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7.ラズベリーパイはもう焼かない

「また焼いたのか」


 ラズベリーパイを焼いた日は決まってタイランさんの表情が曇る。

 服を着替えても匂いが残っているのだろうか。そう思ってシャワーを浴びてみてもやはり彼は簡単に見破ってしまった。


 香りを誤魔化そうと他のお菓子を作ってもダメ。

 必ず彼は私にこの問いかけを投げてくる。


「あげませんよ? あれは私のものですから」

「悲しいだけのおやつなんていらない。こんなこと、いつまで続けるつもりだ」

「全てを消化しきるまで、ですかね」


 小さく笑えば、タイランさんの表情はますます歪んでいく。

 最近はこんな顔を見てばかりだ。彼には笑っていてほしいのに、私ではもう喜ばせることすら出来ない。


「あいつはここにはいない。いない奴のことを思って作るより、俺のことを思って作ってほしい」

「何か食べたいものでもあるんですか?」

「甘芋の蒸しパン」

「タイランさん、本当に好きですよね。早速作るのでちょっと待っていてください」

「違う。おやつのリクエストに来た訳じゃない」

「じゃあどうしたんですか?」

「ダイリのことが、好きなんだ。ばあさんの代理であるうちは言わないでおこうと思っていた。言葉一つで縛りたくなかったから、二年後に言おうと決めていた。だが今のダイリを見てると、言わずにはいられない。ダイリで十分だと言った俺の言葉では響かないかもしれない。それでも勇者ではなく、俺を選んでほしいんだ」


 タイランさんの言葉に、喉がきゅっと閉まる。

 上書きをすればいい。それは私も何度と考えた。


 魔王城で彼と作った思い出と、育ててきた感情を肯定してしまえば楽になれるのだと。


 けれど止めた。彼との思い出までも汚れてしまうことを恐れたのだ。

 せっかく見つけた平穏な生活を失いたくない。苦しみたくない。これ以上、嫌いなものを増やしたくなんてない。


 私にはもう前に進むだけの勇気がない。

 勢いだけで行動出来た時間はもう他の人に捧げてしまったから。声を紡ぐことも出来ずにフルフルと首を振る。


 タイランさんはとても傷ついたような顔をした。

 傷つけたいわけじゃない。けれど傷つけているのは紛れもなく私である。


 ぽろぽろと涙をこぼしながら、かすれた声でごめんなさいと謝り続ける。


「俺が悪かった。忘れてくれ」


 寂しそうに笑い、タイランさんはこの場を立ち去ろうとする。

 そんな彼のローブを無意識に掴んでいた。


「ダイリ?」


 きっと彼なら今の出来事を記憶の底に埋めて、何もなかったように振る舞ってくれるのだろう。


 けれど私は知っている。


 一度起きてしまったことや口から出した言葉をなかったことになんて出来るはずがない。そこにあった気持ちが強ければ強いほど、記憶と胸に残り続ける。


 ラズベリーパイを流し込むタイランさんを想像して、胸が苦しくなった。

 嫌だ。笑っていてほしい。苦しまないでほしいと思うのは私も同じだ。


 ならどうすればいいのか。


 タイランさんは私のために踏み出してくれた。

 関係が壊れてしまうことを恐れていたのはきっと彼も同じ。


 私ばかりが怯えて、彼の気持ちも自分の気持ちも全部なかったことにして。

 それで送る生活は平穏だと言えるのだろうか。


「好き、です。でも進むのが怖い」

 気付けばそんな言葉が零れていた。自分勝手な言葉だ。


「なら進めるまで待っていてもいいか?」

「でもタイランさんの時間を奪いたくない」


 でも。でも。私の口から零れるのは言い訳ばかりだ。

 きっと呆れられてしまう。怯えて震えていると、彼の手が私の頬を撫でた。


「奪われるなんて思わない。何かをしながら気長に待つさ」


 そう言ってくれたタイランさんの表情は、彼の大好きな甘芋の蒸しパンのように、柔らかくて優しいものであった。




 その言葉通り、タイランさんは私を急かすようなことはしなかった。

 ラズベリーパイを焼いた日だけは少しだけ顔を顰めるけれど、代わりによく笑いかけてくれるようになった。


 最近はずっと遠慮がちだった魔王様も「ダイリ、ダイリ」と以前のようにやってくるようになった。


 魔王様だけではない。他の人達にも心配をかけていたらしい。

 それでも彼らは何も言わない。何事もなかったかのように、ゆっくりと時間が過ぎる平穏な日々に迎え入れてくれる。


「ダイリ」

 タイランさんの声で名前を呼ばれる度、喉元に溜まった苦みが少しずつ薄らいでいく。代わりに胸の中には甘さが募っていく。


 タイランさんはおやつが大好きだから、私が今よりももっと甘くなってしまっても受け入れてくれるだろう。


 そう思うと、ほんの少しずつ進むことが出来るのだ。


「タイランさん、私、新しい本が欲しいです」

「また見に行くか?」

「はい」


 もう二度と踏むことはないと思った人間達の住む土地も、タイランさんと一緒なら怖くない。


 兄妹と偽って歩いた道を恋人として歩きたい。

 あの時みたいに露天商を躱して歩くことなんて出来なくなるけれど、並べられているアクセサリーよりもずっと綺麗なものを得ることが出来るから。


 だから、伝えようと思うのだ。

 転移魔法陣に乗った足取りは自分でも驚くほどに軽かった。


 きっとこの先もタイランさんと一緒ならどんなことでも突破できるような気がする。


「ふふっ」

「どうした? いいことでもあったのか?」

「あなたの隣を歩けることが幸せなんです」


 そう囁けばタイランさんの顔は真っ赤に染まる。

 彼の手に自らの手を絡ませ、もうラズベリーパイは焼かないと神に誓った。


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