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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

しずくの向こうに

作者: あゆみ


"雨の日"は嫌い…大嫌いだ。数年前のあの日を忘れたこともない。

それは高校受験に向けて塾に向かう途中だった。ポツポツと雨が降り出した。ーーーやっば。そう思いながらも帰る時間もなく塾に向かってた時だった。一件の通知が来た。母からだった。“雨降ってきたね.傘持ってないでしょ?今日外食の日だからついでに迎えに行くよ”嬉しくてついニヤニヤが止まらなかった。

塾の授業も順調に進み終わる頃また一件の通知がなった。今度は父からだった。“迎えに行くね”またもやニヤついてしまった。塾の先生と話しながら待ってた…だけど来たのは《非通知》だった。

嫌な予感が過ぎりながらも出たら警察と名乗る人からだった。

『あみさんですか?』そう言われ答えると

『ご両親と弟さんが交通事故に巻き込まれ今警察病院で死亡が確認されました…来れますか?』と伝えられた。まさにーーー予測的中ーーーーだった。『少し遠いとこにいるので遅くなりますが向かいます』とだけ言って携帯を切った。

私には祖父祖母はもうとっくに他界してていない。

ーーーこれから先の生活どうなるんだろうか…。

そう思って電車の駅に向かい乗った。他の人の視線なんか気にせずただぼーっとしていた。

乗り過ごした為乗り換えて警察病院に向かった。

着くにつれて重くなっていく足取り。

案内されたのは一つ一つのベットに横たわる顔を布で隠された両親と弟。

それからの記憶がない。それほど警察の方からの話も耳に入らず言われるがままに動いてた。

連れてこられたのは陽だまり児童養護施設だった。ーーーー1人になったんだ。とは思えたけれど悲し泣きなどの涙はでてこなかった。


陽だまり児童養護施設の門をくぐったとき、私はまだ何も感じていなかった。

ただ足が動いて、体が進むから進んでいた。

職員の人の言葉も、部屋の案内も、窓から差し込む光も、全部ぼやけていた。


「ここが今日からあなたの部屋ね」

そう言われて案内された部屋には、白いカーテンと木製のベッドが二つ並んでいた。


もう一つのベッドには、私と同じくらいの年齢の男の子が座っていた。

うつむいたまま、何かをいじっていて、私には気づいているのかどうかもわからなかった。


私は声をかけるでもなく、ただ空いているベッドに腰を下ろした。


窓の外では、まだ雨が降っていた。

しとしとと…あの時のままの音で。


私は目を閉じた。何も考えたくなかった。

でも、頭の中には母のメッセージが何度も流れていた。


「雨降ってきたね。傘持ってないでしょ?」


その声が、耳の奥で何度も繰り返される。

そして、次の瞬間にやってくるあの《非通知》の音。


心がぎゅっと痛んだけれど、やっぱり涙は出なかった。


「……泣かないんだな」


突然、低い声が聞こえた。

顔を上げると、隣のベッドの男の子がこっちを見ていた。

黒髪が少し濡れていて、雨の中から帰ってきたばかりのようだった。


「俺は、最初の日、泣けなかった。涙なんて、どっかいってた」


彼はそう言って、視線を窓の外に戻した。


「だから、無理に泣かなくてもいいと思うよ」


私は何も返せなかった。

けれど、誰かがそう言ってくれたことだけが、少しだけ、胸に残った。

朝は、どこからか聞こえる小鳥の声で目が覚めた。

薄く光が差し込んで、カーテン越しに空が少しだけ明るくなっていた。

いつもなら、学校のチャイムか、母の声で起きる時間。

でも、ここにはもう、あの声もチャイムもない。


隣のベッドから、微かな衣擦れの音が聞こえた。

顔を向けると、昨日の男の子がすでに制服に着替えて、ベッドの上でスニーカーの紐を結んでいた。


「あ、起きた?」


彼は、昨日より少しだけ柔らかい声で言った。


「……うん」


それが、今の私に出せる精一杯だった。


「俺、佐久間さくま 茂樹しげき。高校一年」


彼は立ち上がりながら、そう名乗った。

まだどこか不器用な声。でも、それがかえって自然で、嘘のない感じがした。


「……あみ。川島 あみ。中学三年」


「そっか。じゃ、先輩ってことだな」


冗談めかしたような、でもどこか気を使ったような笑い方だった。

私は少し戸惑って、でも、返すように小さく笑った。


施設では、朝ごはんの時間になると、それぞれの部屋から子どもたちが食堂に集まる。

食堂は意外と広く、長机がいくつも並び、皆がそれぞれのグループで食べていた。


「こっち、空いてるから一緒に食べよ」


茂樹くんがそう言って、私を案内してくれた。

私は少し緊張しながら、彼のあとについてテーブルについた。


「ここ、朝は和食が多いよ。パンもあるけど、みんな和食のほうが腹もつって言ってる」


そう言いながら、彼は味噌汁の具をのぞいて、「あ、今日はなすか」と少し眉をひそめた。


「なす、嫌い?」


「うん。なんか食感がムリ」


私は少しだけ笑った。久しぶりに自然に出た笑いだった。


「川島さんは?」


「ん……私は別に平気。食べられる」


「そっか。じゃ、なす担当は任せた」


そんなふうに、他愛ないやりとりが少しずつ交わされていく。

私の心の中にできた大きな穴が、ほんの少しだけ、風の通り道を見つけたような気がした。


ご飯を食べ終わると、施設の人が声をかけてくれた。


「今日から学校の手続きね。茂樹くん、案内お願いできる?」


「了解っす」


茂樹くんは軽く手を挙げてから、私の方を振り返った。


「じゃ、いってみますか、新しい日常へ」


その言葉に、少しだけ胸がつまった。

“新しい日常”なんて、まだ実感できないけど——

でも、隣に誰かがいてくれることが、これからを変えてくれるのかもしれない。

そんな気がした。


学校に着いたのは、朝のHRホームルームが始まる少し前だった。

施設の職員さんが同行してくれて、担任の先生に挨拶を済ませると、私はクラスに案内された。


「今日から川島あみさんがこのクラスに加わります。みんな、よろしくね」


先生の言葉に、クラスの中で一瞬だけ静けさが流れる。

そのあと、小さな拍手がパラパラと起きた。


「川島さん、そこ、窓側の一番後ろの席ね」


私はうなずいて、言われた席に向かった。

いくつもの視線を背中に感じながら。


着席した瞬間、前の席の女の子が小声で「よろしく」と言ってくれた。

私は小さく「…よろしく」と返した。声はちゃんと出たか、自信はなかった。


授業はよく分からなかった。

ノートの使い方も教科書のページも、みんなのペースについていけず、ただ時間だけが流れていった。


そして、昼休み。


「川島さん、だよね」


教室の扉のところで声をかけてきたのは——茂樹くんだった。


「どう? 生きてる?」


「…かろうじて」


「よし、上出来。じゃ、飯行こ」


彼はそれだけ言って、教室の外へ歩いていった。

私はなんとなく、ついて行ってしまった。


中庭のベンチに座って、買ってきたパンを食べながら、茂樹くんがふと言った。


「午後、文化祭の実行委員決めあるらしい。……あんまり目立ちたくなければ、気をつけな」


「文化祭?」


「うん、もうすぐらしいよ。出し物決めとか、委員会とか、バタバタする時期らしい」


「……そういうの、苦手」


「まー俺も。けど、何やるかによっては面白いらしい。去年はうちのクラス、謎解き脱出ゲームだったんだって」


「へぇ…」


「やらないか?」


「え?」


「文化祭。ちょっとだけ、関わってみるの。実行委員じゃなくても、出し物とか準備とかで」


私は少し考えてから、首をかしげた。


「……知らない人ばかりだし」


「俺、いるけど?」


彼は軽く笑って、パンをちぎりながら言った。


「誰もいない場所より、誰かがいる場所の方が、案外、楽だったりするかもよ」


その言葉が、思っていたよりも、心に残った。


午後のホームルーム、先生が言った。


「さて、今年の文化祭、日程も近いので、今日から出し物決めと実行委員の選出を始めます」


クラスがざわつき始めた。

手を挙げる子、友達と顔を見合わせる子。私は、何も言わずに座っていた。


「じゃあ、実行委員、立候補いるかな?」


誰も手を挙げない沈黙の中、隣の席の男子がぽつりとつぶやいた。


「今年こそ、カフェやりたいって言ってたよな?」


「えー、でも予算足りる?」


そんな声が飛び交い始める。

それを聞きながら、私は手元の机の角をそっと指でなぞっていた。


「……出し物、何にする?」


突然、前の席の女の子が振り向いて私に聞いた。

驚いて視線を上げると、彼女はにっこりと笑っていた。


「文化祭、最初は面倒だけど、やってみるとけっこう楽しいよ」


その笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。


「……カフェ、いいかも」


自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。


「おっ、賛成一票!」と誰かが言い、それをきっかけに教室の空気が少しだけ明るくなった。


ああ、こうして少しずつ、私は“ここ”に馴染んでいくのかもしれない——

そんな予感が、心のどこかで、そっと息をしていた。


文化祭の準備は、思ったよりもにぎやかだった。


出し物は、クラス全員の多数決で「クラスカフェ」に決まった。

あみは最初、装飾係のグループに入ることになったけど、気づけば自然に「なんでも屋」みたいに、いろんなところを手伝っていた。


「川島さん、リボンこっちに回してくれる?」


「これって、吊るす高さってこのくらいでいい?」


最初は戸惑っていたけれど、手を動かしていくうちに、不思議と心も少しずつほどけていった。


誰かが必要としてくれる。

誰かが頼ってくれる。

それだけで、あったかい気持ちになれた。


茂樹くんはというと、買い出し係のリーダーをしていた。

学校の近くの商店街に何度も足を運んで、備品や飾りを集めていた。


「おい、重いからこっち持って!」


ある日、段ボール箱を両手に抱えて戻ってきた茂樹くんが、あみに声をかけた。


「いいよ、自分で——」


「いや、無理。もう指ちぎれるから。助けて」


「……わかった」


ふたりで段ボールを運んでいると、道に咲いていたコスモスの花が目に入った。


「秋だね」とあみがぽつりと言うと、茂樹くんは「うん」とだけ返した。


それだけの会話なのに、妙に安心した。


学校に戻ると、先生が入口で待っていた。

いつもはあまり笑わない、真面目そうな担任の先生だったけど、その日はふっと笑ってこう言った。


「ありがとう。川島さんも、もうすっかりこのクラスの一員だね」


その一言が、不思議と胸に残った。

“クラスの一員”。

何気ない言葉なのに、まるで魔法みたいに心があたたかくなる。


放課後、黒板にチョークで「Welcome Café」と書いていた男子が、ふと手を止めて言った。


「ねえ、川島さん、黒板のイラスト得意じゃない?」


「え?」


「昨日描いてたラフ案、めっちゃ上手かった。今日の黒板アート、手伝ってくれない?」


「……うん、やってみる」


あみはチョークを手に取り、黒板の端に描き始めた。

温かい光の中で、コーヒーカップと猫のキャラクターが浮かび上がる。


周囲から「すごい!」「プロみたい!」と声があがる。


その瞬間、胸の奥がぽっと灯るような気がした。

“私、ここにいていいんだ”。

ようやく、そんな感覚が芽生えた。


「ほらね? 楽しいかもって言っただろ」


いつの間にか隣に来ていた茂樹くんが、いたずらっぽく笑った。


「……うん。楽しい、かも」


あみはそう答えて、チョークを握る手に少しだけ力を込めた。

文化祭まであと一週間。

クラスの準備は大詰めを迎えていて、毎日がにぎやかだった。


あみも、毎日のように学校に残っては装飾をしたり、黒板に絵を描いたりしていた。

チョークの粉で手を真っ白にしながら、隣で茂樹がふざけて「芸術家」と呼ぶ。

そんなやり取りに、少しだけ笑い返せるようになってきた自分がいた。


——そんなある日。


「川島さん、今日、少し時間取れる?」


放課後、教室を出ようとしたとき、施設の職員が校門まで迎えに来ていた。


車に乗り込むと、静かな車内で職員は切り出した。


「実はね、里親の希望が出たの。あなたを迎えたいって」


あみの手が、膝の上でぴたりと止まった。


「……え?」


「正式な話はまだ先だけど、面談に進む可能性が高いわ。優しそうなご夫婦で、子どもができにくいから、あたたかい家族を作りたいって。…考えてみてね」


窓の外、流れていく夕暮れの景色が、どこか他人事のように見えた。


「……わかりました」


あみはそれだけ答えて、目を伏せた。



翌日。


いつものように学校に来たあみは、どこか心がここにないようだった。


「川島ー、昨日の黒板の猫、描いてくれたの? めっちゃかわいかった!」

「今日リボンつける? 手伝おっか?」


クラスメートはいつも通りに接してくれる。

でも、どこか、それが遠く感じた。


屋上で給食を食べていた時、茂樹がそっと隣に座った。


「……何かあった?」


「……何も」


「うそ。川島って、すぐ顔に出るよ」


「……そう?」


「……まあ、無理に聞かないけどさ。俺でよかったら、いつでも話して?」


そう言って差し出されたパック牛乳を、あみはしばらく見つめていた。

それから、そっと手を伸ばして受け取った。


——言えない。

言ってしまったら、きっとまた、今の時間が終わってしまう気がして。


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


文化祭当日。

校内は活気に満ちていて、あみのクラス「Welcome Café」にもたくさんの来客が訪れていた。


あみは、入口に飾られた黒板アートのそばで、子どもたちと写真を撮っていた。

「猫ちゃんの絵、かわいいね〜!」と笑いかけられ、少しだけ表情をゆるめる。


そんなときだった。


「川島さん、ちょっとだけ見に行ってきてくれる? 職員室の近くで誰かが探してたみたい」


クラスメートに声をかけられ、あみは人混みの中を抜けていく。

職員室近くの廊下を歩いていたその時、何気なく視線を向けた先で、二人の大人が立っていた。


施設の職員と、見知らぬ女性だった。


やわらかなスーツに身を包んだその女性が、小声で言った。


「……あの子、川島あみさんですよね?」


——その瞬間、鼓動が一気に早まった。


女性の視線が自分に向いていることに気づいた。

職員もあみに気づいたが、慌てたように一歩前に出ようとした。


あみは、反射的にその場から離れた。


人混みをかき分けながら、ただ出口を探すように歩いた。

心がざわつき、視界がにじんでくる。


——あの人が、里親候補……?


