2
凄子は7年使っている携帯をテーブルの上に放り投げた。縁は磨り減り傷だらけ、画面にはヒビが入り、折りたたみの蝶つがい部分はグラグラになった代物だ。バッテリーは1日保つのがやっとなので、出かける時はいつも予備のバッテリーを持ち歩いている。
寝癖でボサボサになったミディアムの黒髪を掻き回すと、もう一度でかいあくびをした。
目をこすりながらしわくちゃの箱のセブンスターを1本抜き出してくわえると、奥のキッチンに行きヤカンが載ったガス台の火を点けた。顔を横に傾げてついでにタバコにも点ける。
凄子の部屋は12畳ほどのワンルームで、玄関から入って手前の6畳にちゃちな応接セットや読んだこともない百科事典や専門書が並んだ本棚、『殺風景だから』と、柴山から贈られた日本海の荒波らしき風景が描かれたでかい油絵の額などが並んでいて、接客スペースになっている。
潰れた商社の事務所からもらってきたパーテーションで仕切った奥の6畳は、スプリングのへたったベッドや電工用のでかい木のリール製のテーブル、銘酒・珍酒が並んだ酒棚などがある生活スペースだ。キッチンやバス・トイレは、その続きにある。
ガス台のヤカンがピーッ!と鳴ると、魚の名前だらけのでかい湯呑みにインスタントコーヒーの顆粒を振って湯を入れた。ほぼ毎日二日酔いの朝はいつも2杯飲む。
綿の黒い作務衣を脱いでシャワーを浴びると、二日酔いはだいぶマシになった。
―午前10時ちょうどに、ブーッと旧式の玄関ブザーが鳴った、柴山から回ってきた『仕事』の依頼主だろう。…柴山はいくら『仕事』といえど、信用のできない相手の場合は、凄子の棲み家を教えることはない。
凄子はトレードマークの、細身の黒スーツ姿で玄関のロックを解いた。どうぞと、よそ行きの声を出すが、姿が見えなければ確実に男と間違われるトーンだ。
丸いノブが回り入ってきたのは40歳前後の上品な雰囲気が漂う綺麗な女と、その娘と思われる中学生ぐらいの女の子だった。
凄子は女の子を見て(ほう…)と関心を寄せた。その娘は芸能人やアイドルスターと名乗っても、誰も疑わないほどの顔立ちと容姿を備えていて、人の目を惹きつける魅力に溢れている。
「失礼します、柴山さんにお話しさせていただいた東郷と申します」
母親らしい女はそう言うと娘とともに頭を下げた。
「どうぞ、お上がりください」
凄子はふたりを招じ入れ、ソファーを勧めた。ふたりは厳かさを感じさせる仕草でソファーに座る。
キッチンに行き、食器棚から客用のカップをふたつ取り出すとインスタントコーヒーを入れる。ふたりの前に置きながら腰を下ろした。
「土橋凄子と言います、柴山から大まかな話は聞いておりますが、あらためてお話を伺いたいと思います」
酒とヤニでしゃがれた声でそう言うと、目の前のふたりを交互に眺める。ふたりとも美しい顔だがうつむき加減の表情には、憔悴の色がにじんでいた。特に娘の方はひどく、顔色が妙に白い。
「はい、それでは…」
と母親が目線を上げて話し出した。
―母親は東郷涼子、43歳。娘は香音、中学二年生で14歳。家族は他に16歳の長男、そして東京に単身赴任している父親は弁護士をやっている。凄子はふたりの裕福そうな身なりや雰囲気も、それで納得した。涼子の生家も多分裕福なのだろうとも思った。
問題を抱えているのは娘の香音だった。
香音はひと月ほど前から登下校中、時折誰かの視線を感じるようになった。最初は気のせいだと考えていたが、視線はやがて頻繁に感じるようになる。
ある日、部活帰りで暗くなった頃、帰路途上のコンビニで雑誌を眺めていた時に、店外から強い視線を感じた。それは殺気にも似た強い感情を持った視線に思えた。
はっとした香音は薄暗い店の外に目をやる。するとその時、目の前の大きなガラスの端にさっと身を隠した黒い人影を見た。一瞬だったが長身の若い男のように感じた。
途端に香音の心臓の動悸が激しくなり、膝はがくがくと震えだす。14年の人生で最大の恐怖を感じた。
香音は黒い人影を確かめる勇気もなく震えながら立っていると、一緒にいたクラスメイトが異変に気づき、事情を聞いて店外に飛び出したが、怪しい人影はどこにもなかった。
香音は電話で涼子を呼んで一緒に帰る、自宅マンションまでの道程には視線は感じなかった。
それからは近所に住むクラスメイトと一緒に登下校することにした、すると怪しい視線は感じなくなるが数日経った頃、香音は近所に住むクラスの男友達と一緒に帰った日があった。
男友達と香音の家はほんの100mしか離れていない。その日、香音は男友達と別れて何事もなく帰宅したが、男友達の方は香音と別れた直後、何者かに背後から後頭部を殴られて倒れ気を失う。
当時、周囲には目撃者はなく数分後に通りかかった近所の人の通報によって救急車で運ばれた。幸い大した怪我はならず警察に届けたが、いまだに犯人の手掛かりはつかめてないという。
涼子と香音は男友達を襲った犯人は、香音をつけ回しているストーカーのような人物と同一と考え警察に届けたが、香音には具体的な被害はないのであまり熱心に取り合ってはくれないという。『周辺のパトロールは強化する』といった程度の返事だった。