魔性のマッチ売り
ある夏の日の真夜中。
仕事が遅くなり、終電の時間も過ぎていた。バスももちろんない。仕方なく、徒歩で帰るしかなかった。
歩くことに慣れていないため、すでに棒のようになった足に鞭打ち進んでいたが、もうそろそろ限界だった。
郊外の住宅街まで来ていた。ベンチなど洒落た物はない。溜め息とともに、歩道の隅に腰を下ろした。
人が目の前に立つ気配を感じて、僕は不機嫌な顔を上げる。
「マッチ、買いませんか……」
「は?」
この現代にはおよそ似つかわしくない台詞を吐きながら、マッチを一本、僕の目の前にかざす小さな人影。
おとぎ話の魔法使いのような黒いローブ、フードを目深に被っていて、顔は見えない。
「マッチは、要りませんか……」
おかしなマッチ売りは、消え入りそうな声で再び言った。その中世的な声は、少年のもののようで、少女のもののようで、女性のようなもので、性別を判別できるものではない不思議な響きをしていた。
突然、マッチ売りの持ったマッチに火がついた。何もしていないのに。
僕は、疲れているのかもしれない。きっと夢に違いない。
そう思いながら、目はその炎を直視していた。
――炎の中に、僕がいた。
楽しそうに笑いながら、幸せそうに暮らしている。仕事に終われ、疲れきった体を休める暇もなく、ただ生きるために働きまくる今の僕とは全く違う僕が。
どうしてこんなものが見えるのか、それを見せているマッチ売りに問うこともせず、僕はその理想に見入っていた。
「買いませんか……」
三度目のその声は、どこか笑っているようだった。
家へ着いた頃には、日付はとっくに過ぎていた。もう数時間で空が白み始めるだろう。
僕は鞄をあけて、マッチ箱を取り出した。
もしかして、疲れで夢を見ていたのかもしれないとさえ思っていたので、マッチ箱を見つけたときは少し安堵した。
もう一度、僕の理想を見たい。少しの間でいいから、その世界に浸っていたい。藁にも縋る思いだった。この嫌な現実を忘れられるなら。
箱の側面で、マッチの先端を擦った。
薄暗い蛍光灯の下で、橙色をした炎が小さく燃える。その揺らぎの中に見える、僕の理想の僕の姿。
勤めている企画会社で任されたプロジェクトを成功させて、周りから祝福を受けている。それに笑顔で答える僕。人と人の間から、一人の女性が出てきた。彼女が笑顔で、
「おめでとう、大野くん」
と言ったところで、指が熱くなり我に返った。もうマッチが燃え尽きるところだった。慌てて傍の灰皿の中へ放る。
もう寝なければ明日――いや今日、寝不足は間違いなかった。しかしどうしても眠れない。頭の中は、たちまち彼女で一杯になった。おめでとう、と言ってくれた彼女。
「宇田川さん……」
僕の憧れの女性。会社の同僚だ。とはいえ、話したことなど二度か三度。それも仕事に関する話で、一言や二言で、会話と呼べるかどうかも怪しい。
彼女をもう一度見たいという欲求を押さえきれず、僕は再びマッチ箱を開けた。が、そこで気付く。
マッチは、たった一本しか入っていなかった。
次の日、仕事を早めに切り上げて同じ公園へ向かった。その途中、ふと不安が過ぎった。もし、あのマッチ売りが毎日、決まった時間にしかあの場所にいなかったら? もしくは、定期的、あるいは不定期にあの場所を訪れているのであったりしたら、どうしようか? つまり、もし今日いなかったらどうしようかと不安になったのだ。
実際には、その不安は的中しなかった。
公園の入り口にポツリと佇む、黒いフードの影を見つけて僕は胸をなでおろした。周囲に人影はなかった。
「いつもここにいるんですか?」
僕は、彼(性別が分からないので仮に)に近付いて問いかけた。彼は僅かにこちらに顔を動かして、細く口を開けた。
「マッチ……買いますか」
消え入りそうな声。思わず、苦笑が漏れる。
「一つ訊いていいかな? どうして一本しか入っていないの?」
彼の顔がまた少しだけ動いた。小さく首を傾げたようにも見える。恐らく、そうだったのだろう。答える気はないようだ。まあいいや、と思う。
そしてこの日も僕は、たった一本しか入っていないマッチ箱を彼から買い、家へ帰った。
その日のマッチの中の僕は、プロジェクトの成功のお祝いに宇田川さんに食事に誘われて、初めてのデートをしていて、いい雰囲気だった。彼女が「楽しかった。また一緒に食事しましょう」と言ったところで炎は消えた。
マッチを買っては夜に彼女との理想の日々を過ごす、そんな日々が四日間続いた。
夜にその理想を見つめては、もっと彼女と近付きたいと思うようになり、そのためにはどうしたらいいのかと頭を悩ませ、寝不足になってしまっていた。ただ、以前より彼女に気さくに話しかけることができるようになったのは事実だ。あのマッチのおかげで。
五日目の夜も、またマッチ売りに会いマッチを買った。いつも「マッチ、買いませんか」と消え入りそうな声で言うだけだった彼が、珍しく別のことを言ったのがその日だった。
「貴方は……満足ですか?」
