朝のお仕事
読んでいただいてありがとうございます。
シルフィーリが今まで暮らしていた神殿の朝は早かった。
だいたい夜明けと同時くらいに起きて、まずは部屋の掃除をするのが決まりだった。
前日にどれだけ寝るのが遅くなって疲れていようとも、起きる時間に変更はなかったので、シルフィーリは自然とその時間に目が覚めるようになっていた。
「……どうしよう……」
なので、今日も朝早くに目が覚めてしまったシルフィーリは、朝から途方に暮れてしまった。
今までの部屋には掃除道具が置いてあったので、朝起きたら一人で掃除が出来たのだが、シルフィーリに宛てがわれた豪華な部屋には当然ながらそんな物は置いてない。
そもそもこの部屋の中を勝手に掃除して物を壊したりしたらどうしよう、という気持ちもある。
この部屋は、お客様のために常に用意されている部屋なのだとケイトが教えてくれた。
さすがに昨日、主が突如として連れ帰った幼女のための部屋など用意していなかったので、ひとまずここを使うように言われたのだ。
お客様用の部屋、というのが怖い。
神殿でも、お客様用の部屋は見栄えをよくするために高い物が使われていた。
いくら婚約者になったとはいえ、ここの物を壊したらシリウスに怒られそうだ。
下手に部屋の物は触れず、一人で何をしていいのか分からずに困っていると、小さなノック音が響いた。
「え、あ、は、はい」
扉が開き入ってきたのは、優しい笑顔のケイトだった。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、ケイトさん、あ、じゃなくて、ケイト」
「はい。その調子で慣れてくださいませ」
昨日、使用人は呼び捨てにするように言われたのだが、シルフィーリには生まれて初めての経験だった。
基本的にシルフィーリの周りは年上ばかりだったし、たまに会う子供たちも「○○ちゃん」とか「○○さん」という呼び方が普通だったので、ついつい出てしまう。
まずは、ケイトで慣れるように言われたのだ。
「よく眠れましたか?」
「はい。お布団がふかふかで気持ちよかったです」
さすが大きな屋敷のお客様用の布団だと思う。神殿にあった自分の布団とは段違いでふかふかだった。
「お嬢様は早起きでいらっしゃいますね」
「神殿ではいつも夜明けと共に起きて、まずは自分の部屋の掃除をすることから一日が始まるんです」
「まぁ、そうでしたの」
「はい。でも、ここを掃除するのは、壊しそうで怖くて……」
困った顔をしたシルフィーリをケイトは、可愛い!!とか思って撫でまくりたくなった。
いけない、いけない。この方はご主人様の婚約者。
しっかりと自分に言い聞かせないと、本当にやってしまいそうだ。
「んん!この部屋には、専属に掃除をする者がおります。ですからお嬢様が掃除をなさる必要はないのですが……そうなるとお嬢様は少々、お暇になってしまわれますね」
「はい!」
シルフィーリの今までの習慣だと、朝起きた瞬間からとにかく働く、というか身体を動かしていたようなので、きっとこの何もしない時間というのが、手持ち無沙汰になっているのだ。
普通のお嬢様ではまずありえないが、この方は箱入り神殿育ち。
急に変えていくよりは、少しずつ変化していった方が本人も慣れてくるだろう。
「では、お嬢様、まずは朝のお支度をいたしましょう。その後で、ハッサンに何かお嬢様がやれることがないか聞いて参りますわ」
「はい、お願いします!」
ぱっと表情が明るくなったので、とにかく何かがしたいのだろうという推測に間違いはなさそうだった。
子供用の服の用意などはなかったので、昨日、急いで買ってきた既製品のドレスをシルフィーリに着せた。たったそれだけで、神子感が抜けて可愛らしい貴族令嬢が出来上がった。
「少々、お待ちください」
そういうとケイトは部屋を出て行って、しばらくするとハッサンと一緒に戻ってきた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、ハッサン」
「お嬢様に大切なお仕事をお願いしたいと思いますが、よろしいでしょうか??」
「もちろん!」
「お嬢様にお願いしたい仕事は、旦那様を起こすことです!」
通常は夜遅くまで仕事をして帰ってくるこの家の主は、朝がとても弱い。
時間ギリギリまで寝て、朝食も取らずに仕事に行くことは、外部に漏らせないこの家の秘密の一つだ。
「旦那様は大変、朝の目覚めが苦手な方でございまして、お嬢様には旦那様を起こしていただきたいのです。婚約者であるお嬢様が起こしにきたとなれば、きっと旦那様の目覚めも良いはずです」
青年男子の寝室に幼女を差し向けるという構図は、このさい無視しよう。
何より、お嬢様が仕事をしたがっているのだ。
この屋敷で朝からシルフィーリが出来る重要な仕事は、これ以外にはない。
ハッサンは、ある意味、彼女に危険な仕事を任せることにした。
まぁ、婚約者とはいえ、朝から幼女に無体を働く主ではないので任せることが出来る仕事だ。
というか、これで朝が弱い主がきちんと起きて朝食まで食べてくれるのなら、万々歳だ。
「分かりました!がんばります!」
お嬢様も大変やる気に満ちていらっしゃる様子だ。
「お一人では何かと大変だと思いますので、わたくしめも共に参ります。ケイト、あなたも来なさい」
「はい。お嬢様、一緒に参りましょう」
そうして、三人そろってシリウスの寝室の前に来ると、ハッサンが注意事項をシルフィーリに教えてくれた。
