初老の案内人
ドアのベルと木製のドアのギィと鳴らしてドアを開くと、薄暗いカウンターが目に入る。
そのカウンターの奥には背筋を伸ばし、丸メガネとスーツに身を包んだ老人男性が立っていた。
男性はゆっくり一礼をして、恭しい口調で話し出す。
「ようこそ、いらっしゃいました。ご予約はお済みですか?」
「予約…?いえ、全く…。必要だったんでしょうか? 」
予約という言葉にドキッとする。スァと背筋が熱を手放し、冷や汗が滲み出る。
どうしよう、完全予約制だったら決心が決心だっただけに引き返す自信はない。
「いいえ、そうとも限りません。幸い今日はいつもよりも担当できる者が多い日ですから、大丈夫です。当店のことはご存知でしょうか? 」
「はい、なんとなく……。」
「それは良かった。ご存知の通り当店では記憶と決別ことができます。早速ですが、本日のご用件は記憶の一部をおさらば、ということでよろしいでしょうか?」
「いえ、全部リセットで、お願いします。全て消すことはできませんか?」
そう尋ねると、男性は一度だけ首を横に振り、しばらく静止してしまった。
やはり無理なお願いだったのだろうか。
無理だったいいんです、と言葉をかけようとすると、男性の方が先に口を開いた。
「まぁ……できます。きっとお気に召すことでしょう。お部屋にご案内しますのでしばしお待ちください。」
そう言い残し、スーツの男性は奥の扉へ入っていった。
よかった、何とか大丈夫みたいだ。
これで私の目的は果たされる。この店を出る頃には私は新しい人生を始めることができるんだ。
希望やわくわくとした期待の感情は久しぶりだった。
途端に自分の方が軽くなり、手足の重たさを感じる。
そこで初めて、自分がどれだけ緊張していたのかを自覚した。
さらに不思議なことに、力が抜けると同時に今まで気づけなかった周りの景色が、まるで第3の目でも開いたかのように意識にの中に飛び込んでくる。
前方にある半分開いた窓から入ってくる風が汗ばんだ首や髪の生え際をなでる。
窓から見える空には、先程は見つけられなかった白く大きい立派な入道雲が浮かんでいる。
もう夏なんだなぁ……。
もう少し待つのだろうと壁にもたれかかり、窓枠に手をかけて外を覗いてみる。
全身を包み込むその風を全身で受け止めてやりたいと、大きく息を吸いながら目を閉じてみる。
このまま時間が止まればいいのに…。
記憶を消すためにここにきたのに、矛盾したことを思っている。このまま時間が止まったとしたら、現状にとどまることになるのに…。
もう一度目を開くと、先程まで心地よかったはずの風の当たりが、少し強くなっているような感じがした。
まるであの人みたいだ……。
無意識に眉間に力が入る。
そしてこれまでのいろんな記憶がこの目に映し出されては消えていく。
鮮明に覚えていることから、一場面のたった一声しか思い出せないことまで。
私のこんなにくだらない人生の中でも、色々なことがあったんだな……。
やがて、最も鮮烈な記憶で時間が止まる。
一年前のあの夏の日だった。