——なんで、こんな日に……。


あみは階段を上り、屋上へと駆け込んだ。


鍵は開いていた。

強い風が吹き込むその場所で、あみはフェンスのそばに立ち尽くした。


「……どうして、こんなときに……」


ふいに目の奥から、こみ上げるものがあった。


「やっと……ここが好きになれそうだったのに……!」


涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。


それは、「家族の不在」ではなく——

「自分の気持ちが、誰にも届いていない」ことへの、絶望に近かった。



「……川島!」


背後から、声がした。


「……川島!」


背後から聞こえたその声に、あみは驚いて振り向いた。


階段の扉が開き、茂樹が息を切らしながら駆け込んできた。

彼の顔には汗がにじみ、まっすぐこちらを見つめていた。


「……ここにいると思った」


「……なんで来たの」


「教室にいなくて、誰かが“あみが変な顔してどっか行った”って言ってさ。俺、なんかイヤな予感したんだよ」


あみは視線を逸らす。


「……ほっといてよ。別に、何でもないから」


「何でもないわけないだろ」


茂樹の声が、風にかき消されずにまっすぐ届いた。


「……さっき、廊下で見た。職員さんと、あの……女性。あれ、里親候補の人……なんだろ?」


あみの肩が、ぴくりと震えた。


「……勝手に来てた。私、何も知らなかった。……言ってくれるって、約束してたのに」


握りしめた拳が、白くなる。


「“この子が”って、そう言われてた。私、商品みたいに見られてた……そう感じた。いやだよ……そんなの……」


茂樹は、そっとその隣に立ち、風に吹かれながら黙って聞いていた。


「……やっと、少しずつ、学校が好きになってきたのに。やっと“友達”って思える人ができたのに。なのに、また全部終わるの? また、“ここじゃないどこか”に連れて行かれるの?」


