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凄子はテント屋に特別に作らせた厚手のグリーンのシートカバーを、左右からまくり上げる。そしてフロントの方からくるくると器用に巻いていく。小ぢんまりとまとめると、ハッチバックのリアゲートを開けて放り込む。
AE86は生産が終了してから28年になるが、ドリフト野郎を中心に今でも人気の高い車種で、特に凄子のレビンのように徹底的に整備されたワンオーナー車なら、マニアの間では新車価格の倍以上の値で取引されている。だから面倒でもシートをかぶせて隠しているのだ。
ボンネットを開けて各部を点検すると、光沢のあるドアを開けてエンジンを掛けた。NA130馬力のエンジンを150馬力にチューンアップさせた4A-Gが嬉しそうな咆哮を上げる。口径の大きなマフラーからはドロドロと低い唸りと振動が伝わってきた。
凄子はタコメーターの針が安定するまで、ポケットから出した手帳を開き、今日の行動の計画を立てる。(…まずは下見だな)やがて水温計の針も少し上がってきたので、レイバンのsignet Ⅱを掛けて黒革のシフトノブをローに入れて、アスファルトの駐車場を滑り出す。
パワーアシストのないGT-VはMOMOの小径ステアリングを装着し、幅広の扁平タイヤを履いているのでハンドルはかなり重い。狭い駐車場などでの切り返しは男でもきついだろう。レビンは路地から大きな通りへ合流すると流れに乗った。
スプリングとアブソーバーを強化した足回りは、小さな凹凸も拾って街中では乗り心地が悪いが、山道やカーブの多い道ではその良さが発揮される。強化したエンジンと足回りとのバランスを保つため、ブレーキのローターやキャリパー、ディスクパッドも高性能なものに取り替えてある
しかし平日の昼間の大通りはあふれ返る車の群れで、少し走ればすぐに信号に遮られた。商業ビルが立ち並ぶ交差点でブスブスと機嫌の悪いアイドリングを感じると、乗り出してやったのが10日ぶりだと気づいた。凄子は、(仕事前にこいつの機嫌を直してやるか)と、行き先を変えた。
右折レーンに入っていたが信号が青に変わると直進レーンに車線変更する、市街地から北上する二車線の大通りの車の群れを巧みにすり抜けて、スピードを上げていく。
やがて道路は登り勾配になり一車線になる。右側によく利用する酒のスーパーが見えてきて、そこを過ぎると左に折れる交差点に差し掛かる。
凄子は左にウインカーを出すとタイヤをきしませながらハンドルを切った。そこからは急勾配のワインディングロードがはじまる。レビンは嬉しそうに爆音を上げながら駆け上がっていった。
17年前の冬季オリンピックの際、この先にある競技施設へ向かうために整備された道だ。
途中にループ橋と呼ばれる2本の陸橋がある。一度右へ均一に360度回転し、その先でまた右へ半円を描く。そこから同一のRで左に半円を描く変わった形状の橋だ。凄子はレビンのアクセルを踏みつけ横Gを充分に感じながら、レビンの限界近くまで走らせてやった。
高低差60mのループを一気に抜けると長短ふたつのトンネルを突き抜け、ふたたび勾配のきつい坂を登る。前を走る大型ダンプや営業車のバンなどは、見通しのいいカーブで一挙に抜き去っていった。左に競技施設が見えたら、もうじきループラインの終点のT字路にぶつかる。
凄子はそこを左折して長野市街地から一番近いスキー場の横を通り過ぎる。山上のわずかな平坦地をご機嫌なエンジン音を響かせて通過した。やがて『そば処の村』へ続く道の合流点まで来ると、風光明媚な湖が見えてきた。凄子はその駐車場にレビンを入れた。
嬉しそうなアイドリングに変わったレビンを降り、かぶっていたキャスケットを脱ぐとセブンスターに火を点けた。今日は強風が吹いていて凄子のストレートの黒髪が風にあおられるが、5月の新緑と青い空が気持ち良かった。
凄子は周りを眺めながらしばらくボンヤリとしていた。『うまれたときから せおったさだめ あなたは家もなく さまよい歩く 人にきかれても話せない ふるさとのない人たちなんです 』凄子の大好きな曲のフレーズが、思わず口をついて出てくる。
(あ、そういや、この曲入っていたかや…)凄子はドアを開けてレビンに乗り込み、車内で唯一最先端のカーオーディオのスイッチを入れた。オーディオに記録された音源を探す。(あった、サンハウス)凄子は曲に合わせて枯れ声を震わせた。
レビンの水温がちょうどいいところまで落ちてきたので、発車させた。ここからは別のルートで市街地を目指す。バードラインと呼ばれる尾根道を爆走して、眺めのいい緑の道を一気に駆け下る。さきほどの湖面からいきなり600m下りるので、気圧の変化で耳が痛んだ。スノーシェッドのある七つの急坂を抜けると市街地はもうすぐだ。