「絶対音感など飾り」と笑われたので、王宮の楽器の調律は止めました
——ああ、いま、鳴っているのですね。
わたくしは辺境伯領ライルバッハの、ちいさな工房の窓辺に立って、遠くの空を見上げていた。
石畳を濡らす朝露のにおい、磨かれたばかりの黄銅の冷たい匂い、冬の終わりの風。耳を澄ませても、王都の大聖堂の鐘の音は、さすがにここまでは届かない。それでもわたくしにはわかる。
王妃戴冠式の本番が、いま、始まっている。
目を閉じると、場面が見えるようだった。石造の大聖堂。整然と並ぶ長椅子。玉座の前に跪く王太子殿下。隣に佇む王妃。そしてその三歩後ろに立つ、第二王子アロイス殿下。金色の髪を整え、裾の長い礼装を着込み、満面の微笑を浮かべていらっしゃるはず。
楽団の前奏が始まる。わたくしの唇がかすかに動く。
「……弦楽の基音が、半音下がっていますね」
独り言だった。ここには聞く相手がいない。でも、わたくしの耳には、その音がはっきりと鳴っていた。
つづけて、管楽器。フルートとホルンの音程がずれていく。気温補正がされていない。誰かがやり方を知らないのだ。
そして、大鐘。
ゴオン、と一回。
わたくしは目を開けた。
倍音の整いが、完全に失われている。基音の上に乗るべき五度と三度の響きが、濁って濁って、不協和音に沈んでいく。
——ああ、とうとう、鳴ってしまった。
わたくしは窓から離れ、工具箱の蓋を閉じた。鍵をかけ、棚にしまう。いつも通りの朝の仕事に戻るために。
そのとき、工房の扉が開いて、栗色の髪の男性が静かに入ってきた。外套に朝の霧をまとっている。
「——エレナ殿」
クラウス・ライルバッハ辺境伯は、わたくしの顔を一瞥して、それから小さく息を吐いた。
「鳴りましたか」
「はい」
「倍音が濁っていた、という顔ですね」
「——お聴きになりましたか」
「ここまで届くはずはありません」
わたくしは小さく頷いた。「ええ」
けれどクラウスは、わたくしの表情から全てを読み取っていた。
「——聴こえます」
そう短く彼は言った。わたくしはその一言で、自分が息を吐ける人間であることを思い出した。
話は、三ヶ月前にさかのぼる。
王城の音楽堂に、午後の斜めの光が差していた。絨毯は深い赤、壁は象牙色、天井は藍を基調に星座が描かれている。この部屋では空気の温度も湿度も、楽器のために保たれていた。
わたくしはピアノフォルテの前に跪き、ハンマーと鍵で三十九番目の弦を整えていた。
冬の終わり、王都は乾燥していた。弦はわずかに張力を失い、鍵盤を叩くたびに音が沈む。わたくしは一音を鳴らし、唸りが消えるまで待ち、ハンマーを四分の一回転だけ動かし、また鳴らし、待ち、動かした。八十八本の弦。一本ずつ。
隣の竪琴の前では、楽団長が助手を叱っていた。「張りすぎだ。もう一度最初から」。助手はまだ若く、彼にはわたくしのように「音」だけで張力を聴き取ることはできない。だから張力計に頼る。けれど張力計は湿度を測れない。
「ヴァンシェル侯爵令嬢」
楽団長がわたくしを呼んだ。
「管楽器の奏者たちが到着しました。温度補正をお願いできますか」
「かしこまりました」
わたくしは管楽器の部屋に移る。
フルートを預かる。奏者の手の温もりを指先で感じる。気温は十度、奏者の呼気は三十六度、管の内外で温度差がある。共鳴管の膨張率を計算し、マウスピースの差込を二ミリ弱緩める。次はホルン。金属は木管より膨張が大きい。
一本ずつ整え、奏者の手に戻し、そして合奏の前の最終調律。
本番。音楽堂の扉が開き、貴族たちが席に着く。アロイス殿下が中央にお座りになる。金髪を整えられ、微笑を浮かべていらっしゃる。