涙が、止まらなかった。


「……私、いらない子なんでしょ。どこに行っても、“預けられる”だけの……」


「違う」


茂樹の声が、静かに、でも力強く響いた。


「俺は、川島がここにいてくれて、うれしいって思ってる。いてほしいって、思ってる。

それってダメなの? “家族”とか“施設”とか関係なくさ、友達として、“ここにいてほしい”って思うのって、そんなに意味ないの?」


あみは顔を上げた。

茂樹の目がまっすぐ自分を見ている。


「俺、今日の文化祭、川島がいたから楽しかったよ。猫の絵も、カフェの看板も、全部。川島がいたから、うちのクラスは完成してんだよ」


そのとき、屋上の扉がまた開いた。


「川島! 無事でよかった!」

「びっくりしたよー、急にいなくなるんだもん」

「泣いてたって聞いて、心配でさ!」


クラスメートたちが、ぞろぞろと現れた。

みんな、思い思いの言葉で、まっすぐにあみに声をかけてくる。


「リボン、川島がつけたやつ、客に大好評だったんだよ」

「猫の絵もインスタで拡散されてる〜!」

「つーか泣くなってば。そんな顔似合わねーよ」


あみは目を見開いて、その光景を見つめた。


——ああ。

私はいま、ここにいる。

こんなにも、まっすぐに、私を見てくれる人たちの中に。


風が、ふっとやさしく頬をなでた。


「……ありがとう」


あみの声は小さかったけれど、みんなにはちゃんと届いていた。


屋上の空は高く、青かった。


茂樹やクラスメートたちに囲まれ、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻しかけたその時——


「川島さん!」


その声に、あみは振り向いた。


屋上の扉が再び開き、そこには見慣れた制服の先生、施設の管理人さん、そして——

さっき廊下で見かけた、里親候補の女性が立っていた。


「急に姿が見えなくなって、心配したのよ」

管理人さんの声が風に乗る。


先生も、落ち着いた声で言う。

「文化祭にいらしていた候補の方が、少しでも川島さんの様子を見ておきたいと……」


女性は、やさしく微笑んで近づいてきた。


「はじめまして、川島さん。突然で驚かせてしまってごめんなさい。でも、あなたの姿を見て……本当に素敵な子だと思って。だから、どうしても挨拶だけでも——」


「……来ないでください」


その言葉は、思ったよりも大きな声で、はっきりと出た。


女性が動きを止める。

クラスメートも、静かになる。


「私は……いま、ここにいるのがやっとなんです。やっと少しだけ、笑えるようになったんです。

なのに、誰にも聞かれずに勝手に“どこか”に連れて行かれるのが、すごくこわい。私は、荷物じゃない……!」


震える声だった。でもその声は、誰よりも強かった。


管理人さんが何か言おうとしたが、茂樹が一歩前に出て、遮るように言った。


「川島が、今ここにいたいって思ってるなら、まずはその気持ちを一番に考えるべきじゃないですか?」


先生が、ゆっくりとうなずいた。


「そうだな。川島、今日だけじゃなくて、これからどうしたいか、自分の気持ちで考えてみてくれ。それを、私たちは待つよ」



風がまた、静かに吹き抜ける。


あみはその場で、胸の奥にたまっていたものが少しずつほどけていくのを感じた。施設に戻った夜、あみは食堂の隅のテーブルに座り、ゆっくりとスープを口に運んでいた。

にぎやかな声が周囲を飛び交う中、自分の時間だけが少し遅れて流れているような気がする。


文化祭のあの屋上で、自分の気持ちをぶつけた。茂樹に、クラスメートに、そして……あの女性にも。

心の奥で膨らんでいたものが、少しだけ形になった日だった。


「……今日、すごかったね」


声をかけてきたのは、茂樹だった。

彼は向かいの椅子に座り、いつもと変わらない調子で話し始めた。


「あんなふうに怒る川島、初めて見た」


「……ごめん、迷惑かけたよね」


あみが伏し目がちに答えると、茂樹は首を振った。


「いや、逆。……ちょっと、かっこよかった」


その言葉に、思わずあみは肩をすくめるように小さく笑った。


「……あんなふうに思いを言えたの、初めてだったかも」


「それでいいじゃん。それが川島だよ」


そのひとことが、不思議と心に沁みた。


食事を終えて自室に戻ったあとも、あみはベッドに寝転がりながら、天井を見つめていた。


「“ここにいたい”って、言ってよかったのかな……」


小さく呟いた言葉は、誰に届くでもなかったけれど、

そのときふと思い出したのは、屋上で自分に向けて駆け寄ってきてくれた、あたたかな顔たちだった。


——あったかかったな、あのとき。


そう思いながら、あみは目を閉じた。


***


翌朝は、いつもと変わらない日常が始まった。

でも、どこか空気が少しだけ違って感じられる。

食堂での「おはよう」が、これまでより自然に口をついて出たのが、自分でも意外だった。


学校に行けば、クラスメートたちが「昨日は大丈夫だった?」と声をかけてくれた。

そのやさしさを素直に受け止めることに、まだ慣れないけれど、悪い気はしなかった。


そして——数日後。

施設の応接室。あみは職員に呼ばれ、改めて設けられた面会の場へ向かった。


中に入ると、そこにはあの女性が静かに座っていた。

文化祭の日とは違い、今日は少し緊張しているように見えた。


「こんにちは、あみさん」


その声は、とてもやわらかく響いた。


「今日は……あなたのお話を聞かせてもらえたらと思っています。無理にじゃなくて、あなたが話したいと思ったことだけで」


あみは、そのまなざしをじっと見つめた。


文化祭の日、彼女に“知らない大人”というレッテルを貼って突き放した自分がいた。

でも今、こうして再び目の前に現れて、話す機会をくれた人のことを——

“ちゃんと見てみよう”と思っている自分もいた。


「……少しだけ、なら」


そう答える自分の声が、ほんの少しだけ震えていた。


けれど、今度は逃げないと、心に決めていた。

応接室の静かな照明が、部屋の隅々までやわらかく照らしていた。

あみは椅子に座り、目の前の女性――里親候補者の顔をじっと見つめている。


何度かの面会を重ねるうちに、少しずつ言葉が自然に出てくるようになった。

けれど、まだ全てを話せているわけじゃない。

心の奥にある、誰にも見せたくない感情がある。


「あの……今日は、話したいことがあって」


声は震えていた。女性は優しくうなずいた。


「私は、あなたが私のことを知りたいと言ってくれて、嬉しいです」

あみは息を整え、続ける。


「だけど……まだ、怖いんです」


小さな声が、空気の中で震える。


「昔、家族だった人たちを突然失いました」

その言葉に、あみの瞳が少しだけ潤んだ。


「だから、誰かと近づくことは楽しいし嬉しいけど、同時にまた、“失う”んじゃないかって……怖くてたまらない」


言葉を探すように、視線が床へ落ちる。


「あなたと話すのは楽しい。だけど、これから先また大事な人を失ってしまうのは嫌だと思ってしまう自分がいる」


静寂が二人を包む。


女性はゆっくりと息をつき、静かに口を開く。


「それは、当然の気持ちですよ、あみさん」

「あなたの恐怖を消すことはできないかもしれません」


「でも、一緒に歩んでいくことはできます」


その言葉に、あみは少しずつ顔を上げた。


「怖い気持ちも悲しい気持ちも、あなたの大事な一部です。

無理に隠そうとしなくていい。私も、そのすべてを受け止めます」


あみの胸に、ほんの小さな光が差し込んだ。


「ありがとう……」


その言葉は静かに、でも確かな強さをもって部屋に響いた。



あみはまだ完全には心を開けていない。

でも、その日から少しずつ、自分の気持ちと向き合う覚悟を持てた。

誰かに頼ることも、信じることも、少しずつ。


それは、まだ小さな一歩。

けれど、確かな一歩だった。


応接室の窓の外には、淡い夕暮れの光が差し込み始めていた。

あみは候補者の柔らかな視線を感じながら、ゆっくりと口を開いた。


「……もし、私がここを出て、新しいおうちに住むことになったら」


その言葉には、まだどこか遠い未来のような響きがあった。


「うん、どんなことがしてみたい?」

女性は優しく微笑みながら、あみの目をじっと見つめた。


あみは一瞬、恥ずかしそうに視線をそらし、小さく笑った。


「犬を飼いたいんです」


それは、まるで大切な秘密を打ち明けるような声だった。


「チワワか、ダックスフンドがいいなって思ってて」


女性は目を細めて笑った。


「かわいいね。どうして犬がいいの?」


あみはゆっくりと息を吐き、思いを言葉にした。


「ずっと一緒にいられるから。寂しいとき、そばにいてほしいから……」


「施設にいると、一人になる時間が多いから……」


言葉が小さくなり、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


女性は静かに頷き、そのやわらかな笑顔を崩さなかった。


「それはとても素敵な願いだね」


「犬と一緒に暮らすことは、あみさんにたくさんの喜びをもたらしてくれるよ」


その言葉に、あみの胸の中に小さな温かい光がともった。


「ありがとう……」


あみは静かに微笑み返し、未来にほんの少しだけ希望を感じていた。


「いつか、一緒に散歩に行けたらいいな」


その願いは、まだ形のない小さな種のようだったけれど、確かに根を張りはじめていた。夜の静寂が、施設の窓の外を覆っていた。

あみは自室の窓辺に座り、外の暗闇をぼんやりと眺めている。


遠くでかすかに聞こえる風の音や、街灯の灯りが柔らかく揺れていた。

部屋の中は静かで、時計の秒針の音だけが静かに響く。


窓の外、闇に溶け込むように木々の影が揺れている。

それはまるで、あみの心の奥に潜む不安と希望がゆらめいているかのようだった。


「犬を飼いたい」


夕方の面会で口にした言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


小さなチワワか、長い耳のダックスフンド。

想像するだけで、ほんの少しだけ未来が明るく感じられた。


あみは机の上の写真立てを手に取った。

そこには、家族で笑っていた頃の写真が入っている。


指先でそっと触れながら、寂しさが胸を締めつけた。

けれどその隣には、新しい希望が芽吹いている。


心の中で繰り返す。


「もう一度、誰かを愛してみたい」


涙はまだ流れなかった。

それでも、小さな声で自分に言い聞かせた。


「怖いけど、前に進みたい」


少しずつ、あみの瞳に光が戻り始めていた。


夜は深くなり、あみはそっとカーテンを閉めた。

外の世界は見えなくなったけれど、心の中の小さな灯りは消えなかった。

昼休みの教室はざわざわとにぎやかで、窓の外からは初夏のやわらかな風がカーテンを揺らしていた。

あみは机にひじをつき、少しだけ緊張しながら、いつも話すことの少ない茂樹に視線を向けた。


彼は友達と話していたが、あみに気づくとにっこり笑って手招きをした。


「おい、あみ。こっちこいよ」


その声に促され、あみはゆっくりと茂樹のそばへ歩いた。

すると、自然とクラスメイトたちも近づいてきて、穏やかな輪ができた。


「どうしたの?あみ、なんか話があるんだって?」

クラスメイトの声があみを包む。


あみは深呼吸をしてから、言葉を選びながら話し始めた。


「実は、施設を出て……里親候補の方と一緒に住むことになったら」


一瞬、みんなの顔が真剣になった。


「もし、そのおうちでペットを飼えるなら、犬を飼いたいんだ」


「チワワか、ダックスフンドがいいなって思ってる」


茂樹がすぐに笑顔を返す。


「いいじゃん!犬と一緒って最高だよな」


「確かに、一緒にいられたら寂しくないもんね」

他のクラスメイトも賛同するように頷いた。


あみは続けた。


「でも、まだ決まったわけじゃなくて……どうなるか分からない」


「それでも、そういう未来を考えると、ちょっと勇気が湧いてくる」


茂樹は真剣なまなざしであみに言った。


「どんな未来になっても、俺たちがいるから。困ったことがあったら言ってよな」


クラスメイトたちも自然とあみを囲み、励ますような笑顔を見せる。


あみの胸に、小さな温かい灯りが灯った。


「ありがとう……みんなに話せてよかった」


その言葉が、教室にゆっくりと広がっていった。

「おかえりなさい、あみちゃん」

玄関の扉を開けると、すぐに優しい声が迎えてくれる。


「……ただいま」

あみは少し照れながら靴を脱ぎ、揃えて置いた。


里親候補の女性――佐々木さんは、あみにとってはまだ「知らない人」でもあり、

どこか懐かしいような安心感をくれる存在でもあった。


「今日はどうだった? 学校、楽しかった?」


「……まあ、普通かな。テスト前だから、みんなちょっとピリピリしてたかも」

あみはランドセルを置きながら答える。


「うんうん、あみちゃんはきっと頑張ってると思うけど、疲れちゃうよね。

今日はあったかいシチューにしてみたよ。よかったらおかわりもあるからね」


ダイニングから漂うクリームシチューの匂いに、

ほんの少しだけ緊張していた肩がほっと緩む。


食卓には、あみの分のスプーンとフォークがいつも綺麗に並べられている。

「自分の席がある」それだけのことが、あみには少し不思議で、嬉しかった。


――でも、これは“仮”なんだ。


そんな気持ちも、同時に胸の奥でくすぶる。



ある夜、食後の片づけを手伝っていたあみが、

思い切って話を切り出した。


「……あの、佐々木さん」

「なに?」

「もし、もしもだけど――ここで暮らすってなったら……犬、飼ってもいいですか?」


言ってから、心臓がドキドキした。

変なこと言ったかな、と一瞬後悔しかけたそのとき。


佐々木さんは、少し驚いたような顔をして、それからふわりと微笑んだ。


「犬が好きなの?」


「……うん、小さい犬がいいなって。チワワとか、ダックスフンドとか。

あんまり大きいと、お世話が大変かもだし……でも、そばにいてくれたら、寂しくないかなって」


佐々木さんは、皿を拭く手を止めて、真っすぐあみの顔を見た。


「寂しいって思うこと、たくさんあったんだね」

その言葉に、あみはふいに視線をそらした。


「……そんなの、誰だってあるよ」


「そうだね。でも、あみちゃんがそう思えるのって、すごく大事なことだと思う。

ちゃんと“これからの暮らし”を想像してるってことだもの」


しばらく沈黙が流れたあと、佐々木さんは笑って言った。


「もし、一緒に暮らすことになったら、一度ペットショップとか見に行ってみようか。

あみちゃんがどんな子がいいか、見てみたいな」


「……ほんとに?」

「もちろん。名前も一緒に考えたいな」


その瞬間、あみの胸の奥で、ぽっと小さな灯りがともったような気がした。



学校でも、あみは少しずつ変化していた。

昼休み、屋上の階段で茂樹にそんな話をした。


「犬? いいじゃん! 名前もう考えてんの?」

「まだだけど……ちょっとだけ、楽しみになってきた」


「そっか。……じゃあ、今度どんな犬がいいか、プリントアウトしてやるよ。

俺、犬図鑑家にあるし」


あみは、ふっと笑った。

この笑顔が、ほんの少しずつ、日常の中で増えていく気がした。


でも――


心の奥にはまだ、ふとした瞬間に「また全部がなくなるかもしれない」という影が落ちる。


それでも今は、

「そうならないかもしれない」と思える時間が、確かにあった。

「今日は、お昼からちょっと買い出しに行こうか」


土曜の朝、佐々木さんの声であみは目を覚ました。

まだぼんやりとした意識の中で、窓から差し込む柔らかな光が、カーテン越しに優しく揺れていた。


「……うん。わかった」

あみは寝ぼけ眼をこすりながら、小さく返事をする。


顔を洗って、朝ごはんを食べて、洗濯物を干して。

佐々木さんの家で迎える朝は、もう何度目か分からないけれど、

まだどこか“借りもの”のような不思議な感覚が残っていた。


だけど、朝ごはんの焼きたてのパンの香りも、

バターが溶ける音も、

食卓に流れる小さな音楽も――あみの中に少しずつ染み込んでいく。



「今日は駅前のショッピングモールまで行くんだけど、ねえ、ペットショップ、覗いてみない?」


車の助手席で、佐々木さんがやさしく言った。

あみの指先が、ほんの少しピクリと動く。


「……行ってみたい」


車窓の外、通り過ぎていく街並みを見ながら、

あみの胸の奥に、小さな期待と緊張が同居していた。



ショッピングモールの中はにぎやかで、人の声や香水のにおい、すれ違う音が一気に押し寄せてくる。

でも、佐々木さんが歩く少し後ろを、

あみは安心したように着いて歩いた。


「ここのペットショップ、わんちゃんたちがよくお昼寝してるの。かわいいよ」


そう言って覗いたガラスの向こうに、

ちいさな毛玉のような子犬たちがじゃれ合っていた。


チワワ、ダックスフンド、トイプードル、ポメラニアン――

どの子もつぶらな瞳で、あみを見上げてくる。


「かわいい……」

思わず、あみの口からこぼれる。


佐々木さんは、その横顔を見てそっと笑った。


「どんな子が気になる?」


「……この子。ダックスの子。なんか、目が……安心してる」


「そうだね。この子、少し臆病だけど、人が好きみたいよ」


二人でしゃがみこんで、ガラス越しにじっと見つめる時間。

まるで静かな映画のワンシーンのようだった。



そのあとは日用品の買い物を済ませ、

小さなフードコートで並んでホットドッグを食べた。


「ここの、からしちょっと強いかも」

「……でも、嫌いじゃないかも」


そんな何気ない会話すら、あみにとっては“新しい家族になれたかもしれない”手がかりだった。



帰り道、車に揺られながら、あみはそっと尋ねた。


「……もし、このままずっと一緒にいられるってなったら、

あの子――飼っても、いいかな」


「うん。お世話は一緒に頑張ろうね」


佐々木さんの言葉に、あみは初めて、

“この人と一緒にいる未来”を少しだけ思い描いてみようと思った。



休日は、特別なことをしたわけじゃない。

でも、それは確かに、あみにとってかけがえのない一日だった。



日曜日の朝は、いつもより少し静かだった。


テレビの音も消えていて、リビングに差し込む陽の光だけが、

淡く、あたたかくあみの頬を照らしていた。


佐々木さんはキッチンで紅茶を淹れながら、やわらかく声をかけてきた。


「今日はゆっくりでいいよ。何かあったら、何でも話してね」


あみは、少し躊躇ってから、椅子を引いてテーブルについた。

目の前のカップから、ふわりとアールグレイの香りが立ちのぼる。


「……あの、ちょっとだけ、話してもいいですか」


「もちろん」


佐々木さんが微笑んで頷いた。


「……今、ここで過ごしてみて、悪くないって思えるんです。でも、

“このまま暮らす”って決めるのは、ちょっと怖くて……」


あみは、両手を膝の上でぎゅっと握った。


「学校も、施設も……どっちも中途半端になりそうな気がして。

私、どこにいても“途中”のまま終わる気がするんです」


佐々木さんは静かにうなずき、言葉を待ってくれていた。


「あと……茂樹くんっていう、友達がいるんですけど。

彼と、行きたい大学が違ってて……もし一緒に暮らすことになって、

こっちに住んだら、たぶん学校も、通う方向も変わると思うんです」


「ああ……」


「今は、一緒の高校で、放課後も話したりできて……でも、

今の関係も、全部“終わっちゃう”かもしれないって思うと、

前に進むのが、すごく怖いです」


ふと目を伏せると、テーブルの上のカップが、手の震えを映していた。


「そして……一番怖いのは……」

あみは唇を噛みしめた。


「私が……こっちに慣れて、ちゃんと“家族”って思えるようになっても、

もし、また……急に“やっぱり無理”ってなったらって思うと、

どうしても……信じきれなくて」


少し長い沈黙が流れた。

けれど、その空気を壊さずに、佐々木さんはゆっくり、言葉を紡いだ。


「……あみちゃん。

怖いって思うことは、悪いことじゃないよ。

それだけ、ちゃんと大切にしたい“居場所”を考えてる証拠だもんね」


あみは、はっとして顔を上げた。


「学校のことも、茂樹くんのことも、全部“切り捨てて”ここに来るなんて、

私は言わない。……一緒に考えたい。どうやったら、その気持ちも大切にしたまま、

新しい暮らしを作れるか」


「……でも、そんなの……できるんですか」


「たぶん、完璧な形はないの。でも、

“どうすればいいか、一緒に悩んでくれる人がいる”ってことが、

少しずつ、不安を減らしてくれると思う」


あみの目の奥が、ほんの少し潤んでいた。


「私は、あみちゃんに“慣れてほしい”んじゃなくて、

“安心してほしい”って思ってる。

それができるように、ちゃんと向き合っていきたいよ」


その言葉は、あみの胸の奥に、そっと染み渡っていった。


「……少しだけ、信じてみたいかもしれないです」


「あみちゃんのペースでいいよ。少しずつで、大丈夫」


ほんのわずかに差し込む朝の光の中、

“話せてよかった”という温度が、あみの心に静かに灯っていた。


 話し合いのあった日曜日の昼下がり。

 あみと佐々木さんは、最寄りのショッピングモールまで散歩がてら出かけていた。


 曇り空の下、住宅街を抜けた歩道に、二人の足音が小さく響く。

 カツ、カツ、とリズムを刻む音が、なんとなく心地よかった。


「こうして一緒に買い物するの、なんか……不思議ですね」


 あみがふと口にする。歩きながらでも、言葉が自然とこぼれるほどには、空気がやわらいでいた。


「うん、でも悪くないでしょ?」


 佐々木さんが肩の力の抜けた笑みで返す。

 その笑顔に、あみもふわりと笑った。


「……はい。ちょっとだけ、家族っぽいかもって思いました」


 あみの声が少しだけ照れていた。

 けれど、佐々木さんはその言葉をうれしそうに噛み締めているようだった。


「それ、ちょっと嬉しいな」


 モールに入ると、人の波が少しずつ広がっていく。

 日曜日の午後らしく、子ども連れの家族やカップルが行き交っていて、

 以前のあみなら、その光景を見て胸が締めつけられていたかもしれない。


 けれど今日は、少しだけ、平気だった。

 ——たぶん、隣に佐々木さんがいるから。


 雑貨屋では、猫のイラストが描かれたマグカップを手に取り、

 「これ、かわいくないですか」と無意識に声をかける自分に驚いた。

 パン屋では、チョコクロワッサンとメロンパンを持ち寄って、

 「どっちが甘いかな」なんて笑い合った。


 そのひとつひとつが、“普通”の時間として胸に刻まれていく。


 帰り道。

 ショッピングモールの一角にあるペットショップの前で、あみの足が止まる。


 ガラスの向こう、ベージュの小さなチワワが眠っていた。

 耳をぴくりと動かして、夢の中で何かを追いかけているような寝顔。


「……こういう子が家にいたら、毎日楽しいかもな」


 無意識に、ぽつりとこぼれた。

 すぐに、しまった、と顔を赤らめる。


「……ごめんなさい、変ですよね」


 佐々木さんは首を横に振った。


「変じゃないよ」


 すぐに、否定してくれる。

 あみはその言葉に、ふっと心がほどけるのを感じた。


「私もね、前に実家でダックスフンド飼ってたんだ。

 小さいのにやたら吠える子で、毎朝起こされてた」


「ふふっ、可愛いですね、それ」


 思わず笑ってしまう自分がいた。

 このやりとりが、嬉しかった。


「一緒に住むようになったら、動物と暮らすのも“選択肢の一つ”かもね」


 佐々木さんがさらりと言う。


「……いいんですか?」


 あみは思わず聞き返す。

 それは“受け入れられること”に対する戸惑いと、淡い希望が混じった声だった。


「すぐにとは言わないよ。でも、もし本当にあみちゃんが望むなら。

 それが“帰ってくる場所”になるなら、私は前向きに考えたい」


 その言葉が、胸の奥深くにじんわりと染み渡った。


 施設でも、学校でも、どこかで一線を引いてきた。

 けれど今、ほんの少しだけ、“この人となら”と思える自分がいる。


 帰り道、手に下げたパンの袋の重みが心地よい。

 同じように、あみの胸の中にも、何かあたたかいものが積もっていく。


 それはまだ、“決心”とは呼べない。

 でも、“ここにいたいと思える気持ち”の、小さな、小さな種だった。

施設の応接室に、西野さんを呼び出したのは、日曜日の午後のことだった。


 窓の外には少しだけ春の気配が漂い、遠くで小さく鳥のさえずりが聞こえていた。


 ガラス越しの光が柔らかく差し込むなか、あみはテーブルの前にちょこんと腰をかけ、落ち着かない様子で指先を絡めていた。少し遅れてやってきた管理人の西野さんは、あみの真正面に腰を下ろすと、にこやかにこう尋ねた。


「どうしたの?わざわざ“話したいことがある”なんて改まって」


 その声に、あみはゆっくりと顔を上げる。少し強張ったままの表情だったが、その瞳にはしっかりとした決意が宿っていた。


「……聞いてほしいことがあるんです。ちゃんと、自分の言葉で伝えたくて」


「うん、わかったわ。ゆっくりでいいから、話して?」


 あみは一度、深く息を吸った。吐き出すまでに少しだけ間があった。胸の奥に溜め込んでいた言葉を、ひとつずつ紡ぐようにして口を開く。


「まず……大学、合格しました」


 その一言に、西野さんの顔がぱっと明るくなる。


「えっ、ほんと?あみ、それは……本当におめでとう!」


「ありがとうございます……なんとか、無事に。すごく、不安だったんですけど」


 少し照れくさそうに笑ったあみの頬に、ほんのりと赤みが差していた。


「すごいことよ。あんなに努力してたもん。あみ、えらかったね」


 西野さんの言葉に、あみはこくりと頷いた。そして、また視線を手元に落としながら、今度はほんの少しだけ間をおいて、もう一つの話題に切り込んだ。


「それで……もうひとつ、大事な報告があります」


「うん?」


 あみは、少しだけ唇を噛んだ。でも、その目はもう、逃げていなかった。


「……佐々木さんと、一緒に暮らすことに決めました」


 その言葉が落ちると、応接室の空気が少しだけ静まった。


 西野さんは驚いたように目を見開き、それからふっと表情を和らげる。


「……そう。もう、決めたのね?」


「はい……」


 あみの声は震えていなかった。でも、その表情には、慎重に、丁寧に積み重ねてきた想いの重さがにじんでいた。


「正直、今でも不安はあります。……壊れちゃったらどうしようとか、やっぱり私はまた捨てられるんじゃないかとか。そういう怖さが……完全になくなったわけじゃないんです」


「……」


「でも、それでも、一緒にいたいって思いました。ちゃんと……自分で選びたくなったんです。誰かに決められるんじゃなくて、自分の気持ちで。自分の足で、進みたくて」


 西野さんは黙ってあみの言葉を聞いていたが、やがてそっと立ち上がり、あみの隣に腰を下ろした。そして、あみの両手を優しく包み込むように握る。


「……あみ。それをあなたの口から聞けて、本当に嬉しい。誰よりも、私はそれを望んでたの。あなたが、“自分の言葉”で、“自分の未来”を選んでくれること」


「西野さん……」


「あのね、怖さがゼロになる日なんて、きっと来ない。大人だってそう。けれど、その怖さごと抱えて、それでも誰かと一緒に歩こうとする気持ちは……とても、尊いのよ」


 その言葉に、あみはふっと涙をにじませた。


「……私、やっと少しだけ、“自分でいていいんだ”って思えるようになりました。佐々木さんがそう思わせてくれたから」


「うん。あの方なら、きっと大丈夫。あなたをちゃんと見てくれる人よ。何かあったら、いつでも戻ってきていいし、相談していいの。あなたの“帰る場所”は、ずっとここにもあるから」


