第三話 「グレイン・オルテン」(2)
「あ、もう終わったんだ。じゃねー、グレイン」
「は、はい」
一曲を終え、膝をつきたくなるほど消耗していた。
肩で息をしたい。くそ、こんな状況で何を掴めたのかさえ分からない。
無策で挑んだからか? やはり何かしら策を構築してから臨むべきだったか?
一周目の記憶にある姫殿下は、もう少し品格というものがあったような気がする。少なくとも、常識はあった……はずだ。
周囲では生徒が各々のペアを探し、次の曲を待っている間に雑談をしていた。
俺の横を通り過ぎる中には、同情めいた視線を寄せてくる者までいた。
くそ、醜態を晒した。
「随分とお疲れのようですわね。その有様で次が躍れるので?」
聞き慣れた、しかし憎悪を禁じ得ない声。
わざとらしくため息をついた女は、感情を隠さずに言った。
「……ガーウェンディッシュ嬢」
「王女殿下に苦労されたそうですね、オルテン家令息様」
振り返れば、クソ女がいた。薄銀の髪を髪飾りで留め、白のドレスをまとい、胸元には羽ペンを模したブローチをつけていた。
第一王女とは異なる意味で畏敬や憧憬の視線を集めるこいつは、早々に嘲笑するような顔つきだった。
「姫殿下の独創性には、いつも驚かされるばかりですので」
できる限りの平静を装って、口角を上げる。こんなところでこの女と口論するわけにもいかない。
俺の逃亡計画破綻要因の一人。憎むべき女。大貴族でありながら多くの同胞を売り、国の特権階級に居座っていた奴らを消し去った民の功労者。俺の協力者や亡命ルートは、すべてがこいつの暴露によって瓦解した。
あの悪夢のような日々は思い出したくもない。計画の崩壊を目の当たりにし、潜伏先で頭を抱え追い詰められる恐怖や焦燥を、こいつには百回ほど味わわせてやりたい。
「手を取ってくださらない? 二曲目が始まりますわよ」
艶やかな指先を差し出してきた令嬢は、義務を果たすための嫌々な態度だ。俺だってやりたくない、お前となんてな。できることなら前世の恨みを魔法に込めてぶち込みたい。
感情を出すわけにもいかず、無言でその手を取った。ピアノから旋律が再び流れ出した。
踊り始めて、すぐに気づいた。
姫殿下とは比べものにならないほど、踊りやすい。あの王女と比較すれば誰でも人間らしいダンスはできるだろうが。
まるでシャンデリアから垂らされた糸に操られているように、指先に至るまで神経を通わせた踊りだった。ステップは正確、リズム感も申し分ない。控えめに見えて、随所で主導権を握っている。優雅で、繊細で、自らの魅せ方を理解している。
自分のペースを保てる。息が合う。確かな技術がこいつには備わっている。
やはり、この女。以前とはまるで違う。
最近の噂が脳裏をよぎる。ドリル・ホールの騒動で令嬢が教師とともに被害を抑えた話。表向きは教師の手柄にされているが、現場にいた生徒の証言では、この女の名も繰り返されていた。
一周目では見た目と家柄しか取り柄のなかったはずが……今や気配りを絶やさず、修練を怠らず、模範的な貴族として評価されている。密かに支持を集め、称賛されている。周りなど自分を引き立てるための置物だと認識していたようなこいつが、だ。
この一年を通して、何度も疑った。
まさか。こいつも、俺と同じか?