前奏が始まった。弦楽と竪琴と管楽器が、ひとつの音に重なる。一切の濁りなく。
わたくしはその瞬間、扉の影で目を閉じた。音は空気の振動でしかない、と言われる。けれどわたくしにとって、整った音は、形を持って視界に広がる。淡い金色の柱が、音楽堂の天井までまっすぐに立ちのぼり、横に広がって、聴衆のひとり一人の上に静かに落ちていく。
第一楽章の中盤、竪琴の第四弦がわずかに緩んだ。昼過ぎの湿度の変化。奏者は気づいていない。けれど隣の弦を強く弾くことで、ほぼ気づかせずにやり過ごした。楽団長が誘導した巧みな合奏。それでも、わたくしの耳には、微細なずれが聴こえている。終盤にかけて竪琴が温まり、張力は自然に戻った。最終和音は、ひとつの濁りもなく閉じた。
貴族たちの溜息が漏れる。
「——さすが、我が楽団だ」とアロイス殿下の声。
「殿下の楽団の腕前には、いつも感服させられます」と隣席の侯爵。
「演奏者の才と、私の選曲の勝利だな」と殿下が笑う。
わたくしは音楽堂の裏の控え室で、ピアノフォルテの鍵を拭きながら、その会話を聞いていた。布で鍵を磨く。松脂の匂い。指先の細い切り傷。——心が乱れていたわけではない。わたくしは、いつものように、次の演奏会のための予定表を頭のなかで組み立て始めていた。明日は竪琴の第四弦を張り替える。明後日は大鐘の定例確認。来週は管楽器の季節整備。あと、三月にはピアノフォルテ全体の再整音——
そこまで考えたとき、扉の向こうから、侍従の声がした。
「エレナ様、アロイス殿下が夜にお呼びとのことです」
夜、アロイス殿下に呼び出された。
音楽堂の奥、赤い張り地のソファ、燭台の蝋燭が三本灯っていた。炎が揺れるたびに、壁の装飾の金糸がきらりと返事をする。暖炉の薪が爆ぜる音——その音ひとつにも、わたくしの耳は反応してしまう。薪の乾燥が足りない。湿気が三割ほど残っている。わたくしは自分の耳の余計な働きを、そっと抑え込んだ。
殿下は足を組み、グラスを揺らしていらっしゃった。今夜のワインは年代もの。琥珀色。わたくしの前には水が一杯。
「エレナ、今日の演奏はどう思った?」
「……弦楽の第二主題、第三小節で、竪琴の奏者がわずかに遅れました。けれど楽団長が巧みに合わせました」
「つまらん答えだな」
殿下は笑った。蝋燭の炎に、金髪が揺れた。
「楽団員の腕前を褒めるだけか。お前が工房で一体何をしているのか、私には理解できない。楽器の鍵を回したり、弦を弾いたり——あんなものは男の職人の仕事だろう」
「……左様でございますか」
「最近、クルト卿の娘ソフィアが、音楽会で詩を朗誦した。華麗な詩だった。聴衆は皆、涙を流した。あれこそが芸術を解する女性というものだ」
殿下はグラスを傾けられた。わたくしは黙って水の水面を見ていた。
「音楽は、芸術だ。芸術を解するのは、荘厳で華麗な表現を愛する者の仕事だ。楽器を整えるなどという機械的な仕事は、王子の伴侶にふさわしくない。耳がいいだけの女など——」
殿下はグラスを置き、わたくしの目を見据えた。
「飾りに過ぎん」
わたくしの喉の奥で、ちいさな音が鳴った。たぶん、息を止めた音だった。
でも顔は変えなかった。そういう訓練を、わたくしは十二年していた。
「そうか、エレナ、お前との婚約は破棄する。私はもっと——そうだな、芸術を理解する女性と並び立ちたい」
「かしこまりました」
わたくしはその短い一言を静かに差し出した。
「工房の鍵はどうなさいますか」
「鍵?」
「ピアノフォルテの調律用ハンマーと、竪琴の調弦鍵と、大鐘の倍音調整用の鑿と、管楽器の温度補正用の計算表でございます。どこにお預けすれば」
「……何を言っている」