 あみは、涙をこぼしながら、力強くうなずいた。


 そうしてようやく、「自分の未来」と「自分の気持ち」をひとつにできた、春の午後だった。


佐々木さんの部屋で、あみは深く息を吐いた。


「佐々木さん……私、施設に荷物を取りに戻ってきます」


 緊張で声が少し震えたが、決心は固かった。


「そう……わかったわ。ゆっくりしてらっしゃいね」


 佐々木さんは優しい笑顔を向け、あみの肩をそっと叩いた。その温かさに、あみの胸の奥がじんわりと熱くなる。


 西野さんと並んで施設へ戻る道すがら、あみの心はざわついていた。これが、本当の「最後」になるかもしれない——そんな思いが胸を締めつける。


 施設の扉を開けると、懐かしい空気が包み込んだ。廊下を歩く足音が静かに響く。


 教室の前に着くと、クラスメイトの何人かが集まっていた。茂樹くんも、少し不安げな表情で立っている。


「あみ……本当に帰ってくるなんて……」


 声が震え、目に涙を溜めている子もいた。


 あみはこみ上げる涙を必死で押さえながら、一歩前へ出た。


「みんな、私、もう“かり”じゃないんだね……」


 ぽつりと呟いたその声に、教室中の空気が一瞬止まったように感じた。


 茂樹くんが静かにあみの隣に来て、小さな声で言った。


「寂しいよ……でも、あみが決めたことなら、応援する」


 あみは目の奥が熱くなり、涙が零れそうになるのを必死にこらえた。


「ありがとう、茂樹くん。みんなにも……本当にありがとう」


 言葉が詰まるたびに涙が頬を伝い落ちた。


 「みんなと過ごした日々は、私の宝物。ここで笑ったり、泣いたりしたこと、全部忘れないよ」


 クラスメイトたちは涙を流しながらも、微笑み返してくれた。


「これが……本当のお別れだね」


 そう呟く声が幾つも聞こえる。


 急きょ、簡単なお別れ会が開かれた。折り紙の花束や、手作りのカードを一人ひとりが手渡す。


 抱きしめ合い、肩を震わせながら、互いの未来を祈った。


 あみは深く息を吸い、胸に刻むように静かに言った。


「また、いつか、必ず会おうね」


 その言葉に、誰もが強く頷き、温かい拍手が部屋を包んだ。


 涙で視界が霞む中、あみの胸には新しい決意が静かに芽生えていた。


佐々木さんに「施設に戻って荷物を取りに行く」と伝えたあみだったが、胸の中にぽつりと不安が芽生えた。あの場所に一人で戻ることの心細さが、一瞬で押し寄せてきたのだ。


「やっぱり……直接行くより、管理人さんに荷物をまとめて郵送してもらったほうがいいかもしれない」


そう思い直し、すぐに携帯を手に取って管理人の西野さんに連絡を入れた。


「西野さん、あの……私の荷物、まとめて郵送してもらえますか?」


電話口の西野さんは、いつもの穏やかな声で答えた。


「もちろんです、あみさん。すぐに手配しますよ。丁寧にまとめて、忘れ物がないように気をつけますね」


その優しい言葉に、あみの胸の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。


外はすっかり夜の闇に包まれ、街灯の柔らかな光が部屋の薄いカーテンを透かして淡く揺れている。雨上がりの冷たい空気がほんのりと湿り気を含み、窓の隙間から静かに室内へと流れ込んでいた。


あみはそっと窓辺に腰を下ろし、外の景色に視線を向けた。遠くの道路を車のヘッドライトがゆっくりと滑り過ぎる。夜の静けさの中、その音がぽつぽつとリズムを刻み、胸のざわめきを少しだけ和らげてくれる。


だが、心の奥底にはまだ消えない不安が残っていた。


「本当に……うまくやっていけるのかな」


小さく呟いたその言葉は、静かな部屋の隅々に染み込むように響いた。


手元にはまだ、施設から送られてくる荷物は届いていない。しかし、その中には自分のこれまでの記憶や思い出がぎっしり詰まっていることを思うと、不思議と勇気が湧いてきた。


夜空の向こうには、ぽつりぽつりと星が顔をのぞかせ始めている。あみはそっと目を閉じて、深く息を吸い込んだ。


「私は……もう一人じゃない」


そう心の中で繰り返すうち、静かな夜の中であみの胸には、小さな確かな希望の灯が灯っていった。あの日の夜、静かな部屋の中で、あみはベッドの上に腰かけていた。

机の上には、まだ届いていない荷物のために開けておいた小さなスペースがぽっかりと空いている。


スマートフォンが小さく震え、画面を覗くと佐々木さんからのメッセージだった。


「あみちゃん、明日少し時間あるかな?よかったら一緒にペットショップ見に行かない?」


一瞬、指が止まった。

「一緒に」――その言葉が、心に静かに沁みた。


すぐに返信しようとして、言葉を打っては消してを何度か繰り返す。


「行きたいです。……一緒に見られたら、嬉しいです」


そう打って、送信を押した。


ベッドにもぐりこみながら、あみは小さく微笑んだ。

明日、ちょっとだけ楽しみな予定がある。それがこんなにも気持ちを軽くしてくれるなんて、自分でも驚いていた。



翌日。空は薄曇りだったが、寒さはそれほどなく、歩きやすい一日だった。


駅前で待ち合わせた佐々木さんは、落ち着いたベージュのコートに身を包み、手には折りたたみ傘を持っていた。


「あみちゃん、おはよう。今日はよく眠れた?」


「はい。…あ、少しだけ。でも、楽しみだったから」


「そっか、それならよかった。じゃあ、行こうか」


二人は並んで歩きながら、ぽつぽつと話を交わした。

道中、何度か犬の話になり、佐々木さんが子どもの頃に飼っていた犬のエピソードを語ってくれた。


「うちの実家ではね、昔ダックスフンドを飼ってたんだ。やたら元気で、朝になるとベッドまで飛び乗ってきてね」


「え、ベッドに飛び乗るんですか?そんなに元気なんだ……」


「そうそう。耳をペロペロされて、寝坊なんてできなかったよ」


「……ふふっ、それ、ちょっといいですね」


そんな会話を交わしているうちに、ペットショップのガラス張りの入り口が見えてきた。


中に入ると、暖房の効いた空間に、仔犬たちの高い鳴き声が響く。

あみは思わずその場に立ち止まり、ショーケースの中をひとつずつゆっくりと見て回った。


「この子、なんだか眠そう……」


チワワの子犬が、丸まった体のまま瞬きしながらあみを見ていた。


「小さいのに、目がすごくしっかりしてるね」


「……あ、でも、あっちの子も可愛い……」


次に目を向けた先には、ダックスフンドの子犬が、前足で床をひっかくようにして遊んでいた。


「この子はやんちゃそうだね。……でも、チワワと性格が真逆で、いいバランスかもしれないよ?」


「真逆、ですか?」


「うん。ひとりで落ち着いてる子と、みんなを笑わせるような子と。両方いると、お互いのいいところが引き立つんじゃないかなって」


佐々木さんの言葉に、あみはもう一度、ふたりの仔犬を見つめた。


「……この子たちと、一緒に暮らしてみたいです」


しばらく黙ったあと、あみはぽつりとそう呟いた。


「本当に?」


佐々木さんの声が、優しくあみの耳に届いた。


「あみちゃんがそう思えるなら、私は応援するよ。……一緒に暮らすのは、家族としての第一歩でもあるから」


「……家族、ですか」


「うん。まだゆっくりでいい。でもね、この子たちも、きっと“帰る場所”を探してると思うんだよ」


あみは、小さくうなずいた。


その後、店員さんから詳しい説明を受け、健康状態や飼育環境について話を聞いた。

契約の書類を書く時、あみの手は少し震えていたが、佐々木さんが隣でそっと背中を支えてくれていた。


店を出た頃には、雲の隙間から日が差し始めていた。


紙袋に入ったペット用品と、ふたりの新しい家族を迎える心の準備が、少しずつ重なっていく。


その帰り道、あみの胸の中には、ふわふわとした小さな光が灯っていた。

日曜日の午後。

柔らかな春の日差しが街を包み、空は少し霞んでいるものの、風は心地よく頬を撫でていた。


「さあ、今日が初めてのお散歩デビューだね」


佐々木さんがリードを手にしながら笑う。


「はい、緊張しますけど……楽しみです」


あみは、少し不安そうにしながらも、リードを握った手に力を込める。

チワワの“ゆき”とダックスフンドの“こむぎ”は、落ち着かない様子で前足を小刻みに動かしていた。


「ゆっくり行こう。最初は歩き慣れてないから、焦らないで」


「うん、わかりました」


歩道を二人と二匹で並んで歩く。

犬たちはときどき立ち止まっては匂いを嗅ぎ、好奇心いっぱいの目を輝かせている。

そんな姿を見て、あみの表情も次第に和らいでいった。


近くの公園に差しかかると、ボールの弾む音と、楽しそうな声が耳に入った。


「あ……あそこ、サッカーしてますね」


「うん。ちょうど試合してるみたい」


視線を向けると、芝生のグラウンドで何人かの男子が遊んでいた。

その中に、見覚えのある後ろ姿を見つける。


「……あれ、茂樹くん?」


その声に佐々木さんが目を細める。


「おや、ほんとだね。偶然」


「行って、挨拶しても……いいですか?」


「もちろん。私はベンチで待ってるから、ゆっくりおいで」


佐々木さんに微笑まれて、あみはうなずき、犬たちを連れて芝生の方へと歩き出す。


茂樹はちょうどプレーの合間、汗を拭いて休憩していた。


「あの……茂樹くん!」


声をかけると、彼は振り返り、驚いた顔をしたあと、すぐに笑顔になった。


「あ、あみ!どうしたの、こんなところで?」


「初めて……犬たちのお散歩に来たの」


あみはそう言いながら、ゆきとこむぎのリードを見せる。


「おお~、この子たちが例の!チワワと……ダックスだっけ?」


「うん。“ゆき”と“こむぎ”って名前にしたの。まだ慣れてなくて、ちょっと大変だけど……」


茂樹はしゃがみ込んで、ゆきに優しく手を差し出した。


「こんにちは、ゆき。こむぎ。今日が初めてのお散歩か、そりゃ緊張するよな」


「……なんか、茂樹くんって動物にも優しいんだね」


「え?あ、いや……昔、うちでも猫飼ってたんだ。逃げられたけど」


「逃げられたの?」


「うん、自由人(猫)だったからね。俺の部屋にはまったく来なかった」


あみは思わず笑ってしまい、犬たちもつられてか、小さく鳴いた。


「そっか……」


ふと、あみは足元の犬たちを見つめながら口を開く。


「……こうして茂樹くんに会えて、なんだか嬉しい。最近、いろんなことがあって……少しずつだけど、前に進もうって思えてきたの」


「うん。顔見ればわかるよ。なんていうか……あみ、前より表情が柔らかくなった」


「あ……そうかな」


頬が少し赤くなる。


「うん。今も、その犬たち見てる顔、すっごく優しいし。……なんか、安心した」


「ありがとう、茂樹くん。……私、もう一人じゃないって、思えてきたんだ」


その言葉に、茂樹は少し驚いたように目を見開き、それからうなずいた。


「うん。あみは、ちゃんと前に進んでる。……また、困ったときは、俺に言えよ?」


「……うん。絶対、言う」


犬たちが芝の上に座り込み、ゆきが小さくくしゃみをした。


「ふふ、そろそろ帰ろうかな。あの……佐々木さん、あっちのベンチで待ってるから」


「うん。また学校で」


「うん、またね」


軽く手を振って、あみは佐々木さんのもとへ戻っていく。


芝生の匂い、犬たちの足音、そして茂樹の穏やかなまなざし。

どれもが、あみの胸に温かく残っていた。


――初めてのお散歩は、少しだけ世界を広げてくれたような気がした。

三月、薄曇りの空の下。

あみは新しい制服に袖を通し、胸に小さなコサージュをつけて校門をくぐった。

今日は卒業式。三年間過ごした学び舎と、今日でお別れの日だ。


体育館には厳かな雰囲気が漂い、教職員や来賓、保護者たちの拍手が式の始まりを告げた。


卒業証書の授与、在校生の送辞、卒業生代表の答辞――

どの言葉にも、別れの寂しさと未来への希望が滲んでいて、あみの胸も自然と熱くなった。


(……私も、ここでたくさんの人と出会って、少しずつ前に進んできたんだ)


式が終わると、クラスの皆が教室へと戻って記念撮影や寄せ書きでにぎわい始めた。


「はい、あみちゃん、卒業おめでとう!」


振り向くと、佐々木さんと西野さんが笑顔で立っていた。

ふたりともスーツ姿で、カメラを片手に小さく手を振っている。


「来てくれてありがとうございます……!」


少し恥ずかしさも混じりながらも、あみは本音で笑った。


「晴れ姿、ちゃんと見届けに来たよ。写真、撮ろっか?」

「卒業生らしく、にっこりね~!」


ぱしゃり、とシャッター音が響き、佐々木さんは何枚かの写真を収めてくれた。

その間、クラスメートも交代で撮影に加わり、教室は笑顔とフラッシュに包まれた。


そして……少しずつ人が帰っていき、賑やかだった教室も静かになっていく。


「私たち、先に出てるね。ゆっくりしてきなさい」

西野さんが、あみにそっと目配せをする。


「うん。また後でね」

佐々木さんも、どこか意味深な笑みを浮かべて歩き出した。


その直後。


「あみ」


声がして、あみが振り返ると、茂樹が立っていた。


「……まだいたんだ」


「うん、なんとなく。言いたいこと、あったから」


あみの心臓が、少し早く鼓動を打ち始めた。


茂樹は数歩だけ近づいて、教室の窓の方へと視線を向ける。

春の光が差し込む中、彼の横顔はどこか決意を湛えていた。


「卒業式ってさ、ちゃんと終わった気がしないんだ。

なんか、“これから”のことをちゃんと伝えないと、前に進めない気がして」


「……うん」


「だから、今日、伝えたかった」


一拍の間。


「俺さ……ずっと、あみのことが好きだった。

最初に出会った時から、たぶん、ずっと」


あみの目が、すっと見開かれる。


「そばにいたくて、一緒に笑いたくて、守りたくて。

それが恋だって気づいたのは、少し後だったけど……でも、本当の気持ち」


「……茂樹くん」


言葉にならない想いが、胸の奥で波打っていた。


「施設を出るって聞いた時、すごく焦った。

だけど今は、あみが幸せになるならそれが一番いいって、そう思えてる」


そして、まっすぐにあみを見つめて言った。


「でも俺は、あきらめないから。

これからも、ずっと気持ちは変わらない。――あみが、俺のそばにいたいって思ってくれるまで、待ってる」


その声は、あみの心の奥まで優しく届いた。


静まり返った教室の中で、あみは小さく、でも確かな声で答えた。


「……ありがとう。そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかった。

今はまだ……“怖さ”もあるけど、でも、嬉しいよ」


目に涙が浮かんだ。


「私も、茂樹くんがそばにいてくれたから、ここまで来られた。……本当に、ありがとう」


春の風が、窓からふわりと吹き込んだ。


あみの制服のリボンが揺れ、茂樹は小さく微笑んだ。


そして、互いに無言のまま、目を見つめ合い――

それは、確かな“これから”の約束のように、胸に残った。

春の陽射しが優しく差し込む朝。あみは、いつものようにリビングで伸びをする二匹の犬たち――チワワの「こゆき」と、ミニチュアダックスフンドの「もか」にリードをつける。