「お嬢様、まずは軽くノックをいたします。本当に稀なことではございますが、旦那様が起きていらっしゃる時もありますので、必ずノックをしてください。ノックをして返事がないようでしたら、部屋に入ります」
ハッサンが扉を叩いたが、シリウスの返事はなかった。
「では、入りましょう。中に入りましたら、まずはカーテンを開けてください」
「はい」
小声で話をしながら部屋に入ると、日の光が閉ざされた薄暗い室内はとても静かだった。
シリウスが本当にいるのかどうかも分からないくらい静かなのだが、ベッドの上がこんもりしているので、そこで寝ているのは分かった。
シルフィーリは、あまり音を立てないようにゆっくりカーテンを開いた。
「お嬢様、こちらに留め具がございますので、ここに留めてください」
「はい」
シリウスを起こす役目なのだが、ずっと小声で会話をしつつ、室内をちょこちょことシルフィーリは動き回った。
気持ち良く寝ていたシリウスだったが、日の光が入ってきたことでゆっくりと意識が浮上してきた。
あぁ、もう朝か。そんな風に思っていると、いつもは静かなハッサンが誰かとしゃべっているような声が聞こえてきた。
「お嬢様。旦那様は、寝起きは少しぼーっとしていますので、上半身が起き上がっても全く動かないことがございますが、お気になさらないでください」
「そうなんですね。じゃあ、シリウス様はいつ完全にお目覚めになるのですか?」
「その日の体調次第ですが、部屋から出られる時にはしゃきっとしていらっしゃいますので」
「私は、シリウス様がしゃきっとするまで見張っていればいいのですか?」
「旦那様が上半身を起こすまでで大丈夫でございます。後は、無意識でもきちんと仕度をされますので。さすがにお嬢様に旦那様の着替えまで手伝えとは申しません」
当たり前だ。
というか、お嬢様?
この声は、まさかシルフィーリ?
いつものハッサンの声以外にも、可愛らしい声が聞こえる。
一瞬で意識が浮上して覚醒した。
「シルフィー!?」
急いで起き上がると、きょとんとした顔のシルフィーリと目が合った。
「おはようございます、シリウス様」
「……おはよう。というか、なぜここに?」
「私の朝のお仕事をいただきました。今日から、シリウス様を起こすのは私の仕事になりました。慣れないことでご迷惑をおかけするかもしれませんが、精一杯務めさせていただきます」
ぺこりと頭を下げたシルフィーリは、この屋敷で初めての仕事をもらえて嬉しそうだったが、シリウスの方は頭を押さえて、現状を把握しようと努めた。
「ハッサン?」
「はい」
「どういうことです?」
「お嬢様が今まで暮らしていた神殿では毎朝、起きたらまず自分の部屋を掃除することになっていたそうでございます。ですが、ここではその必要はありませんので、少々手持ち無沙汰になったお嬢様から何かお仕事をしたいとのご希望がございました」
「で?」
「旦那様をお起こしするお仕事をお願いいたしました」
「しれっとやらせないでください」
ギリギリまで寝てご飯もろくに食べずに仕事に行くシリウスは、前々からハッサンに、それがいかに身体に悪いことかということを言われ続けていた。
どうやらハッサンはそれを食い止める方法として、シルフィーリを使うことにしたようだ。
「こんなにお若い婚約者が出来たのですから、旦那様は長生きをしなくてはなりません。そのためには、朝食からでございます」
「……分かりました」
長生きのためと言われれば、仕方がない。
だがわざわざ起こし役をシルフィーリにしなくても……!
「旦那様、起こし役が私だった場合、旦那様は一月と保たずに元の生活に戻られると思います。お嬢様に起こされれば、旦那様は意地でも起きてくださいますので」
「……チッ!」
一応、これでも大人の矜持はある。
幼い婚約者に毎日起こされるとか、大人としてどうかとも思う。
シルフィーリを見ると、ケイトに教えてもらいながら、カーテンを綺麗に纏めていた。
そこには面倒な仕事を任されたという感じは微塵もなく、楽しそうに動いている。
「神殿では、朝早くから多くの者が働いています。お嬢様もラピテル神の神子として、様々なことを行っておられたかと」
「他のお嬢さんのように、優雅にお茶でも飲んでいてください、だと退屈でしょうね。家庭教師の手配を急いでしてください。この国のことも覚えてもらわなければいけませんし、礼儀作法も多少は違うでしょうから」
「はい。かしこまりました」
「……ところで、ハッサン。着替えたいのですが……」
「はい。お嬢様、旦那様がお目覚めになりましたら着替えられますので、部屋を出ましょう。ここから先は、また別の者の仕事です」
ハッサンがシルフィーリに声をかけると、カーテンを上手く纏められて満足そうなシルフィーリがシリウスに近くに来た。
「お着替え、見ていてはだめですか?」
何の下心もない瞳でそう言われたが、さすがにまだそれは許可出来ない。
「お嬢様には、まだお早いかと。もう少し大人になってからですね」
「?そうなの?」
「シルフィー、先に食堂に行っててください。私もすぐに行きますので」
シリウスにもやんわりと拒否されたので、シルフィーリはケイトと一緒に大人しく出て行った。
「……これが毎朝続くのですね……」
「はい」
あんなに嬉しそうな顔をしていたシルフィーリの顔を曇らせるわけにはいかないので、シリウスはこの毎朝の儀式を大人しく受け入れるしかなかった。