「殿下が、もう女の耳は要らないと仰るのでしたら、道具をお返しいたしませんと」
「——勝手にしろ」
殿下は話を打ち切られた。わたくしの言葉の意味を、殿下は最後まで理解されなかった。
音楽堂を出るとき、わたくしは一度だけ、弦楽器の並ぶ壁のほうを見た。
竪琴の四十七本の弦。ピアノフォルテの八十八本の弦。いつもの場所。いつもの温度。
さようなら、と声に出さずに言った。
父の屋敷に戻ると、ヴァンシェル侯爵はすでに知っていらした。
父は書斎で、わたくしのために黒い革鞄をひとつ、机の上に置いていらした。中には調律用ハンマー、音叉、弦張替え用のワイヤー、松脂、それからわたくしの財布。
「辺境には」
父は窓の外の暗い庭を見ながら仰った。
「まだ歪んでいない音がある」
「……はい」
「ライルバッハ辺境伯は、音を聴く男だ。お前の仕事の価値を、最初から見抜いていた」
わたくしは父の手を取って、小さく頷いた。
その夜のうちに、わたくしは馬車に乗った。
車窓に、遠ざかる王城の尖塔が映った。尖塔の上には大時計塔の鐘が吊るされている。——わたくしが十二年、整え続けてきた基音の鐘。
わたくしは振り返らなかった。
三ヶ月の回想のうち、わたくしが十二年間この国でやってきた仕事を、三つだけ書き残しておきたい。誰の名前にも残らない仕事だから。
ひとつ。ピアノフォルテの弦張り替え。
冬の宮廷は乾き、夏の音楽堂は湿る。木製の響板は季節ごとに膨張と収縮を繰り返し、弦は無言のまま張力を失う。わたくしは一本ずつ弦を外し、同じ太さのものに張り直し、張力を整える。張力計は使わない。一音を叩き、耳で唸りを聴き、ハンマーを四分の一だけ回す。唸りがなくなるまで、次の音に進まない。八十八本。朝の光で始め、陽が落ちる頃に終わる。指先には細い鋼線の切り傷が残り、爪には松脂の黒い跡が残る。翌朝、奏者がピアノフォルテの前に座り、最初の和音を鳴らす。「今日は音がいい」と一言だけ漏らす。わたくしはその一言を、いつも工房の扉の向こうで聴いていた。
ふたつ。聖堂の大鐘の基音調整。
大聖堂の鐘は、王国の標準音だ。毎時鳴るその基音に合わせて、王国中のあらゆる楽器が調律される。基音そのものがずれれば、王国中の音楽が狂う。けれど青銅の鐘は鋳造のとき、どれほど優れた職人が作っても、わずかに歪む。倍音——基音の上に自然に乗る五度と三度の響き——のバランスが、微妙に欠けている。
わたくしは足場を組み、鐘楼によじ登り、鐘の内側に鑿を当てる。倍音の足りない部分を、音で当てる。鑿で削る厚みは髪の毛ほど。削りすぎれば鐘は作り直し——鐘楼をもう一度鋳造するには、王国の予算の何割かが必要になる。失敗は許されない。冬の風が足場を揺らす。わたくしは耳を凍らせながら、三日間、削り、打ち、削り、打ちを繰り返した。三日目の夕刻、鐘を鳴らし、倍音の完全な整いを確認したとき、鐘楼の下の広場で、たまたま通りかかった老人がひとり、立ち止まって空を見上げていた。彼は「今日の鐘は、気持ちがいい」と呟いてから、また歩き出した。わたくしはその一言を、足場の上で聴いていた。
みっつ。王立楽団の管楽器群の合奏前調律。
フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーン——管楽器は気温で音程が漂う。奏者の体温で管が温まり、息の湿度で内部が膨張し、さらに奏者一人一人の肺活量で、吹き込まれる空気の速度が変わる。合奏前の三十分、わたくしは管楽器奏者たちの間を回り、一人ずつ、マウスピースの差込を数ミリ調整する。楽譜の何小節目で奏者がどれほど息を使うかまで計算に入れる。合奏が始まれば、もうやり直しはきかない。