「今日はこっちの公園、行ってみようか」


 問いかけると、こゆきはキュッと小さく吠え、もかはしっぽをぶんぶん振って応える。


 大学の授業が午後からの日は、朝の散歩が少し長めになるのが日課だ。玄関で靴を履いていると、キッチンから佐々木さんが顔を出した。


「行ってらっしゃい。午後のゼミ、忘れないでね」


「はい。帰ったらノートまとめます」


 そう返して微笑むと、佐々木さんも優しく頷いた。


 穏やかな住宅街を抜けて、あみは犬たちとともに大きな公園に向かう。途中、通学中の小学生たちに「可愛い〜!」と囲まれ、こゆきともかはすっかり人気者だ。


 ふと視線を上げると、芝生の広場の端でサッカーボールを蹴る姿が目に入った。


「……あれ?」


 少し離れたところで、見覚えのある背中が軽やかにボールを追っていた。


「茂樹くん?」


 あみがぽつりと呟いたと同時に、もかがそちらへ走り出す。慌ててリードを引き戻しながら近づくと、茂樹がボールを止めてこちらを見た。


「おーい、あみ!」


 茂樹が手を振る。周囲には見慣れたクラスメートたちの姿もある。


「こんなところでなにしてんの?」


「こゆきともかの散歩。茂樹くんこそ、サッカー?」


「ああ、たまに地元の奴らと集まって軽く蹴ってんだ。久しぶりにさ」


 あみは二匹の犬たちが芝生を駆け回るのを見つめながら、少し笑う。


「犬たちも楽しそう。私もなんか、最近ようやく“暮らしてる”って実感湧いてきたよ」


「そっか……よかった」


 茂樹がボールを手に持ち、芝に腰を下ろす。あみも隣に座った。こゆきともかが足元でじゃれ合う音が心地よい。


「大学、慣れてきた?」


「うん、ゼミの内容はまだちょっと難しいけど、友だちも少しずつできてきて」


「そりゃあみならすぐできるって。ほら、俺とか」


 冗談っぽく笑う茂樹に、あみもつられて微笑む。


「それにしても、犬と一緒の生活って、こんなに心強いんだね」


「うん。あみ、変わったよな。前はもっと……うーん、頑張って背伸びしてる感じだったけど、今は自然体っていうか」


「……それ、嬉しいかも」


 ぽつりとあみが呟いたとき、もかが茂樹の膝に前足を乗せた。


「わ、もか、なつきすぎ」


「いや、こいつ賢いな。いい奴のとこ行くの分かってるんだよ、きっと」


 茂樹の何気ない言葉に、あみはほんの少しだけ目を潤ませた。


 静かに流れる時間。春の風が二人と二匹のまわりを包み込む。

春の午後。大学の中庭のベンチに腰かけたあみは、スマートフォンで今日の講義ノートを確認していた。こゆきともかは足元で穏やかに丸まり、それぞれのリードはあみの手首にしっかりと巻かれている。


 耳に風が通る。心地よい。


「……いたいた」


 ふいに聞こえた声に顔を上げると、茂樹が軽く息を切らしながら駆け寄ってきた。


「ごめん、ゼミ終わって遅くなった」


「ううん、大丈夫。今日は風も気持ちいいし、待ってる時間も悪くなかったよ」


 茂樹は笑って、こゆきの頭をそっと撫でる。


「それにしても、こいつらほんと落ち着いてんな。散歩中も静か?」


「うん。特にこゆきはすぐに慣れてくれたし、もかも最初はちょっと吠えたけど、今はちゃんと指示も聞ける」


「へぇー……マジですごいな、あみ」


 照れくさく笑ったあみの横で、もかが鼻を鳴らす。


 しばらく沈黙が続いたあと、茂樹がちょっとだけ躊躇うように口を開いた。


「なあ……もしよかったら、今度の週末、一緒にどっか行かない?」


「え?」


「ほら、ペット可のカフェとか、ドッグラン付きの公園とか。最近調べてたらけっこう良さげなとこ見つけてさ」


「……一緒に?」


「もちろん、こゆきともかも一緒にさ。あみも、大学のことや生活のことで、ちょっと一息つけたらいいなって思って」


 あみはふと目を伏せる。茂樹の声は軽やかなのに、どこか優しくて、今の自分をちゃんと見てくれているようで、心がじんわりと温かくなる。


「うん……行きたいかも。どんなところなの?」


 茂樹の顔がぱっと明るくなる。


「車で一時間くらいのとこなんだけど、芝生の広いドッグランと、テラス席が気持ちいいカフェが併設されてるんだって。ワンちゃん用のクッキーとかもあるらしい」


「わあ……楽しそう。じゃあ、お弁当とかも持っていく?」


「それいいな! あ、でも俺、料理スキルは全然だから……あみ先生に教えてもらおうかな?」


「ふふ、じゃあ一緒に作ろっか。簡単なサンドイッチとかで」


 犬たちがくんくんと足元でじゃれ合う。


 未来の話をするというのは、怖いときもあるけれど、こうして一緒に思い描く誰かがいると、少しだけ前向きになれる。


 あみは、こゆきのリードを握り直して、小さく呟いた。


「……楽しみにしてるね、茂樹くん」

 朝の光がカーテンの隙間から差し込むよりもずっと早く、あみは目を覚ました。


 スマートフォンの画面には、まだ「6:04」の文字が表示されている。


 「……早すぎたかな」


 そう思いながらも、胸の奥がふわふわして落ち着かなかった。眠気はとうに引っ込んでいて、心のどこかがずっとそわそわしている。


 こゆきともかも、不思議そうにあみの足元にまとわりついていた。


 「あはは、なんか、ごめんね。……でも、せっかくだからさ」


 あみは小さく笑って、そっとキッチンへと足を運んだ。


 冷蔵庫を開けて、使えそうな食材を並べる。卵、ウインナー、ブロッコリーに、昨晩茹でておいたじゃがいも。

 気づけば、手は自然と二つ分のお弁当箱を並べていた。


 「……一緒に、って言ったし。作っても、いいよね?」


 そんな自分への言い訳を口にしながら、卵を割る。カラカラ、トントンと、キッチンに小さな音が響く。

 いつもの朝ごはんとは違う――丁寧に、慎重に、でもどこか楽しくて。


 茂樹の好みを思い出しながら、味を少し濃いめにして、ウインナーには小さな切り込みを入れ、タコの形に。

 最後に小さなプチトマトを加えて、カラフルに仕上げた。


 「……できた」


 2つのお弁当箱に、しっかり詰められた食材たち。

 自分のだけ作るつもりだったのに、気づけば“茂樹の分”を意識していたことに、頬がふわっと赤くなる。


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


 「……!」


 はっとして時計を見ると、ちょうど待ち合わせの10分前。


 こゆきともかが「わん!」と鳴いて玄関に向かう。あみは慌ててエプロンを外し、少しだけ整えてからドアを開けた。


 「おはよ、あみ。早かった?」


 茂樹は、ラフなパーカーにデニム姿。後ろの車には、助手席のドアが開いたままになっている。


 「ううん。ちょうど、できたところ」


 「できた?」


 「……お弁当。ちょっと早起きしすぎちゃって」


 そう言って、あみはキッチンに置いておいた紙袋を見せた。


 「……二人分。もしよかったら、一緒に食べない?」


 一瞬きょとんとした茂樹の表情が、すぐに柔らかくほどけて笑顔になった。


 「ありがとう。うれしい。俺、なんにも用意してなかったから、助かる」


 「ほんと? よかった……」


 ふと、足元でリードを引っ張る感触。こゆきともかが、もう待ちきれないとばかりに前足を上げている。


 「さ、行こっか。今日も天気よさそうだし、いっぱい遊べるよ」


 「うん。……行こう!」


 車に乗り込んだあとも、あみの膝の上には丁寧に包まれたお弁当が乗っていた。

 それは、どこか「伝える」代わりの気持ちが詰まった小さな箱。

 この日が、きっと“特別な思い出”になる予感がしていた。

 車内は穏やかな朝の光に包まれていた。外の景色がゆっくりと流れていく中、あみと茂樹はリラックスした様子で座っていた。


 「ねえ、茂樹くん」

 あみが声をかける。

 「昨日、作ってくれたお弁当、美味しかったよ。ありがとう」


 茂樹は照れくさそうに笑う。

 「俺も、あみの作ったの食べられて嬉しかった。朝から元気出たよ」


 車は緑の多い郊外へと入っていく。

 こゆきともかは後部座席で落ち着いた様子で、時折顔をあみや茂樹に向けている。


 「ねえ、あみ」

 茂樹が少し緊張しながら口を開いた。

 「……実は、昨日のことだけどさ。俺、告白のこと、あきらめてないんだ」


 あみは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しい微笑みを返す。

 「知ってる。私もずっと考えてるから……ありがとう、茂樹くん」


 その言葉に、茂樹はほっと息をついた。

 「いつか、ちゃんと伝えたい。急がなくていいから、待っててほしい」


 「うん」


 しばらく二人は黙って外の景色を眺めた。


 車はドッグランのある大きな公園の駐車場に滑り込む。


 「さあ、着いたよ」

 茂樹が嬉しそうにドアを開ける。


 あみも立ち上がり、こゆきともと一緒に外に出た。


 柔らかな草の匂い、風に揺れる木々の葉音。こゆきともは楽しそうに走り回っている。


 「ああ、いい天気だなあ」

 茂樹が深呼吸した。


 「ほんとに。来てよかった」

 あみも笑顔で答えた。


 二人は並んでベンチに腰掛け、こゆきともが遊ぶ様子をゆっくり眺めた。


 「あみ、こんなふうにのんびり過ごすの、久しぶりだね」

 茂樹がぽつりと言った。


 「うん。忙しかったから、すごく嬉しい」


 「またこういう時間、作ろうよ」


 「そうだね」


 しばらく話したあと、二人はお弁当を広げてゆっくり食べた。


 「茂樹くんのお弁当、ほんとにおいしい」

 あみが笑いながら言う。


 「ありがとう。でも、あみのも最高だよ」


 昼下がりには近くのペット可のカフェへ移動した。


 店内は静かで落ち着いた空気。こゆきともは足元で静かに寝そべっている。


 「お茶しながら、またいろいろ話そう」

 茂樹が提案した。


 「うん。茂樹くんとなら、どんな話でもできそう」


 「俺もだ」


 話は自然に将来のこと、大学のこと、夢のことへと広がった。


 「茂樹くんは、どんな大学生活にしたい?」


 「うーん……勉強もがんばりたいけど、やっぱり友達やいろんな人と交流したいな。あみとも、たまには遊びたいし」


 「あはは、そうだね」


 夕方、二人はゆっくりと散歩しながら帰路についた。


 空は茜色に染まり、やわらかな風が頬を撫でる。


 「今日、ありがとう」


 「こちらこそ」


 言葉少なに見つめ合い、少しの間、静かな時間が流れた。


 「また、こういう日を作ろうね」


 「うん、約束だ」


 穏やかで、あたたかい一日が、二人の胸に静かに刻まれていった。

夕暮れの公園のベンチに二人並んで座っていた。

少し冷えた風が頬を撫でる。


あみは深く息を吸い、ゆっくりと口を開く。

「茂樹くん……私、ずっと考えてたことがあるの」


彼の顔をじっと見つめる。

「正直、すごく怖いんだ。

一緒にいたいって気持ちはあるけど、同時に“もし捨てられたらどうしよう”って思うと、胸がぎゅってなるの」


茂樹は少し驚いた表情を見せた後、静かに手を伸ばしてあみの手を握る。

「そんなこと、絶対にないよ。

俺はずっとあみのそばにいる。だから、安心してほしい」


あみはその言葉に少し涙ぐみながらも、小さく首を振った。

「でも、私、返事をすぐにはできなくて……。

気持ちはあるけど、怖さも消えなくて」


茂樹は黙ってあみの肩にそっと寄り添い、しばらく二人は静かな時間を過ごした。


「焦らなくていいよ。

俺は待つ。あみの気持ちがちゃんと決まるまで」


そう言いながらも、彼の目には強い覚悟が光っていた。


あみはその覚悟に触れて、少しだけ心の奥が温かくなった。


「ありがとう、茂樹くん」


夕焼けが二人を優しく包み込み、これからの未来がまだ見えなくても、確かな絆を感じさせていた。

翌朝、あみはスマホを手に取り、ゆっくりとメッセージを打ち始めた。

「おはよう、茂樹くん。今日、よかったら犬たちと一緒にどこか行かない?」


メッセージを送信すると、数分後にすぐ返信が返ってきた。


「おはよう!え、本当に?

犬たちも一緒に?やったー!めっちゃ嬉しい!」


画面越しに伝わる茂樹のテンションに、あみも自然と笑顔になる。


「うん、天気も良さそうだし、みんなでのんびり散歩とかどうかな?」


「いいね!俺、今日ずっと楽しみにしてたんだよ。

犬たちにも早く会いたくて仕方なかった」


あみはその言葉に心がほっこりしながら返信を続けた。


「じゃあ、午後から家に来てね。お弁当も作って待ってる」


「マジで?ありがとう!

