三之章 追憶に咲くは淡紫
七年前。
母の葬列が去ったあと、紫乃はひとり、本邸の庭の端に座っていた。
参列者の着物の裾が音もなく流れていき、香の匂いが冷たく漂う。そのすべてが、紫乃には遠く、虚ろだった。
古今和歌集を手に握り、母が最後に読んでくれた頁を開いた。
「……忘らるる 身をば思はず──」
かすれた声で、口の中だけでつぶやく。
涙が、知らずに頬を伝っていた。
(だめ、なのに……)
泣いてしまえば、母が本当にいなくなってしまうようで。すがるような想いを、ただ和歌に重ねるしかなかった。
「紫乃さん」
不意に、静かな声が響いた。
顔を上げると、庭先に少年が立っていた。十四ほどの年頃、藤宮家の末席として神祇院から弔問に訪れた藤真だった。
彼の瞳が、まっすぐに紫乃を見つめていた。涙で濡れた自分の顔が映り、慌てて目を伏せた。
すると、藤真はおもむろに手を伸ばし──指先でその涙をなぞった。肌に触れる手のひらは、驚くほど温かかった。
「我慢する必要はない。悲しいときは、泣いてもいい」
藤真は、紫乃の膝にある和歌集に目を落とした。
「さきほど、和歌を読んでいただろう。もう一度、聞かせてくれないか」
紫乃は滲む視界のなかで、諳じた。
「……忘らるる身をば思はず……誓ひてし人の命の、惜しくもあるかな」
「右近か」と藤真が囁くように応じた。
「……あの和歌、好きでした。お母様が、ときどき口にしていたのです」
紫乃は目を伏せた。
「お母様は何も言わずに微笑んでおられましたけれど……お父様は……お妾さまの方を、お慕いになっていました」
言葉の先に、静かな痛みが滲んでいた。
「それでも、お父様の身を案ずる母が……忘れられなくて」
一陣の風が、藤棚の葉を揺らす。
「私もあなたと、同じような身だ」
「……あなたも?」
小さく尋ねた紫乃に、藤真はわずかに頷いた。
「……母は、私が五つのときに亡くなった」
藤真の視線が、ふと遠くを見やる。
「記憶はおぼろげだ。だが、ひとつ覚えている。母は父に忘れられても、なお愛し続けた。愛とはそういうものだ、と──幼い私に、静かに教えてくれた」
藤真はそう言って目を細めた。
「そうでいらしたのですね」
紫乃はそれから何も言わず、ただ藤真を見つめていた。
偽善でも、同情でもなく。人の心に、黙って寄り添おうとする眼差し。
藤真は気づいた。
ああ、この娘は、美しい。
痛みに寄り添う、その在り方ごと。
「君は、強いな」
藤真は、ふと漏れるように呟いた。
そして、紫乃の背後に目を向け──その瞳が大きく見開かれる。
「……あれは──」
藤真にしか見えていなかった。
紫乃のもとに、白紫の花びらをまとった淡い光が、ふわりと舞い降りる。
それは、紫苑の花精だった。
神に仕える者として敬われる、静謐で、気高い存在。
「君は、神に選ばれているのだね」
紫乃は戸惑いながらも、黙って頷いた。紫乃にとって、そのときの彼の眼差しは、嘘偽りのないものに見えたのだ。
──その一部始終を、廊下の柱の陰から見ていた少女がいる。撫子だ。
薄闇に浮かぶ横顔に、炎のような感情が滲んでいた。栗色の髪が、わなわなと震える。
(……藤真さま? どうして、姉さまにあんな目を向けるの?)
藤真。その姿は、あまりにも美しかった。
凛として、孤高で、優しさのなかに冷たさを秘めている。
まるで、神の落とした宝石のようだった。
(わたしのものにしたい)
たった一度目にしただけで、撫子の中の「欲」が、ゆっくりと目を覚ました。
胸の奥がじわじわと焼けていく。
(わたしを見て。姉さまじゃなくて、わたしを)
それは願いではなかった。命令に近い、切実な呪い。
姉の名が、心の底で腐っていく。
──正妻の娘、神の加護を受けた女。
今まで、姉さまの肩にだけ、花精が宿ると囁かれてきた。「妾腹の子に、神など降りぬ」という声も、風に混じって聞こえてくる。
それなのに、実際はどうかしら? 姉さまはどこまでも地味で、声も小さくて、愛想もない。
ぎり、と奥歯が鳴る。爪が掌に食い込む。
(わたしのほうが、ずっと美しいのに)
(ずっと愛されるべきなのに)
暗がりの中で、撫子は小さく笑った。
(わたしが、藤真さまを手に入れる)
まだ紅も差していない唇が、静かに歪んだ。
可憐な姫君の姿の奥に、欲と執念が根を下ろす。
──それは、花ではなく毒草の芽吹きだった。
その夜、撫子は母の部屋を訪れた。
「……もっと綺麗にして。誰よりも、いちばん、綺麗な子に」
鏡台の前、椿油の瓶が傾き、櫛が静かに髪をすく。
「妾腹でも、あなたなら誰もが目を奪われるわ」
母は絹のような声で囁き、娘の髪に椿油をなじませた。
うつくしい女だった。
その身ひとつで、正妻の座にある女を焦がし、父の心を攫いとった人。
私は、その娘。
この血は、敗れた者のものではない。
撫子の胸の奥に、じんわりと熱が灯る。
私は美しくなる。欲される女になる。
彼を手に入れる。あの光を、この手で引き寄せてみせる──たとえ、すべてを賭しても。
鏡に映る自分の顔が、ふっと微笑んだ。
艶やかな髪、血色の宿った頬、形のよい唇。
女としてのすべてが、今この瞬間から、戦の武器となる。
爪の先まで染みわたるような欲望が、甘く、濃く、夜の闇に溶けていった。
そして、現在──。
「紫乃さま、今日はこれをお召しになっては?」
女中の手が差し出したのは、薄紅の小袖だった。
染めや刺繍もあでやかで、撫子の好む華やかな趣きのもの。
紫乃は、すこしだけ困ったように首を傾げた。
「……その着物は、妹のものでは?」
「ですが、撫子さまは『気にしないから着せてあげて』と仰っておりましたよ」と、女中は楽しげに微笑んだ。
紫乃は、おそるおそる袖を撫でた。淡い桃の花が咲く小袖は、撫子の華やかさを映すようだった。
自分には似合わないと知りながら、ほんの一瞬、妹のまれな優しさに胸が温まった。
「それに、藤宮さまがいらっしゃるのですよ? 少しでも映えるお姿でお迎えしたほうが……」
その名に、紫乃の胸がどきりと高鳴った。