本番、音が整う。聴衆は気づかない。奏者たちは「今日は調子がいい」と思う。楽団長は「腕が上がったな」と助手を褒める。わたくしの名前は出ない。
それでよかった。わたくしは音が整うために働いている。名前が残るために働いているのではない。
——これらを、全部、わたくしひとりが、十二年、担っていた。
王立音楽院の長老が引退された三年前、楽団長は後任育成のために三人の門下候補を立てた。けれどアロイス殿下が「女の職人を宮廷に増やす必要はない」と予算をお止めになり、候補はいずれも半年と経たず王都を去った。以後、わたくしの手元には、引き継ぐべき者がひとりも残らなかった。
アロイス殿下は、一度もそれをご覧になったことがない。
馬車は東へ向かった。八日間、わたくしは黒い革鞄を膝に抱えて、外の景色を見ていた。王都を出て三日目、平野の端に山脈が見えた。五日目、山道に入った。八日目、馬車は辺境伯領ライルバッハの城下町に着いた。
石畳の道。白壁の家々。空気が違った。冷たく、澄んで、まだ歪んでいない音が響く土地だった。
辺境の城下町の、広場の奥に、ちいさな教会があった。
司祭はほとんど一人で教会を守っている老人だった。教会の鐘は五十年前から鳴らなくなり、オルガンは二十年前から音を出さなくなっていた。わたくしは宿屋で身繕いを整え、翌朝、教会を訪ねて、「調律をさせていただけませんか」と申し出た。対価はいりません、ただ道具を使う場所がほしいのです、と。
司祭は不思議そうに、けれど親切に、鍵を渡してくれた。
オルガンは半日で蘇った。
錆びた鍵盤を外し、パイプの内側の埃を払い、支え棒の緩みを直し、送風装置の革を張り替える。最後に一音ずつ鳴らし、唸りを取る。わたくしは司祭に頼んで、踏み板の風を送ってもらう。司祭の足が震えていた。やがて、古いオルガンから低いドの音が、二十年ぶりに澄んだ響きで出た。司祭はその場に立ち尽くして、涙を拭った。
——その時だった。
教会の扉が静かに開いて、栗色の髪の男性が入ってきた。
「——聴こえますね」
低く、静かな声だった。
わたくしは顔を上げた。灰色の瞳の、日焼けした長身の男性。外套の裾に朝露。剣を帯びているのに、指先の皮は弓弦だこではなく、弦楽器の弦だこだった。
「辺境伯ライルバッハ様」
司祭が跪こうとするのを、彼は手で制した。
「お仕事の邪魔をするつもりはないのです。——ただ、音が聴こえたので」
わたくしに向かって、彼は深く頭を下げた。
「ヴァンシェル侯爵令嬢、エレナ殿ですね」
「……はい」
「二年前、王都の音楽会で、あなたを見ました。演奏家でもないあなたが、楽器の周りを、静かに歩いていらした。あれは——調律師の歩き方でした」
わたくしは声を失った。
「私の家のチェロを、見てくれませんか」
彼は言った。「対価はきちんとお支払いします。庇護ではありません。依頼です」
わたくしは黒い革鞄を握り直して、深く一礼した。
それから、三ヶ月。
わたくしはライルバッハ城の工房を借りて、ちいさな調律工房を開いた。
最初の依頼は、もちろんクラウス様のチェロだった。
ライルバッハ城の三階、南向きの小さな部屋に、そのチェロは置かれていた。胴は深い栗色、艶を失わず、弓は新しい馬の毛がきちんと張られている。弦は四本。わたくしは胴を抱くように傾け、駒の位置を確認し、弦をひとつずつ弾いた。A線が半音下がっている。D線の鞍の位置が、二ミリだけ奥にずれている。
整えて、最後に一弾き。低く、豊かな響き。
扉の隙間から、クラウス様が静かに顔を出された。
「鳴りましたか」
「——鳴りました」
彼はそれだけ頷いて、扉を閉めた。昼食の時間だからと、階下に降りていかれた。後日、城の執事から「あれ以来、旦那様は毎晩チェロを弾かれている」と聞いた。