それじゃあ午後に向かうね!待ってて!」


メッセージを送り終えると、茂樹は思わず部屋でジャンプしながら声を上げた。


「やった!犬たちと一緒に遊べるなんて最高だ!」


隣にいた妹が微笑みながら言った。


「そんなに喜んで、彼女のこと好きなんだね」


茂樹は少し照れながらも目を輝かせて答えた。


「そりゃあ、もう。あみちゃんのこと、大事にしたいから」


その日、二人は犬たちと過ごす一日を思い描きながら、それぞれにわくわくと期待を膨らませていた。


日曜日の午後、まだ肌寒さの残る春先の風が頬を撫でていた。けれど陽射しは柔らかく、どこか穏やかな空気が街を包んでいる。


 あみは、自宅近くの小さな公園の入り口で立ち止まり、リードを握りしめた。足元には小さな犬が二匹、ちょこんと座っている。


「来た……!」


 視線の先から駆けてくるのは、パーカーにジーンズ姿の茂樹。全力で走ってきたのか、肩を上下させながら手を振っていた。


「おーい!ごめん、待った?」


「ううん、今来たとこ」


 あみは小さく笑った。ほんの少しだけ声が揺れたのは、内心では彼に会うことをずっと心待ちにしていたからだ。


「おお……!こいつらが“ちびーず”か?」


「ふふ、名前つけたの。こっちがソラで、こっちがモモ」


「へえ、ソラとモモ。いい名前じゃん。似合ってるよ」


 茂樹はしゃがんで、二匹の頭を交互に撫でた。警戒していた犬たちもすぐに尻尾を振り始める。


「今日は、あっちの広場まで歩いてみない?人も少ないし、のんびりできると思う」


「いいね。行こっか」


 二人と二匹、ゆっくりと歩き出す。陽射しに照らされて伸びる影が、仲良く並んで揺れていた。


 しばらく沈黙が続いたあと、あみがぽつりと口を開いた。


「ねぇ、茂樹くん……この前の告白、ちゃんと答えてなくて、ごめんなさい」


 茂樹は立ち止まり、ポケットに手を入れたまま、空を見上げるような目をした。


「……ううん、わかってた。今は、まだそういう気分じゃないんだろうなって」


「……怖かったの。佐々木さんと暮らすようになって、“家族”ができるのに……また、誰かに甘えて、離れていくのが怖くて……。今度は、茂樹くんに捨てられるんじゃないかって……」


 茂樹は静かに、だけどはっきりとした声で答えた。


「俺は、あみを捨てるつもりなんて、1ミリもないよ。むしろ、ずっと一緒にいたい。泣きたいときも、笑いたいときも、そばにいたいって思ってる。……俺、今でも、あみのことが好きです」


 あみは少し唇を噛んで、頷いた。


「私も……好きです。きっと、ずっと前から。でも今なら、ちゃんと……言える」


 言葉を交わしたその瞬間、小さなモモがくしゃみをして、ソラがリードを引っぱって足元をくるくると回り始めた。


「……なんか、邪魔されたな」


 茂樹が少し困ったように笑い、あみも思わず吹き出した。


「いいの。……これからは、何度でも伝えるから」


 二人は再び歩き出した。足元にはちびたちの小さな足音、そして並んで揺れるふたつの影。

 それは、静かに寄り添い始めたふたりの心を映していた。

大学の講義を終え、あみはいつものように茂樹と待ち合わせて駅前のカフェへ向かっていた。


けれど、今日はどこか心が沈んでいた。


(……どうしてだろう。ちょっとしたことなのに)


昨日の夜、茂樹からのLINEがそっけなく感じてしまったこと。

返事も「了解」や「うん」ばかりで、ほんの少し、距離を感じてしまったこと。


——付き合ってから数週間。嬉しいことの方がずっと多かったのに、

ほんの少しの違和感が、どうしようもなく胸に引っかかっていた。


 


「ごめん、待った?」


カフェの入り口で、いつものように茂樹が笑って声をかけてきた。


「……ううん、大丈夫」


あみも笑い返すけれど、目を合わせるのに少しだけ勇気が要った。


店内に入り、窓際の席に座る。アイスコーヒーとミルクティー。

テーブルに並ぶいつもの飲み物。でも、今日はなぜか落ち着かない。


 


「なんか……あった?」


不意に、茂樹が低い声で聞いてきた。


「え?」


「今日のあみ、ちょっとだけ変に感じた。無理して笑ってるというか……」


 


一瞬、心がきゅっと締めつけられた。


——気づいてたんだ。ちゃんと見てくれてたんだ。


「……昨日のLINE、ちょっと冷たく感じた。

それで、もしかして迷惑なのかなって思って……」


小さな声で、正直に打ち明けると、茂樹は驚いた顔をしたあと、ふっと微笑んだ。


「ごめん。実は、レポートがうまくいかなくて、余裕なかったんだ。

でも……そうやって言ってくれて、ありがとう」


「え?」


「ちゃんと“どうして寂しかったのか”って伝えてくれるの、嬉しい。

俺、たまにそういうの鈍感だから、言ってもらえる方が安心する」


「……そっか。じゃあ、よかった」


ほんの少しだけ、胸の奥のもやもやが溶けていく。


 


「あみも、不安になったり、さみしいときは遠慮しないで。

言葉にしてくれる方が、ずっと助かるよ」


「……うん。茂樹くんも、私に言っていいからね。つらいときとか」


 


ふたりの間にあったわずかな距離が、ゆっくりと縮まっていくのを感じた。


言葉にすることで、ちゃんと心が近づく。

そんなあたりまえのことを、ふたりは今、学んでいた。


 


その帰り道、並んで歩く足音が、前より少しだけ軽やかだった。


 


——本音を言える関係って、きっとこういうことなのかもしれない。


夕暮れの風が、春の匂いを乗せてふたりの背中を押していた。


カフェを出たあと、ふたりは自然と駅前の小さな公園へと足を向けた。


木々の間から差し込む西日が、オレンジ色に地面を染めている。


風は少し冷たいけれど、季節の変わり目を感じさせる優しい匂いがした。


ベンチに並んで腰掛けると、しばらくのあいだ、どちらからともなく沈黙が流れた。


でもそれは、気まずいものではなくて、心地よい静けさだった。


「……ねえ」


あみがそっと声を上げた。


「うん?」


「茂樹くんって……将来、どんなふうに暮らしたいとか、ある?」


「将来……か。急にどうしたの?」


「なんかね、さっき話してて思ったの。

もっと茂樹くんのこと、知りたいなって。今だけじゃなくて、これからのことも」


茂樹は少しだけ考えてから、ぽつりと話し始めた。


「うーん……正直、まだ“これ!”ってはっきりした夢があるわけじゃないんだけどさ」


「うん」


「でも、誰かと一緒にいて、ちゃんと笑ってる未来がいいなって思う。

たとえば仕事で疲れて帰ってきても、『おかえり』って言ってくれる人がいて……

そんな日常が、何より大事な気がしてて」


その言葉に、あみの胸がじんわりとあたたかくなった。


「……いいね、それ。私もそう思う」


「そっちは? あみはどう?」


「私もね……昔は、“普通の家庭”に憧れてた。

パパとママがいて、ペットがいて、ごはんを一緒に食べるっていう……

でも今は、それよりも“安心できる居場所”があることが大切だなって思ってる」


「安心できる場所、か」


「うん。誰かと一緒に過ごして、ちゃんと大切に思い合えて……

喧嘩したり、すれ違ったりしても、またちゃんと話せるような関係」


茂樹は、ゆっくりと頷いた。


「それ、俺も目指したいやつだな」


「……私ね、茂樹くんがいたから、そう思えるようになったんだと思う」


「……そっか」


少しだけ、照れくさそうな笑いがふたりの間に流れる。


 


「だから……これからも、少しずつでもいいから、

“お互いの未来”っていうのを一緒に考えていけたら、嬉しいなって」


あみの言葉に、茂樹は真剣な顔で頷いた。


「うん、俺も。焦らなくていいし、きっと正解もないけど……

一緒に考えて、一緒に歩いていけたら、何より心強い」


「……うん」


 


ふたりは見つめ合い、微笑んだ。


春の風が、木の葉を揺らしながら、ふたりの間を通り抜けていく。


その空気の中に、ふわりと“未来のかたち”が、ほんの少しだけ見えた気がした。


——まだ確かな輪郭ではないけれど、

同じ方向を向いていられることが、今のふたりには何よりの希望だった。


夕暮れが完全に夜へと変わるころ、あみは茂樹の車で家の前まで送ってもらった。


「じゃあ、また連絡するね」


茂樹が手を軽く振る。


「うん、ありがとう。……今日は、ほんとに楽しかった」


小さく笑ってそう言うと、あみは家のドアを開けた。


玄関に入ると、佐々木さんがちょうどリビングから顔を出した。


「あみちゃん、おかえり。ちょっといい? 話したいことがあるの」


その口調は、いつもの優しさを含みながらも、どこか“真剣な空気”をまとっていた。


 


あみはうなずき、ダイニングテーブルの向かい側に座る。


佐々木さんは、湯気の立つマグカップをあみにそっと差し出した。


「ゆっくりでいいから。さっき、玄関先で彼の車が見えたからね……」


あみは視線を落とし、手の中のマグカップをぎゅっと握った。


「……うん」


「彼のこと、どう思ってるの?」


 


あみは、一度深く息を吸い込んだ。


「大切な人、です。……でも、それだけじゃない気がしてる」


「それだけじゃない?」


「一緒にいると、安心できて、笑えて……

だけど、ずっとそばにいてくれるのかなって、ふとした時に不安になるんです。

もし私が、面倒くさいって思われたらとか、

将来、別の道を選ばれたらとか……」


 


佐々木さんは少し微笑みながらも、真剣な眼差しであみを見つめた。


「不安になるのは、ちゃんと相手を大切に思ってる証拠だよ。

でもね、それと向き合うのはあみちゃん自身なんじゃないかな」


「……向き合う、か」


「うん。彼がどれだけあみちゃんを想ってるか、

今日の様子を見ただけでもすごく伝わってきたよ。

でも、それを受け取る覚悟が、あみちゃんの中にちゃんとあるかどうか……それが大事なんだと思う」


あみは、少しだけ黙って、マグカップの中を見つめた。


「……私、受け取るのが怖いだけだったのかもしれない。

彼の気持ちが変わってしまったらって思って。

でも……今日、一緒に過ごしてて思ったんです。

たとえ未来のことが分からなくても、

“今”ちゃんと大事にしてくれる人がそばにいるって、それだけで十分幸せだなって」


佐々木さんの表情がふっと緩んだ。


「……それなら、もう答えは出てるんじゃない?」


「……うん。私、ちゃんと向き合いたい。彼と一緒にいたい」


 


あみのその言葉に、佐々木さんは嬉しそうに頷いた。


「よかった。……あみちゃんのその気持ち、きっと彼も待ってるよ」


「あの……ありがとう、佐々木さん。こんなふうに話を聞いてくれて」


「家族だからね。これからも、何かあったら遠慮なく話して」


その言葉に、あみはようやくふっと笑った。


ほんの少しだけ、心の中の迷いが晴れていくのを感じていた。


 


——そしてその夜、あみは、ようやく“伝えるべき想い”を胸に抱いて、布団に入った。


次に会ったとき、自分の言葉で、きちんと伝えよう。


未来がどうなるかは分からないけれど、それでも一歩踏み出したいと思えた夜だった。


翌日の午後、あみは自分の部屋で窓の外を眺めながら、スマホを手にとった。


犬たちは彼女の足元で丸くなり、穏やかな寝息を立てている。


心の中には、昨日の夜、佐々木さんと交わした会話がまだ余韻のように残っていた。


(ちゃんと自分の気持ちを、言葉にしなくちゃ)


そう決めたあみは、スマホのメッセージアプリを開いて、茂樹に一通のメッセージを送った。



あみ:

ねぇ、明日、少し話せる時間ある?

ちゃんと、将来のこと話したいなって思って。

私の気持ちも、ちゃんと伝えたいから。



送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がぎゅっとなる。


だが、数分後にはすぐに返信が届いた。



茂樹:

もちろん。むしろ、俺も話したかった。

明日、午後に迎えに行くね。

……ゆっくり、話そう。



その短い文章の中に、茂樹の変わらない優しさと、あみへの誠実な思いが滲んでいた。


あみは思わずスマホを胸に抱きしめる。


「……ありがとう」


つぶやくような声に、足元で眠っていた小さな犬がぴくりと耳を動かした。


 


そして翌日、午前中から天気は穏やかだった。


空は少し霞んでいたが、冷たい風もなく、春の兆しがほんのりと感じられる午後。


家の前に停まった車から、茂樹が降りてくる。


白いパーカーの上にライトグレーのジャケットを羽織り、どこか緊張した面持ちで玄関のインターホンを押した。


 


ドアが開くと、あみが犬たちを抱えて現れる。


「……来てくれてありがとう」


「うん、こっちこそ。……なんか、ちゃんとこうやって呼んでもらえたの、嬉しい」


「昨日……ちゃんと話そうって思ったの。ちゃんと自分の気持ち、茂樹くんに伝えたいって」


 


二人は軽くうなずき合い、そのまま並んで歩き始める。


小さな犬たちも、チョコチョコと二人のあとを追いかけるように歩いていた。


どこか、散歩というには少しだけ慎重な、でも確かな足取りで。


そしてその空気の中には、ただの「いつも通り」ではない、

未来へ一歩踏み出すための静かな覚悟が、互いに伝わり始めていた。

夜の並木道は静かで、街灯がぽつぽつと足元を照らしていた。


翌日の午後、あみは自分の部屋で窓の外を眺めながら、スマホを手にとった。


犬たちは彼女の足元で丸くなり、穏やかな寝息を立てている。


心の中には、昨日の夜、佐々木さんと交わした会話がまだ余韻のように残っていた。


(ちゃんと自分の気持ちを、言葉にしなくちゃ)


そう決めたあみは、スマホのメッセージアプリを開いて、茂樹に一通のメッセージを送った。



あみ:

ねぇ、明日、少し話せる時間ある?

ちゃんと、将来のこと話したいなって思って。

私の気持ちも、ちゃんと伝えたいから。



送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がぎゅっとなる。


だが、数分後にはすぐに返信が届いた。



茂樹:

もちろん。むしろ、俺も話したかった。

明日、午後に迎えに行くね。

……ゆっくり、話そう。



その短い文章の中に、茂樹の変わらない優しさと、あみへの誠実な思いが滲んでいた。


あみは思わずスマホを胸に抱きしめる。


「……ありがとう」


つぶやくような声に、足元で眠っていた小さな犬がぴくりと耳を動かした。


 


そして翌日、午前中から天気は穏やかだった。


空は少し霞んでいたが、冷たい風もなく、春の兆しがほんのりと感じられる午後。


家の前に停まった車から、茂樹が降りてくる。


白いパーカーの上にライトグレーのジャケットを羽織り、どこか緊張した面持ちで玄関のインターホンを押した。


 


ドアが開くと、あみが犬たちを抱えて現れる。


「……来てくれてありがとう」


「うん、こっちこそ。……なんか、ちゃんとこうやって呼んでもらえたの、嬉しい」


「昨日……ちゃんと話そうって思ったの。ちゃんと自分の気持ち、茂樹くんに伝えたいって」


 