家へ帰って、その言葉を反芻した。満足? 満足なはずがなかった。もっと宇田川さんに近付きたい。そのために一番手っ取り早い方法は何か。彼女は僕にとって高嶺の花だ。僕なんかを相手にしてくれるはずがないと分かっていた。その点で、理想と現実とは遠くかけはなれていたのだ。
なら、せめてマッチの理想の中で。
もっと長く彼女といられないだろうか。現実での日付が変わると、マッチの中での日付も変わっているようだった。ならばできるだけあの火を長持ちさせるべきだ。
その夜、僕は灰皿に紙くずを置き、それをマッチの火で燃やした。
僕の思惑通り、マッチだけのときよりもその火の勢いは強く、長く持った。消えそうになる前に次の紙を継ぎ足す。しかしそれもなかなか長くは続かなかった。
僕の現実は、マッチの中の理想とは遠くかけはなれていた。
宇田川さんには同僚として挨拶する程度、しかも下っ端として参加しているプロジェクトでミスをしてメンバーから外される始末だ。
理想の世界に生きることができたら――僕はもう、こんな現実に嫌気がさしていた。あの理想の中で生きたいという気持ちばかりが、押さえられなくなっていく。宇田川さんの傍にいたい。
マッチ売りに出会って十日目の夕方、僕は体調不良を理由に会社を早退した。
もちろん、その足で公園に向かった。いつもは公園に行かない時間だが、彼は必ずいると、なぜか僕は確信していた。
その通り、同じ格好、同じ場所に彼は立っていた。まるで彼の周りだけが他から独立しているかのように、彼は誰の目にも止まっていないようだった。
買ったマッチをポケットに入れて、僕は、もっと長く火を見続けられるためにはどうしたらいいだろうか、と彼に相談してみた。思いもよらず、彼は答えた。
「もっと大きなものを燃やせばいいじゃないですか」
当然でしょう、とでも言うかのように彼はそう言い放った。
紙くずで火を保つのには限界があった。もっと大きいもの? そう、できる限り大きい方がいい。
何があるだろうか、と考えながら自宅のアパートに着いた。階段脇のゴミを出すスペースに、同じアパートの住人が出したゴミ袋が数個積み重なっている。そうか、明日が燃えるゴミの日だ。大体の人は、当日忘れてしまわないように前日にすでに出しておくのだ。僕もいつもそうしていた。ご飯を食べたら、出しにこようと思った。
部屋の中を探してみても、紙くず以上に燃えやすそうなものはなかった。紙くずを積み上げたところで高は知れている。だいたいこの部屋の中で燃やせる大きさなど限られている。しかし、大きくなければ火は持たない。
軽い夕食を終え、ゴミを持って部屋をでた。木造の古いアパート。金属の安っぽい階段がぎしぎしと軋んだ。
ぱっとしない音を立てて、袋がゴミの山に落ちた。結び目が緩かったのか、誰かの捨てた袋から古そうなマフラーが顔を出していた。
僕はふと思いつき、そしてすぐに行動に移っていた。
ポケットからマッチを取り出し、散らかったゴミから紙くずを拾い上げてそれに火を点ける。そしてそれをさらに、マフラーに近づけた。
マフラーは思いの外よく燃えてくれた。その炎の中に、僕の理想の現実が映し出される。
――それは、今日の僕だった。体調が悪いといって会社を早退し、夕焼けの道を一人で歩いていく。会社からアパートまで十分ほどの距離だ。これの、どこが理想なのだろうかと思う。しかし燃えている中にある以上、これは僕の求めている世界であるに違いなかった。
同じように夕食を終えて、ゴミを出しに外へ出る。――広がった炎の暑さを避けようと、僕は一歩退いた。
ゴミを出して階段をふと見た。そこに、宇田川さんがいた。
僕は、階段を見上げた。赤い、その階段の上に、宇田川さんが立っていた。僕の視線に気付いた彼女が振り返り、優しい笑みを浮かべる。
「あなたのことが心配で」
僕は階段を昇った。彼女にもっと近付くために。しかし暑かった。いや、そんなことは言っていられない。彼女が僕を、待っている。
階段の上で、僕は宇田川さんを抱き締めた。はずだった。
空を切った感覚に驚き、僕は腕の中を見た。誰もいない。代わりに目の前に微笑んだ宇田川さんが立っている。もう一度、抱き締める。ぬるり、とおかしな感触がした。腕の中を見ても、やはり誰も抱き締めてなどいない。
どうして!
僕は叫んだが、声にならない。喉が焼けるように痛かった。足元がふらついて、その場に倒れ込む。
どうしたんだ、僕は。なんでもない、ただの眩暈だ。そうだ眩暈だ。
立とうとして金属の床についたてが、ぬるりと滑る。ただとてつもなく暑いという感覚だけ。
目の前に誰かがしゃがみこんだ。宇田川さんだ。
宇田川さん、僕はどうしちゃったんだろうね。起き上がれないんだ。別にどうもしてないのに。それにしても暑いね。夏だから。
彼女の唇が、僕の額に触れた。理想が、現実になったのだ。
僕はもう、死んでも構わないとさえ思った。
***
アオキチヒロ様の空回りフルストップよりお題をお借りしました。
ありがとうございました。
お題/魔性のマッチ売り
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