次の依頼は教会のオルガン。それから、城下町の酒場のピアノフォルテ。辺境の酒場に、古いピアノフォルテが一台あった。三十年前に王都から流れてきたもの。主人が「これが鳴らなくなって、十五年。客が酔っても歌を歌わないんだ」と嘆いた。わたくしは二日かけて整えた。張り替える弦は、酒場の主人が商人に頼んで取り寄せてくれた。二日目の夕方、主人が試しに一音を叩いた。いちばん低いド。
「——ああ」と主人が口を開けた。「ああ、こいつは、鳴るじゃないか」
夕刻、客が集まった。誰かが古い歌を歌い始めた。皆で一緒に歌った。わたくしはその夜、宿に帰って、十年ぶりに熟睡した。
行商人の笛も、子供の玩具楽器も、わたくしのところにやってきた。山羊飼いが使う羊角笛まで。羊角笛は山で育った角を削って作る笛で、節穴の位置で音階が決まる。わたくしは角の厚みを削り直して、半音階を整えた。山羊飼いの少年が、新しい笛を吹いて、山に駆けていった。山羊たちが振り向いて彼を見た。少年は笑って、もう一度笛を吹いた。
わたくしの手のひらは、王都にいた頃より少し荒れた。冬の辺境は寒く、工房の窓は凍る。けれど、弦を弾くわたくしの指は、以前よりもよく動いた。それは自分でも意外だった。わたくしは十二年、王宮の音のためだけに指を使ってきた。ここでは、山羊飼いの少年のための笛、酒場の主人のためのピアノフォルテ、司祭の涙のためのオルガン——ひとつひとつの音に、顔がある。顔のある音を整えるのは、わたくしの指に、新しい熱を運んだ。
クラウス様は、毎日、工房に来られた。
最初は依頼人として。チェロを見てほしい、と。それから、チェロの件が終わっても、彼は来られた。どのような用件で、とわたくしが尋ねると、「聴きに」と答えられた。「何を?」と訊くと、「あなたの手が動く音を」と仰った。
わたくしは、どう返事をしたらよいか分からなかった。
ある夜、工房の外で、クラウス様とわたくしは、遠くの山の教会の鐘の音を聴いていた。わたくしが先月整えた鐘。倍音が濁らない、澄んだ音。
冷たい空気の中で、彼は自分の外套の片方をわたくしの肩にかけて、言葉なく隣に立っていた。鐘が三回鳴り、沈黙が戻った。
「——エレナ殿」
「はい」
「あなたの耳は」
彼は一呼吸置いた。
「誰にも代われない」
わたくしはその一言を、喉の奥で受け止めて、しばらく何も言えなかった。
それから小さく「ありがとうございます」と返した。それが、わたくしが十二年の宮廷勤めで一度も受け取らなかった種類の言葉だった。
王都から、中傷の噂が流れてきた頃もあった。「婚約破棄された令嬢が、辺境で男に媚びている」「職人仕事に手を出す、貴族の恥」「第二王子殿下を裏切った女」。噂は馬車に乗って山道を渡り、辺境の城下町の宿屋に落ちた。
宿屋の帳場で、その話を最初に聞いた日、わたくしは平静を装って二階の部屋に戻り、窓を開けて、冷たい空気を深く吸い込んだ。胸の奥に、ちいさな刺がある感触。すぐに消える。けれど、完全には消えない。十二年分の仕事を「飾り」と笑われた記憶が、ふっと戻ってくる。
——深呼吸。
わたくしは、調律用ハンマーを手に取って、その重さを確かめた。鋼鉄の頭、木の柄、滑らかな握り。この重さはわたくしのものだ。この重さは誰にも取れない。そう思い直して、わたくしは鞄を肩に担ぎ、その日の依頼——広場の奥の教会の鐘の点検——に出かけた。
けれど、中傷はこの土地に根を張らなかった。
三日と経たず、噂は消えた。
ある日、わたくしが広場を歩いていたとき、羊飼いの老婆がわたくしの腕を取って、こう言った。