二人は軽くうなずき合い、そのまま並んで歩き始める。


小さな犬たちも、チョコチョコと二人のあとを追いかけるように歩いていた。


どこか、散歩というには少しだけ慎重な、でも確かな足取りで。


そしてその空気の中には、ただの「いつも通り」ではない、

未来へ一歩踏み出すための静かな覚悟が、互いに伝わり始めていた。


 あみと茂樹は、並んでゆっくり歩いていた。犬たちは静かに前を歩き、時おりリードがふわりと揺れる。


「……ねえ、茂樹くん」


 あみの声が、小さく夜の空気に混ざった。


「……私、ちょっと……怖いの」


 その言葉に、茂樹は歩調を緩める。


「なにが?」


「あのね……最近、なんだか、わたしだけが茂樹くんのこと、好きになってる気がして……。

返事を急がせちゃいけないって思ってるのに、どうしても、自分だけ前のめりになってるみたいで……」


 言い終わったあと、あみは視線を落とした。

 舗道に落ちた木の影が、揺れていた。


「……ごめん、あみ」


 茂樹がぽつりと呟いた。


「不安にさせてたんだなって、今気づいた」


 あみが顔を上げると、茂樹の目は真剣だった。

 その瞳に、言い訳でも逃げでもない、まっすぐな思いが浮かんでいた。


「最近、バイトで忙しかったのは……自分の生活費もあるけど、それだけじゃない」


「え……?」


「俺、今、一人暮らししてる。親から援助ももらわないって決めてるんだ。

ちゃんと自分でやってみたくて。……それと」


 言いかけて、茂樹は少しだけ照れたように笑った。


「……いつか、あみが“泊まりに来たいな”って思ったときに、堂々と招待できるような部屋にしたくて」


 あみの目が大きく見開かれた。

 思わず立ち止まり、犬たちがくるりと振り返る。


「そんな……ことまで、考えてくれてたの……?」


「うん。ちゃんと向き合いたかった。中途半端なままじゃなくて、自分の言葉で伝えたいって思ってたから……」


 言葉が喉の奥で詰まりそうになる。


「でも、その間、あみの気持ちを置いてきぼりにしてたかもしれない。……それだけが、ほんとに、ごめん」


 あみは胸がいっぱいになって、しばらく何も言えなかった。

 でも、頬を伝った涙を手の甲で拭いながら、小さく微笑んだ。


「……バカだね。茂樹くん」


「うん。たぶん、バカだ」


 ふたりはふっと笑い合った。


 その笑いが、胸の中のもやを少しずつ溶かしていく。


「でも……嬉しかった。ちゃんと、話してくれて」


「ありがとう。あみも……ちゃんと話してくれて」


 その夜風の中で、あみの心の中にあった“不安”という名の影が、少しだけ薄らいでいった。


夜道を歩きながら、ふたりの歩幅は自然と揃っていた。

 犬たちは先を歩いていたけれど、時おり振り返っては、ちゃんとふたりの存在を確認している。


「ねえ、茂樹くん……」


「うん?」


 あみは少しためらってから、静かに口を開いた。


「その……“泊まりに来てもいいように”って、さっき言ってたけど……それって……」


 言葉を選びかけていたあみに、茂樹はゆっくりとうなずく。


「うん。……本気で言ってる。ちゃんと、“一緒にいたい”って思ってるから」


 そのまま、茂樹は少し照れくさそうに視線を外した。


「実はね……少しずつ、貯金もしてるんだ」


「え……?」


「バイト代から、毎月少しだけど、ちゃんと。

いつか、一緒に住むってなったときに困らないようにって思って」


 あみは目を瞬かせた。


「……それって……」


「うん、つまり、そういうこと」


 茂樹は深呼吸をするように、夜空を見上げた。


「……まだ“今すぐ”とかじゃない。でも、俺……いつか、あみと結婚したいって思ってる。

だから、そのために、今できることを一つずつやってる」


 その言葉は、夜風の中でも、あみの胸の奥に真っ直ぐ届いた。


「……冗談とかじゃ、ないよね?」


「バカ。そんなことで冗談言うわけないじゃん」


 茂樹はそう言って、あみの目をじっと見つめた。

 その目はまっすぐで、嘘のかけらもなかった。


「……ありがとう。なんか……すごく、嬉しい」


 あみはそう言いながら、ゆっくりと茂樹の手に自分の手を重ねた。


「わたし……まだ不安もあるけど……でも、茂樹くんと未来のことを考えたい。ちゃんと」


 手の温もりが、じんわりと伝わる。


「一緒に……少しずつ、進んでいこう」


「うん」


 茂樹はそっと、あみの手を握り返した。


 夜の道には、木々の葉が揺れる音と、犬たちの小さな足音だけが響いていた。


 その静けさの中、ふたりの間に生まれた未来への約束は、まだ小さな芽のようだけれど──確かに、そこにあった。


夜、リビングの壁掛け時計が午後九時を少し回ったころ。


 あみは玄関にかけていたリードを手に取ると、小さく息を吐いた。


「……じゃ、ちょっと行ってきます」


「……また?」


 キッチンカウンター越しに声をかけた佐々木さんの声には、ほんの少し戸惑いが混じっていた。


「うん。なんだか落ち着かなくて……」


 小型犬のチワワとダックスが嬉しそうにしっぽを振るのを見て、あみは微笑む。


「ほら、あの子たちも行きたがってるし」


 そう言って出ていくあみの背を、佐々木さんは黙って見送った。


 


 その翌日――。


「……すみません。急にお呼びして」


 佐々木さんは静かな声で言い、西野さんにお茶を差し出す。


「いえ。あみさんのことですよね?」


 佐々木さんはうなずく。


「最近……散歩の回数が明らかに増えてて。昼間はともかく、夜だけで三回、四回。多いときは十回近く外に出てることもあるんです」


「十回……?」


「ええ、どんなに夜が遅くても。あの子、何か考え込むとすぐ身体を動かそうとする癖があるから……」


 西野さんは静かに頷いた。


「施設にいたときもそうでした。言葉では言わなくても、どこかで抱え込んでしまう子で。自分でもそれに気づいてない時もあるんです」


 


 そのとき、廊下から軽い足音がして、あみがひょこっと顔を出した。


「あ……あれ、西野さん?」


 驚いたように目を丸くする。


「よ、お邪魔してるよ。ちょっと、佐々木さんと話があってね」


「私の……こと、ですか?」


 その目が、少しだけ揺れる。嘘を見抜かれた子どものように。


 


 佐々木さんは、あみにそっと声をかけた。


「あみちゃん、こっち来て。少しだけ話せる?」


 


 静かなリビング。ソファに三人が並ぶ。


 しばらくの沈黙のあと、西野さんがやわらかく切り出す。


「……最近、夜にお散歩たくさんしてるって聞いたよ」


 あみは一瞬、はっとして、視線を落とした。


「……うん。なんか……考えちゃって、眠れなくなるんです」


「何を考えてるの?」


 佐々木さんの声は、決して責めるような調子ではなかった。


「……いろいろ。将来のこと、大学のこと……それに……」


 あみはそこで言葉を飲んだ。


「……茂樹くんのこと?」


 西野さんの言葉に、あみの肩がピクリと揺れた。


「……うん。好きなのに……怖いんです。いつか、私のこと……いらないって言われたらどうしようって」


 ふと、犬たちがあみに寄り添い、前足をソファにかけて顔を覗き込む。


 あみは思わず笑いながら、その頭を撫でた。


「この子たちは、何も言わないけど……ずっと一緒にいてくれるって思える。でも、人は……そうじゃない」


 


 佐々木さんがそっと、あみの手を取る。


「不安に思うのは当然だよ。私だって、あみちゃんがここに来たばかりの頃は、毎晩ちゃんと眠れてるかなって心配だった。でも――ちゃんと伝えてくれたら、私たちはいつでも力になるから」


「うん。……ありがと、ございます」


 あみはぽつりと、少し泣き笑いのような声を漏らした。


「大丈夫。あみは、ちゃんと前を見てる。だから、歩いていけるよ。誰かと一緒にでも、一人でも」


 西野さんのその言葉に、あみはようやく、少し肩の力を抜くことができた。


 


 その夜は久しぶりに、夜中に外に出ることはなかった。


 犬たちはあみの足元で静かに丸くなり、眠っていた。


夜八時過ぎ。郊外のカフェは平日のせいか人も少なく、店内には落ち着いた音楽が流れていた。


 窓際の席で先に待っていた佐々木は、やや緊張した面持ちでカップを両手で包んでいた。ガラス越しの街灯が、窓をぼんやりと照らしている。


 やがて扉のベルが鳴り、茂樹が現れる。


「こんばんは、佐々木さん。遅れてすみません」


「ううん、来てくれてありがとう。急にごめんね。ちょっとだけ……話したいことがあって」


 茂樹は首を傾げながらも、向かいに座った。


「……あみちゃんのこと、ですよね?」


 佐々木はその問いに、ほんの少し驚いたような顔を見せたあと、ゆっくりとうなずく。


「うん、さすがに分かるよね。……最近のあみちゃん、夜遅くに何度も散歩に出るようになってて」


「散歩……ですか?」


「ええ。一日に何回も。多いときは、夜だけで五回も六回も出てるの」


 茂樹の眉がわずかに寄る。


「……それ、完全に無理してますよね。寝不足になってないですか?」


「うん、私もそれが心配で。何か思いつめてる感じがして……。今日、西野さんにも来てもらって、あみちゃんの話を聞いたの」


「……何か、言ってました?」


 佐々木は一度、カップに目を落としてから、ゆっくりと答えた。


「……“茂樹くんに捨てられるかもしれない”って。不安なんだって」


 その言葉に、茂樹は小さく目を見開いた。


「俺が……?」


「そう。“大切に思ってるからこそ、失うのが怖い”って。……だからって言って、話せば解決するって簡単な話でもないのは分かってる。でもね、あなたがどう思ってるか、ちゃんと伝えてあげてほしいの」


