笑い、肩の力を抜いた。
「好き。いや、そういう意味じゃなくて、考え方が」
手順は単純だ。布を敷き、砂を載せ、炭を挟み、また布を敷く。石で枠を組み、流れを細くする。
《複製設置:ろ過槽(小)×6》
人々が目を丸くする間に、同じ形が石畳に並ぶ。小さな川が、街角を縫い始める。
「誰にも壊せない数、ってあるんだ」
「ある。壊す側が飽きる数だ」
午後、最初のろ過槽から透明な水が出た。子どもが歓声を上げ、老婆がひしゃくを掲げる。
夕方までに、腹痛の子の顔色が少し戻る。
人を救うのに、俺は剣を抜かない。抜かなくても、街は護れる――それを、今日という日に棚にしまった。
日の落ちる頃、ギルドの高い窓に二つの影が並んだ。ひとりは、昨日掲示板の前で俺を睨んだ商会の若頭。もうひとりは、見慣れない背の高い人影。
風が一度、遠くから笑った気がした。
リナがそっと袖を引く。
「見て、外壁」
城壁の向こう、平野の端に黒い粒がいくつも揺れている。
「魔獣?」
「群れだ。風向きが変わった」
掲示板の端に、新しい紙が打ちつけられる。
“外壁周辺に異常反応。夜間、注意。防衛準備”
墨が乾ききる前に、風が持ち上げ、紙の端をちぎった。
俺は倉の奥に目を向ける。
《在庫:矢羽素材(蔦布)×少、古油×中、包帯布(未処理)×多》
足りないものが、またはっきり見えた。
回さなければならない。壊されても、壊され尽くせない量で。
リナの横顔は、いつもより少し硬い。だがその目は、まっすぐ前を見ていた。
「行こう」
「どこへ」
「外壁。戦場は、倉が好きな場所じゃないが」
「倉の在庫で、戦場を嫌いにしてやろう」
門の陰から、油の匂いがふっと濃くなる。
夜がくる。数字が、風の中で揺れる。
――在庫を正しい場所へ。まずは、矢と、火と、包帯だ。
(つづく)
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作者メモ:
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