「エレナ様、あの鐘のおかげで、今年の収穫祭は、みんな、踊れましたよ」
老婆の目尻の皺が深かった。手のひらは荒れていて、爪の下に干草の匂いがした。
「踊れる音、というのは、ただ鳴っているだけの音とは、違うんです」と老婆は続けた。「ずれてる音で踊ると、膝が痛むんですよ。ええ、不思議でしょう。でも、本当なんです。おたくの整えた鐘は、膝に優しい」
わたくしは、ぐ、と喉の奥が詰まった。
十二年間、王都のどの大貴族も、わたくしの仕事に対してこんな言葉を掛けてこなかった。「腕前だ」「楽団の力だ」「選曲の勝利だ」——褒められたのはいつも、別の誰かだった。
子供たちは、玩具楽器を鳴らしながら走り回っていた。
酒場の主人は、扉を開けて言った。「ピアノフォルテが泣くのをやめた。あんたのおかげで、うちの客が歌うようになった。あんたが来る前の十五年、誰も歌わなかったんだよ」
行商人は、笛を吹き鳴らして街道を下っていった。彼の笛の音は山道を抜けて隣村まで届き、隣村の人々が「最近、ここまで音楽が届くようになった」と手紙を寄越した。
山羊飼いの少年は、羊角笛を吹きながら山羊たちを集め、夕方には「エレナ様」と呼んで広場を横切っていく。
——辺境の人々は、わたくしの「耳」の価値を、誰かに説明されるまでもなく、すでに知っていた。知っている言葉ではなく、身体で知っていた。足で、膝で、歌の喉で。
そして、隣領からも依頼が来るようになった。古い伯爵家の竪琴。鉱山の教会のパイプオルガン。遠方の貴族の館のピアノフォルテ。わたくしの工房は、辺境の音楽の拠点になった。宮廷の職人工房にいた頃は考えられないことだった。王都では、調律師は楽師の下の下の下——呼ばれない限り動かない立場。けれどここでは、わたくしが鞄を担いで歩くだけで、人が頭を下げる。
クラウス様は、いつも通り工房に来られた。
「——聴きに」と、彼は相変わらず短く答える。
わたくしは相変わらず返事に困る。けれど困りながら、彼の靴音が階段を上がってくる音に、知らず知らずのうちに、耳を澄ませるようになっていた。
そして、王妃戴冠式の当日。
大聖堂の三百年の石壁のなかで、宮廷楽団が演奏を始めた——これは後日、ライルバッハまで届いた複数の報せを、わたくしが静かに繋ぎ合わせて描いた光景である。
戴冠式の前夜、宮廷楽団長は青い顔をして音楽堂を歩き回っていた、という。
三ヶ月、楽団長はエレナ・ヴァンシェルの後任として三人の調律師を雇い入れた。王立音楽院から推薦された老職人。王都の工房で最も腕のいいと評された中年の男。それから、隣国から高い俸給で引き抜いた若手。三人がかりで、それでも、一台のピアノフォルテすら完全には整わなかった。
老職人は、ピアノフォルテの弦は張ったが、管楽器の温度補正は知らなかった。
中年の男は、管楽器は扱えたが、大鐘の倍音調整などしたことがなかった。
若手は、鐘を見たとたん、「これは三十年の仕事だ」と言って足場に登ろうともしなかった。
三人は互いに責任をなすりつけ、楽団員は練習のたびに「今日も音がおかしい」と不満を漏らした。楽団長は夜ごと机で頭を抱え、けれどアロイス殿下に事実を告げる勇気がなかった。告げればたちまち自分の首が飛ぶ。戴冠式の責任者は楽団長だからだ。
——明日、なんとか、合奏でごまかせればいい。
そう祈った夜、楽団長は眠れず、朝を迎えた。
式が始まった。
弦楽の前奏が流れ始めた。基音が半音下がっていた。竪琴の響きに濁りが混じった。演奏家たちは必死に合わせようとしたが、楽器そのものがずれているため、合奏は成立しなかった。最前列の貴族たちが、互いの顔を見合わせ始めた。