 茂樹はしばらく黙っていた。目を伏せ、何かを噛みしめるように。


「……俺、バイトも学校もあって、ちゃんと時間とれてなかった。あみと過ごす時間が、どれだけ大切なのか……それを、言葉で伝えられてなかったんだと思います」


「……そうかもしれないね」


「でも、捨てるなんて、そんなの絶対にない。俺……本気で、あみと向き合っていきたいと思ってるから」


 佐々木はふっと微笑み、手元のカップを持ち上げた。


「それならよかった。少しでも気づいてもらえたら、あみちゃんも救われると思う。……あの子、強く見えて本当はすごく繊細だから」


「はい。ちゃんと、話します。ちゃんと向き合いたいです」


 その夜、カフェの外に出た二人を、春の夜風が静かに包んでいた。


翌日の放課後、校庭の隅のベンチに並んで座ったあみと茂樹。夕陽が長く影を伸ばし、風はまだ少し冷たかった。


茂樹は少し緊張した面持ちで口を開く。

「昨日、佐々木さんから話を聞いたんだ。夜遅くに何度も散歩に出てるって。」


あみは少し肩をすくめて、視線を伏せる。

「うん……自分でもわからないんだ。気づくと外に出てて、やめられなくて。」


「無理してない?体、疲れてない?」

茂樹が心配そうに尋ねる。


「疲れてると思う。でも、なんでか心がざわざわして落ち着かなくて……」

あみは小さく息を吐く。


茂樹は真剣な目であみを見つめた。

「それで、佐々木さんから“あみが俺に捨てられるかもしれないって怖がってる”って聞いて、驚いたんだ。」


「そうなの……そんなこと考えちゃう自分が嫌で」

あみの声は震えている。


「俺はそんな風に思わせるつもりなんて、全然なかった。ごめん。」

茂樹は申し訳なさそうに頭を下げた。


「でも、話してくれてありがとう。ちゃんと向き合いたいんだ。」

その言葉に、あみは少しだけ肩の力が抜けたようだった。


「怖いって思う気持ちも、俺がいるからって消えるとは限らないけど……」

茂樹は言葉を選びながら続ける。


「それでも、俺はあみのそばにいたい。迷わせたくない。」


あみはゆっくりと顔を上げ、涙をこらえながら微笑んだ。

「ありがとう。茂樹くんのそういう言葉が、すごく心強い。」


「これからはもっと話そう。何でも遠慮しないで言ってほしい。」

茂樹の声には真剣な優しさがこもっていた。


あみは茂樹の手をそっと握り返す。

「うん、私もちゃんと伝えるね。怖がってるだけじゃなくて、嬉しい気持ちもあるって。」


「それでいいんだよ。お互い、歩幅合わせていこう。」

茂樹はにっこりと笑う。


夕暮れの柔らかな光が二人を包み込み、未来へ向かう小さな約束の時間が静かに流れていった。


夕暮れのやわらかな光が窓から差し込み、茂樹の部屋は温かな雰囲気に包まれていた。あみは小さなリュックを背負い、キャリーバッグには眠る二匹の小型犬が入っている。


「今日から、ここに泊まるって……」

あみは少し緊張した声で言った。


「うん。無理しなくていいから、気楽にいてね」

茂樹は優しく微笑み、ドアを開けた。


部屋に入ると、心地よいぬくもりが広がり、あみの胸のざわつきが少し和らいだ。


「ペットたちもここなら落ち着くかな?」

あみはバッグを開けて、小さな頭をなでた。


ミルクが目をぱちぱちさせて、ゆっくりと体を伸ばす。


「うん、安心してるみたい」

あみの口元に、自然と微笑みが浮かぶ。


「最初は緊張するよね。俺も最初はそうだったから」

茂樹が隣に座り、あみの手をそっと握る。


その温かさに、あみは少しだけ顔を赤らめた。


「茂樹は、一人暮らし大変じゃない?」


「まあ、でも慣れたよ。自分のペースで過ごせるからね」

茂樹は笑顔を作るが、少し寂しそうな色も見えた。


「偉いなあ……私、まだまだ不安だらけで」

あみは小さな声でつぶやく。


「不安?どんなこと?」


あみは一瞬言葉に詰まったが、思い切って口を開く。


「茂樹に……捨てられたらどうしようって。私、ずっと一人で怖かったから」

涙がこぼれそうになり、視線をそらす。


茂樹はすぐに両手であみの顔を包み込み、真剣な目で見つめた。


「そんなこと、絶対にないよ。あみがいてくれるから、俺は頑張れてる」

彼の言葉には揺るぎない覚悟があった。


あみはその言葉を胸に刻み込み、少しずつ心の重さが溶けていくのを感じた。


「ありがとう……茂樹」

震える声で感謝を伝えた。


夕食の支度をしながら、二人はゆっくり話を続けた。


「料理、得意じゃないけど、あみのためなら頑張るよ」

茂樹は照れくさそうに笑う。


「嬉しい。茂樹の作るご飯、楽しみにしてる」

あみは明るく答え、部屋に笑い声が広がった。


食後のリビングでは、犬たちが床で丸くなり、二人の膝の上で落ち着いている。


「夜、怖くない?」


「ううん。ここにいると安心するよ」

あみは茂樹の胸に寄り添いながら言う。


「俺も、あみのそばにいられて幸せだ」

茂樹はそっと肩を抱いた。


夜が深まると、静かな時間の中で二人の距離は自然と近づいていった。


あみは深呼吸をしながら心を開いた。


「これからも、ずっと一緒にいたい」

ぽつりと呟いた。


茂樹はゆっくりと頷き、優しく応えた。


「絶対に離さない」


窓の外には星が瞬き、二人の未来を静かに見守っていた。


佐々木家に戻ったあみは、表面上はいつも通り明るく振る舞っていた。

けれど、誰にも見せられない胸の奥は、いつも重く沈んでいた。


部屋に閉じこもる夜、薄暗い照明の中で、腕にそっと触れる長袖の下の冷たさを感じる。

指先で恐る恐る触れたそこには、自分でつけた細い傷跡があった。


「どうしても、誰にも言えない。こんな弱い自分を……」


涙が自然と溢れ、枕に顔を埋めて嗚咽を漏らす。

一人で耐えきれず、でも誰にも頼れずにいる自分を、どうしても責めてしまう。


「もし、あの人たちに迷惑かけたら……」


そんな不安が胸を締めつけて、息が苦しくなる。

外では普通の声で話し、笑っているのに、心の中は嵐のように荒れていた。



翌日、佐々木さんはあみの様子がいつもと違うことに気づき、心配を募らせていた。

ある夜、思い切って茂樹を呼び出し、静かなカフェの片隅で話し合うことにした。



カフェの柔らかな灯りの中、佐々木さんは低い声で切り出した。


「茂樹くん、あみちゃんのこと、心配してるの。夜遅くまで散歩に出たり、元気がない日が増えた気がするんだ」


茂樹は少し俯きながら答えた。

「俺も感じてた。特にこの前のあみの言葉、何かが引っかかって……」


「実はね、あみちゃん、自分で傷つけている形跡があって……私たちに隠しているけど」

佐々木さんの声は震えた。


茂樹は胸が締めつけられるような思いで言った。

「そんなこと、気づけなくてごめん……俺、もっとあみを支えないといけないのに」


佐々木さんは優しく茂樹の肩に手を置く。

「二人で支え合っていこう。あみちゃんには、まだ自分の気持ちをうまく言えない部分もあると思うから、焦らずに待ってあげて」


茂樹は力強く頷いた。

「うん、絶対に一人にしない。あみのこと、俺が守る」



心の奥で叫ぶ不安と向き合いながら、あみを支える二人の誓い。

その夜、あみは気づかぬうちに少しだけ、孤独の闇から抜け出すための一歩を踏み出していた。


翌日の夕暮れ。

薄暗くなり始めた部屋の中、茂樹は少し緊張した面持ちで佐々木家の玄関をくぐった。

あみにはまだ何も話していない――そのことが胸を締めつける。


リビングに通され、佐々木さんの真剣な表情を見て、茂樹は心を決める。


「佐々木さん……あみちゃんのこと、俺、どうにかしたいんです。彼女が抱えている不安を、ちゃんと受け止めたい」


佐々木さんはゆっくりと頷き、言葉を選びながら話し始める。


「茂樹くん、あみちゃんは今、とても繊細な心で揺れ動いているの。君にもその気持ちを聞いてほしいのよ」


やがて、あみがリビングの扉を開けて入ってきた。

その瞳は真っ赤に腫れ、うつむきがちに肩を震わせている。


目を合わせることが怖くて、あみは小さな声で震えた。


「……ごめんなさい、みんなの前では平気な顔してたけど、本当はずっと孤独で……捨てられるのが怖かった」


言葉を絞り出すたびに涙があふれ、頬を伝う。


茂樹はそんなあみをそっと抱きしめる。


「俺は、絶対にあみを置いていったりしない。君がどんなに不安でも、俺はここにいるよ」


でもあみは、声にならない嗚咽を漏らし、ただ泣き続ける。


佐々木さんは静かに立ち上がり、優しい微笑みを浮かべながら話しかける。


「茂樹くん、私からの提案だけど――あみちゃんのために、私が援助する形で結婚式を挙げるのはどうかしら?」


その提案に茂樹は一瞬言葉を失い、やがて強く首を横に振った。


「違う。あみのためにそんなことはしたくない。無理に負担をかけるのは、絶対に嫌だ」


あみはその言葉を聞くと、震えながらさらに泣きじゃくった。


「ごめんなさい……私は、私のせいで……みんなに迷惑ばかりかけて」


茂樹は強く抱きしめながら、低い声で繰り返した。


「お願いだよ、あみ。命を粗末にするなんて、絶対に嫌なんだ。君は、俺にとって何よりも大切な人だ」


あみはまだ涙を流しながらも、少しずつ茂樹の胸のぬくもりに安心を感じ始めていた。


佐々木さんはその様子を静かに見守り、穏やかな声で言った。


「茂樹くん、私たちの援助は負担ではないわ。むしろ、私たちも一緒に支えていきたいの」


茂樹は深く息をつき、ゆっくりと目を閉じてから、静かに頷いた。


「ありがとう。俺もこれからもっと頑張る。あみのためにできることは、全部やりたい」


三人の間に、言葉では表せない強い絆が芽生えていた。


あみの心にはまだ不安が残っていたけれど、茂樹の言葉と佐々木さんの支えに、少しずつ光が差し込んでいくのを感じていた。


あみが茂樹の家に泊まるようになってから数日が過ぎた。

小さな部屋に二匹の犬のぬくもりが加わり、生活は少しずつ色づいていく。


「ねえ、これどこに置くのがいいかな?」

あみはキッチンの棚を見上げながら、二人で買った新しい食器を手に尋ねた。


茂樹はソファに座り、スマホをいじりながらも視線をあみに向ける。

「うーん、ここかな。取りやすいし、使いやすそうだよ」

彼の声は自然で、いつもの落ち着いたトーン。

それだけであみの胸はじんわり温かくなった。


「ありがと。まだ勝手が分からなくて…迷惑かけてないかな」

あみは照れたように笑いながら言う。


「そんなことないよ。むしろ俺も助かってるんだ。犬たちの世話もあみがいると全然違うし」

茂樹がそう言うと、あみは思わず頬を染めた。


その夜、リビングの小さな灯りだけが二人と犬たちを優しく照らす。

あみはクッションに寄りかかりながら、ぽつりと話し始めた。


「茂樹くん、正直まだ不安なこともあるよ。新しい環境だし、これからちゃんとやっていけるかなって」

彼は黙ってあみの手を握った。


「大丈夫だよ。俺も不安だけど、あみと一緒なら乗り越えられると思ってる」

その言葉はあみの心の奥まで響き、涙がにじんだ。


翌朝、二人は散歩に出かけた。

犬たちが楽しそうに駆け回る中、あみはふと呟く。


「この生活、ほんとに夢みたい。こんなに穏やかな毎日が来るなんて」

茂樹は微笑みながら答える。


「まだまだこれからだけど、二人でつくっていこうな」

その約束は、無言のまま二人の間にしっかりと根を張った。


あみが茂樹の家に来るようになってから、少しずつ二人の生活は形になってきていた。

朝、目覚めると隣で寝ているあみの顔を見るのが、茂樹の日課になった。


「おはよう、あみ」

茂樹は声をかけながらそっと起き上がる。

「おはよう…昨日はよく眠れた?」

あみはまだ寝ぼけた様子で答える。


「うん、茂樹くんのおかげで安心して眠れたよ」

その言葉に茂樹は嬉しそうに微笑んだ。


キッチンに立つと、二人分の朝食を用意し始める。

「今日は卵焼きにしようかな。あみは何か食べたいものある?」

「うーん、あったかいご飯と味噌汁がいいな」

あみはそう言いながら、犬たちの世話に追われている。


「犬たちも元気そうだね。こないだ買ったおやつ、気に入ってくれたみたいでよかった」

茂樹が笑うと、あみも「うん、散歩の後にあげると喜ぶの」と笑顔を返した。


食卓を囲みながら、二人は今日の予定や気になることを話し合う。

「そういえば、今度の週末、みんなでバーベキューするんだって。あみも来る?」

「あ、うん、楽しみ!茂樹くんも来るんだよね?」

「もちろんさ、あみと一緒に行けるのが一番嬉しいよ」


夜になると、リビングで映画を見たり、犬たちと遊んだり。

「ねえ、茂樹くん。時々不安になるけど、こうして一緒にいられる時間がすごく支えになってる」

あみの言葉に茂樹はぎゅっと手を握り返す。


「俺も同じ気持ちだよ。あみがいてくれて本当によかった」

その瞬間、部屋の空気が優しさで満たされた。


春の暖かな日差しが窓から差し込むリビングで、あみと茂樹は並んでソファに座っていた。二人の暮らしも、もう数ヶ月が過ぎていた。


「ねぇ、最近どう?仕事(あるいは大学)は慣れてきた?」

茂樹が優しく問いかける。


「ああ、うん。最初は不安だったけど、なんとかやってるよ。やっぱり慣れるまで時間かかるね」

あみは笑みを浮かべながら答える。


「そうか、それならよかった。無理しすぎないでね」

茂樹が真剣な表情で言った。


「ありがとう。茂樹も忙しいのに、いつも気にかけてくれて」

あみは照れくさそうに視線をそらした。


茂樹は少し照れながらも、「だって、一緒に暮らしてるんだから当たり前だろ」と言ってにっこり笑う。


「そういえば、あの子たち(犬のこと)が最近元気すぎて困ってるよ」

茂樹がソファの隣で動き回る二匹を見てつぶやく。


「もうね、毎朝散歩しないと暴走するからね…」

あみも笑いながら返す。


「二匹の散歩は大変だろうけど、楽しそうだな」

茂樹が少し羨ましそうに言った。


「うん。散歩の時間は私のリフレッシュにもなってるんだ」

あみは遠くを見つめて穏やかな声で話す。


茂樹はその様子を見つめ、「あみが元気でいてくれるのが何より嬉しいよ」とぽつりと言った。


「茂樹…私ね、まだ不安なこともあるよ。仕事とプライベートのバランスとか、将来のこととか」

あみは正直に打ち明けた。


「それは当然だよ。俺も不安だ。でも、一緒に乗り越えよう」

茂樹は力強くあみの手を握った。


二人はしばらく言葉を交わさず、穏やかな時間を共有していた。


「いつか、また旅行に行きたいな」

あみがぽつりとつぶやく。


「いいな、俺も楽しみにしてる。二匹も連れてな」

茂樹は笑顔で答えた。


「うん、そうしよう」

あみの瞳が優しく輝いた。


午後の日差しがリビングの窓から柔らかく差し込み、あみはキッチンでコーヒーを淹れていた。ふとリビングを見ると、茂樹がソファに座り、二匹の小型犬を嬉しそうに撫でている。


「あー、やっぱりこの子たち、俺のこと大好きすぎて困るよな」と茂樹が笑いながら言う。


「ほんとにね。散歩のときのテンションは毎回すごいから、リード持つ手が疲れちゃうよ」とあみは微笑んで返した。


「まあ、俺が連れて行くときは、あみがゆっくり休めるし助かるよ」と茂樹が得意げに胸を張った。


「ありがとう。でも、散歩は私のリフレッシュタイムだから、できれば自分で行きたいな」とあみはやさしく言う。


「わかった、わかった。じゃあたまには一緒に行こう」と茂樹が甘えた声で提案する。


「うん、約束ね」とあみも笑顔で答えた。


しばらくして、茂樹がテレビをつけてサッカーの試合を見始めると、あみはスマホで友達とメッセージのやり取りを始めた。


「ねぇ、今日の晩ごはんどうする?」とあみが話しかける。


「んー、たまには外で食べるのもいいけど、家でのんびりするのもいいな」と茂樹はテレビを見ながら答えた。


「じゃあ、私が簡単なパスタ作るよ。茂樹も今度は料理教えてね」とあみは笑いながら言った。


「お、それいいな!楽しみにしてる」と茂樹も笑顔で返す。


夜になると、犬たちはそれぞれのお気に入りの場所で丸くなり、二人は並んでソファに座った。


「この前の週末、みんなでピクニック行ったの覚えてる?」と茂樹がぽつりと言う。


「うん。犬たちがあんなに楽しそうに走り回ってるの見て、すごく幸せな気持ちになった」とあみは少し涙ぐみながら答えた。


「これからもずっと、こんな日々が続けばいいな」と茂樹が静かに言った。


「私もそう思う」とあみはそっと茂樹の手を握り返した。


夕暮れ時、公園の芝生の上。

オレンジ色の夕陽がゆっくり沈みかけ、空は淡いピンクと紫のグラデーションに染まっている。


あみと茂樹は、二匹の小さな犬と一緒にいつもの散歩コースを歩き、ベンチのそばで立ち止まった。

風がそよぎ、木の葉がかさかさと音を立てる。


「あったかいね」

あみが犬たちを見下ろしながら笑う。


「うん、こんな時間に二人でゆっくり過ごせるなんて、俺も幸せだよ」

茂樹は少し照れくさそうに笑いながら、ベンチに腰掛けるように促した。


あみも隣に腰を下ろし、ふたりの間を犬たちがじゃれ合いながら駆け回る。


「ねぇ、茂樹」

あみが少しだけ緊張した声で呼びかける。


「ん?」

茂樹が振り返る。


「最近、二人でこうして過ごす時間が増えたけど、私……なんだかすごく安心してる」


「俺も同じ気持ちだよ」

茂樹は優しくあみの手を取り、じっと見つめる。


「だから、言いたいことがあるんだ」

少し息を整えて、茂樹はポケットに手を入れる。


ゆっくりと取り出したのは、小さな黒い箱。


「これ……」

茂樹は真剣なまなざしであみを見つめる。


「俺は、これから先ずっと、あみと一緒に歩いていきたい。どんな時も支えていくって約束したいんだ」


箱の蓋を開けると、中には控えめだけど輝くシンプルな指輪が収まっている。


「結婚しよう。あみとずっと一緒にいたい」


あみの胸がドクンと高鳴り、涙が自然とこぼれ落ちた。


「茂樹……ありがとう。私も、ずっとあなたのそばにいたい」


ふたりの間に静かな祝福の空気が流れる。

犬たちも嬉しそうに尻尾を振り、夕陽が二人の影を長く伸ばしている。


茂樹はあみの手をそっと握り、未来への温かい希望を感じていた。


朝の柔らかな光が、ふたりの小さなリビングに差し込んでいた。

窓の外では、愛犬のチワワとダックスフンドが楽しそうにじゃれ合っている。


「おはよう、あみ」

茂樹がキッチンからコーヒーの入ったマグカップを手にして戻ってくる。


「おはよう、茂樹。コーヒーありがとう」

あみはテーブルに置かれた朝食のパンをひとつ取りながら微笑む。


「今日もいい天気だね。犬たちも朝から元気だ」

「うん、散歩に行くの楽しみ」


窓の外では、犬たちが尻尾を振って二人を見上げていた。


「そういえば、来週は二人で旅行に行くんだよね」

茂樹が声を弾ませる。


「うん、久しぶりの遠出。楽しみだな」


あみの顔には期待と少しの緊張が混ざっている。


「結婚してから、毎日がこんな風に穏やかで幸せでさ」

茂樹は少し照れくさそうに笑った。


「あみがいてくれるから、家が本当に“帰る場所”になったよ」


「私も同じ気持ち。茂樹と一緒にいると、どんなに疲れていても笑顔になれる」


ふたりは見つめ合い、静かな幸せを共有した。


「これからもずっと、ずっと一緒にいようね」

茂樹がそっと手を伸ばし、あみの手を包んだ。


「うん、約束だよ」


犬たちが嬉しそうに鼻を鳴らし、まるで祝福しているかのようだった。


あみは深く息を吸い込み、静かな幸せに包まれながら、これからの未来に思いを馳せた。


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― 新着の感想 ―
拝読させていただきました。 ストーリーは「純愛ストーリー」という内容で心温まる内容でした。ありがとうございました。 あらすじには「聴覚障害の少女」、と記載がありますが本文中では普通に会話もしているし…
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