自問に対する答は、未だに曖昧だ。違うとも、そうだとも言い切れない。そもそもの話だが、この二度目の人生が一度目と全く同じという保証はないんだ。親や家の使用人の行動ひとつひとつなど鮮明に覚えていないが、以前と同じと言われればそのような気もする。
姫殿下にしても、一周目とはかなり印象が異なる。いや、同じか? わからない。人型をした災害など、人間が読み取れる存在ではないからな。
様々な推測をしてきたが、この世界は、過去をなぞるだけのものではない。現時点ではそう結論づけた。
あの女の性格を思い返せば、仮説は成り立つ。傍若無人を背で語り、傲岸不遜を顔に張り付けていたような女が、一度の死でここまで変わるとは到底思えない。
目の前の女は、何というべきか、同時代の同姓同名でありながら別人のガーウェンディッシュということなのだろう。旧知の仲であるこいつの婚約者でさえ、一周目とは異なる雰囲気を纏っていた。
かつての人々と、この世界の人々は、同じようでいて多少の差異がある。同じ曲が流れようと、同じ踊りはできないように。
これを念頭に置けば、目の前の令嬢に一周目の女を重ねることは筋違いともいえる。この女……この人はこの人で、自らの人生と向き合って歩んできたのだ。
だが。だが、しかし。
理解と寛容は別物だ。前世の馬鹿女の所業は容易く水に流せるものではない。知人友人、親族に至るまで、この女の密告で命を散らしていったのだ。
恐らくは人格だけが異なる女の、過去と現在の乖離を受け止めるには、まだ時間がかかりそうだ。
「ガーウェンディッシュ嬢は実に優雅に舞われる。何か秘訣がおありなのでしょうか」
「別に、日々の賜物がそのように見えているのでしょう。これぐらいは何でもありませんわ。王女殿下のお相手で疲れ果てたパートナーを慮った振る舞いぐらいは。少々、いえ、だいぶ張り合いには欠けますけれど」
「……貴方も姫殿下と踊られてはどうでしょうか。他者の苦労を一片は理解できるやもしれません」
「残念ながら、今回は同性の組み合わせはありませんので。聞いていらっしゃらなかったかしら? それに、私は王女殿下と一舞した後でも続けて十人と踊れますから」
「俺にはそれだけの体力が無い、と?」
「あら、そう聞こえましたか?」
こいつ、この女。やっぱり一度目の記憶をもっているんじゃないのか。周りの目は変わろうと、本性は変容しないらしいな。周囲の目が外れた一瞬を狙って魔法でもぶち込んでやろうか、クソ女。
決定だ。こいつが別人だろうと何だろうと、俺の憎むべき女であることに変わりはない。姫殿下の友人を気取りやがって……いや、姫殿下の友人などという称号は欲しくないな。混乱に巻き込まれるだけだ。
「ウグッ……!」
思考を吹き飛ばすような衝撃が、胴を貫いた。息が詰まり、視界が揺れる。何かが背後で爆ぜた。
甲高い悲鳴が空間に満ちたのは、一瞬の静寂の後だった。
「な、にが」
床に倒された俺は、顔だけを動かし原因を見やる。
それは、まるで巨大な水晶の塊が、空中で砕け散るかのような、そして幾千ものガラスが擦れ合うような、不気味な響きだった。クリスタルの破片が、凄まじい破壊音を中心にして飛び散っていた。
ようやく事態を理解した。天井に吊るされていたはずのシャンデリアが、落下したのだ。
数秒遅ければ、荘厳な輝きを放っていたものに潰されていた。絢爛な空間に、俺とガーウェンディッシュの命が、無残に横たわることになっていた。
「大丈夫!?」
俺たちを身体ごと突き飛ばすように覆いかぶさっていたのは、薄赤いブロンドを揺らす人物だった。普段は勝手気ままで型破りな行動ばかりしている姫殿下が、動揺を隠さない表情を浮かべていた。この人も、人間らしい一面はあったんだな。
「怪我は、なさそうだね。よかったぁ」
「あ、ありがとう……」
安堵の声を漏らす姫殿下に、絞り出すように伝えたガーウェンディッシュ。この女も呆然と王女を見ていた。自らに起きた出来事、それに割り込んできた姫殿下の行動を、まだ信じられない様子だった。
「とっさのご行動に、救われました。姫殿下。御恩は一生、忘れません」
立ち上がった俺は、深く、頭を下げる。計画云々は抜きにして、一人の人間として感謝は伝える。当然のことだ。
誰一人、大きな怪我はなかった。せいぜい、転倒時に服が少し汚れた程度だ。
だが、引っかかる。
「……あれの落下に、よく気づかれましたね?」
「なんか、変だと思ってたんだよね」
あれほど早く行動に移せるものなのか。姫殿下の仕組んだこととは到底思えないが、念を入れて俺が問うと、姫殿下は迷いなく答えた。
そういえば、天井をずっと見ていたな。あれは、退屈しのぎでもなければ気まぐれな視線でもなかったということか。そうだ、俺とのダンス中にも、視線は上を向いたままで、シャンデリアの落下地点から徐々に距離を取っていたようにリードされていた。
王族の危機感知能力が働いたのか、姫殿下の直感か。ともかく、俺たちは助けられたのだ。
「ずうっと上を向いてたから、疲れた〜」
首をコキコキと回し呑気な口調に戻った王女に、もう一度礼を述べようとしたが、その前に教師数名が慌てて駆け寄ってきた。