管楽器群が加わった。フルートとホルンは、別の音階にいた。気温補正がされていない。合奏前に、誰も一人ずつ温度補正をかけていない。フルートの奏者は、必死に唇の形を変えて音程を合わせようとしたが、管そのものがずれているので、どれだけ唇で調整しても追いつかない。ホルンは低く唸り続けた。
聖歌隊の合唱と、オルガンがずれた。基音の不一致。司教が唱和を始めると、大聖堂の天井で音が渦を巻き、言葉が意味を失った。三十六人の聖歌隊の声が、五つの別の音階に分かれて空中で衝突した。大司教の口元がわずかに震え、唱和の言葉が一瞬、止まった。
貴族席のある若い令嬢が、隣の母親にこっそり囁いた。「お母様、これ、変じゃありませんか」。母親は鋭く制した。「黙っていなさい」。けれど母親の表情も、凍りついていた。
そして——
戴冠の瞬間、大鐘が三回鳴った。
ゴオン。ゴオン。ゴオン。
倍音が濁り、不協和音が大聖堂全体に沁みこんだ。一回目の鐘で、大司教の手が王妃の額の上で止まった。二回目の鐘で、王太子が軽く眉をひそめた。三回目の鐘が鳴り終わるまでの間に、参列者の表情が凍りついた。王族、諸侯、大司教、そして諸外国の大使たち。
隣国の大使は、堪えきれず、つと席を立った。彼の国では、音の乱れは統治能力の乱れを意味する。大使の随員三人も、続いて立ち上がった。彼らは無言で、大聖堂の扉のほうへ向かって行く。その背中だけで、王国の国威が一段、崩れた。
アロイス殿下は蒼白になられた。戴冠式の国威そのものが、今、崩れていく。母である王妃の晴れ舞台で。しかも、それを主催している自分の目の前で。
殿下は椅子の肘掛けに爪を立てたまま、最後まで式典を見届けるほかなかった。王妃への誓いも、大司教の祝福も、耳の上をただ滑っていく。
式が終わり、参列者が大聖堂を退く頃、殿下はようやく控え室に戻り、楽団長を呼びつけた。
「楽団長、なぜだ。何が起きている。我が楽団は世界一ではなかったのか」
「……殿下」
「答えろ」
「殿下……三ヶ月前から、楽器の調律を、誰も、出来なくなっておりまして」
「何を馬鹿なことを」
「王立音楽院の長老は既に引退しており、後任は育っておらず、王都の職人工房にも、替わりを務められる者がおりません。私は三人の調律師を新たに雇いましたが、ピアノフォルテは整えても竪琴が整わず、竪琴を整えても管楽器が整わず、管楽器を整えても大鐘が整わず——」
「では今まで、誰がやっていた」
楽団長は、ゆっくり膝をついた。
「……ヴァンシェル侯爵令嬢が」
「エレナが?」
「ピアノフォルテの弦張り替えも、竪琴の張力補正も、管楽器の温度補正も、大鐘の倍音調整も。十二年間、一人で。あの方の去られた後、どれひとつ、代わりを務められる者がおりません」
「……」
「殿下、あの方の耳は——この国の、基音そのものでございました」
アロイス殿下は、その場に座り込まれたと、後に聞いた。
それから数日して、一通の手紙が、辺境のわたくしの工房に届いた。
差出人はアロイス第二王子殿下。内容は懇願だった。「戻ってきてくれ」「この国の音を救ってくれ」「お前の耳を侮った私を許せ」。文字は震え、インクが滲んでいた。
クラウス様は、わたくしが手紙を読み終えるのを、暖炉の前で静かに待っていらした。
読み終えて、わたくしは手紙を封筒に戻し、封筒ごと、暖炉の火にくべた。
紙が一瞬、明るく燃え上がり、黒くなり、灰になった。
クラウス様は、何も言われなかった。
ただ、新しい薪を一本、静かに足された。その仕草は、三ヶ月前に父が黒い革鞄を机に置いた時の手つきと、どこか似ていた。
わたくしは、暖炉を見つめたまま、小さく言葉にした。
「音は、耳のある者にしか聴こえませんのよ」
クラウス様は、薪の位置をもう一度だけ整えてから、わたくしの横顔を見た。
わたくしは続けた。
「調律は、愛されない仕事ですから」
クラウス様は頷かれた。そして、手のひらを、わたくしの手の甲の上に、そっと重ねた。
冷えていた指が、ゆっくりと温まっていく。
次の日の正午、わたくしは城下町の教会の鐘楼の下にいた。
クラウス様が隣にいる。わたくしが先月調整した、倍音の整った鐘。
時計の針が十二に触れる。鐘が鳴った。
ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。ゴオン。
十二回。正午。
基音の上に、五度と三度の倍音が澄んで乗った。音の柱が空に立ちのぼり、ゆっくり広がって、城下町の屋根を撫でていった。
広場の人々が空を見上げた。パン屋の奥さんが両手を止めた。子供が真似をして「ゴオン」と鼻歌を歌った。老婆が息を吐いて笑った。
「——聴こえます」
クラウス様が仰った。
わたくしは、小さく頷いた。
そして、十二年で一度も出さなかった種類の吐息が、喉の奥から抜けていった。頬に一筋、冷たい涙が伝った。——悲しみではなかった。悔しさでもなかった。
それは、解放の涙だった。
数日後、クラウス様とわたくしの婚約が、辺境のちいさな発表として、静かに交わされた。父ヴァンシェル侯爵は、わざわざ八日かけて辺境まで足を運ばれ、鐘の音に目を細められ、「この音の下で暮らすお前は、幸せだろうな」と仰った。そしてクラウス様の肩に手を置いて、「娘の耳を、大切にしてくれ」とだけ言われた。
王都では、今も不協和音が響いているらしい。戴冠式の後、宮廷楽団は演奏会の回数を大幅に減らしたが、それでも音は整わない。アロイス殿下はしばらく公の場に現れなかったと、風の噂に聞いた。
——けれど、それは、もう、わたくしには関係のない話だった。
わたくしは振り返らない。
わたくしの鐘は、今日も、狂っていない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「Tier S 裏方型 × 静かな離脱型」の王道ストーリーです。令嬢が何もしなくても、ただ「いなくなる」だけで加害者側が自壊する——このパターン、ベタですが、だからこそ気持ちいい。エレナは一度も復讐していません。王都に戻ることもないし、手紙の返事すら書かない。ただ暖炉にくべるだけ。それで十分なんですよね。
核心の台詞「音は、耳のある者にしか聴こえませんのよ」は、音に限らず、あらゆる「見えない仕事」への応答として響いてほしかった言葉です。調律師という職業は実在しますが、彼ら・彼女らの名前は舞台に残りません。拍手は演奏家に向かい、調律師は控え室で鍵を拭いている——その構造そのものに、わたしは敬意を込めたかった。アロイス殿下のような人は、現実にもたくさんいます。演奏家に感嘆する自分を愛して、演奏を支える職人を「飾り」と切り捨てる人。そういう人の「耳」は、永遠に育ちません。
クラウス様を書くのが一番楽しかったです。彼は「あなたの耳は誰にも代われない」と、たった一度しか言わない。でも、薪をくべる手つき、皿を温めておく仕草、隣に立って黙って鐘を聴く姿——全部が同じことを言っている。言葉より先に行動でエレナの価値を肯定する男。そういう人と並んで生きていけたら、きっと世界の音はずっと静かに整うのだと思います。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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